第5話 これ、今日中に終わるのか?
衝撃の調律から三ヶ月が経過した七月末、俺は市内の中学校を訪れていた。
先月末、中学校から直接店の方にピアノの調律依頼があったのだ。
この辺りの公立学校のピアノ調律は入札によって業者が決まり、時期も二月から三月……どんなに遅くても新学期までと相場は決まっているため、夏休みに入ったばかりのこの時期に飛び込みで依頼が来るのは珍しい。よほど困ったことが起こったか、何等かの事情で調律の時期がずれたかのどちらかだと思われた。
学校ピアノは調律の価格の低さからか、手抜きする業者も中にはいて、酷い状態で放置されていることが多い。
今回の依頼も『ピアノの調子が悪いので、調律をお願いしたいが、この際だから体育館と音楽室のピアノ二台とも見てほしい』という内容だった。
電話で話を聞く限り、あまり良い予感はしなかった。音楽室はともかく、体育館はエアコンがないだろう。蒸し風呂状態での仕事はほぼ確定。季節的なものも考慮して調律する必要がある上に、二台の対応となると、一日がかり……或いは、一部を持ち帰って翌日再訪問という可能性だってある。
どうする? と言外に芝さんと顔を見合わせた結果。
『あ、俺、その日歯医者に行かなきゃならなかったんだ』
嘘か本当か分からない、先輩調律師のやんごとなき事情によって、俺が訪問することが決定した。
九時過ぎに学校に到着すると、若い音楽教師が対応してくれた。夏休みということもあるのか、教師らしからぬフリフリのシフォンのブラウスを着ていた。やたら声が高くて、甘えたような喋り方をする先生だった。
最初に案内されてやってきたのは体育館だ。
ジージーと蝉の声が壁や天井から染みてくる上に、クーラーのない体育館は立っているだけで汗が滝のように流れ落ちてくる。開け放たれたドアや窓から時折風が吹いてはいたが、それもこの暑さの中では焼け石に水だった。
ステージ向かって右側には校歌が収められた大きな額縁、そして左側に国産のグランドピアノがあった。
ピアノの屋根は右側――高音部側が開くように設計されているので、ステージに乗っているかいないかの差を除けば、どの学校に行ってもそこがピアノの定位置だった。
ピアノに向かって歩きながら、ステージ上部にある一文字幕に描かれた校章を見上げる。
これと同じ物を四月にも見たんだよな……
たっぷりと湿気を含んだ嫌な空気とともに思い出すのは、野宮陽夏のことである。もう二度とあの家の門をくぐることはないと縁を切ったはずなのに、昨日、俺は再び野宮家のインターホンを押していた。
シュタイングレーバーの弦が切れたので至急対応してほしいと東京に出張中の近藤さんから電話がかかってきたのだ。
『何であんたが来るの? 俺は、近藤さんに頼んだはずだけど?』
玄関先に出てきた野宮陽夏は犯罪者を見るような目で俺を見下ろしてきた。
失礼極まりないガキでも顧客である以上、俺は精一杯の営業スマイルで応対した。他ならぬ、近藤さんの顧客であればこそ。
『近藤は明後日まで出張です。取り急ぎ、応急処置だけでもしておくようにと言付かっています。作業も二十分程度で終わりますので……』
三ヶ月前のことなどもう気にしていませんと、大人の対応で、極力穏便に、控えめに伝えながら相手の出方を待つ。
当然だが、心の中では思っていた。
お前もピアノ弾いてるんだから、弦が切れたらどれだけ大変か分かるだろう?
こんな事態を想定して、近藤さんはサブ要員を育成しようとしていたのだ。芝さん然り、俺然り。それを難癖つけて拒否してるのはお前の方だ。
喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで俺は根気強く説得を試みた。
『早めに対応すればそれだけ早く音も馴染みますので……』
別に俺たちが近藤さんにとって代わるわけでもないし、陽夏の専任になるわけでもない。
ピアノのメンテナンスを拒否して、どれだけピッチが下がろうとタッチが悪くなろうと、我慢さえすれば演奏はできるだろう。
しかし、弦が切れたとなれば話は別だ。
修理する以外の選択肢などあるわけがない。俺が嫌々ながらも再びここまでやって来たのは、上司の面子の為だけではない。あの素晴らしいピアノのためでもある。
さすがに断られることはないだろう、と思ったのだが……野宮陽夏は黙ったまま、固まってしまった。
『……弦の張替えは調律師でないと無理だと思いますが?』
やんわり、それとなく促してみたところ、
『…………だったら、近藤さん帰ってからでいい』
あろうことか、陽夏は恨みがましい視線を俺に向けながら、バタンとドアを閉めてしまった。
頭でプツっと音がして、何かが切れた。
『コラ!!! 駄々捏ねてんじゃねぇよ! 弦の切れたピアノなんて放っとけるわけないだろ!』
気づいたら、俺はドアの前で叫んでいた。
『いいからあっち行け!』
負けじと陽夏もドア越しに言い返してくる。
『張替えしたからってすぐ直るわけじゃないからな! 音が安定するまでどれだけ時間かかると思ってんだ!? 半日でピッチが下がるんだぞ!』
『うるさい! さっさと帰れ! 警察呼ぶぞ!!』
警察呼ばれて困るのは傷害事件を起こしたお前の方だろっっ!
売り言葉に買い言葉、とはまさにこのことで……
ああああそうですか!!
そこまで言うなら、好きにすればいい!!
ピアノに対する申し訳なさはあるものの、これ以上は無理だと判断し、事の次第をメールで近藤さんに知らせた。
近藤さんからは『分かりました。カラ出張になって申し訳ない。戻ったら対応します。』という内容のメールが届いた。
ただでさえ多忙な近藤さんの仕事がまた一つ増えてしまったのだ。
本当に、ほんっっっとうに、何なんだ、あのガキンチョは!
思い出してもロクなことがないが、思い出さずにはいられない。
多大なフラストレーションを抱えたまま、今日はクーラーも効かない室内で学校ピアノ二台の調律である。この際だから、昨日のイライラは全てここのピアノにぶつけようと、気を取り直して俺は鍵盤蓋を開いた。
ピアノの調律というと、チューニングハンマーを握ってポンポン鍵盤を慣らしているイメージを持たれがちだが、実はそれだけではない。
八千個から一万個とも言われる部品を組み合わせて作られたピアノには、主に三つの作業が必要だった。ピアノの
予想通り体育館のピアノは酷い有様だった。
レットオフは余裕の十ミリ。ハンマーの弦跡も深く音がぼやけている。整調、整音についてはほぼ手付かずの状態で、それに加え一つだけ、妙な唸りを持った音があった。
これは、一本唸りと言って一音だけで唸りが発生している状態だ。原因が判明すれば良し。弦そのものに原因があれば張り替え対応するしかない。
「マジか……」
問題山積のピアノなら、せめて通常やるべき作業だけはキチンとやっておいてくれないものだろうか。
「ってか、これ、どんだけ手抜きしてんだよ……」
どうりでウチに飛び込みの依頼がくるわけだ。
ピアノを上から覗きながらもう一度静かに鍵盤を押す。
鍵盤の動きに合わせてハンマーが持ち上がり、ある部分まで上がるとカタンと力が抜けてしまう。これはピアノの音を綺麗に響かせるための仕組みだった。
ピアノはハンマーが弦を叩く事で音が出る。しかし、弦に触れたままハンマーが止まってしまうと音が響かないので、ハンマーは弦を打った後、素早く弦から離れる必要がある。
この接近距離がレットオフなのだが、メーカーによって規定は様々あるものの、概ね一ミリから三ミリで調整されるものと決まっていた。
レットオフが近過ぎればハンマーが弦に触れたままの状態になり音は響かない。逆に広過ぎると鍵盤からの力が充分に伝わらず、音抜けの原因になってしまう。十ミリなんていうのは論外だった。
八十八の鍵盤全てのレットオフ調整にハンマーのファイリング……まだ一台目だというのに、やることが多すぎる。
これ……今日中に終わるのだろうか?
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