第3話 君とは付き合えない
すったもんだの挙句、職場に戻った頃には定時を過ぎていた。
今日は新入社員の歓迎会が予定されているので、皆定時で仕事を切り上げたのだろう。店舗も店舗の裏にあるピアノ工房も電気が消えていた。
歓迎会の会場は、店から徒歩十分ほどの場所にある馴染みの居酒屋だった。
一旦工房に戻って近藤さんを送り出し、事務処理と片付けを終えてから会場へと向かった。
「高槻さん、遅いー!」
予約していた個室に案内されると、さっそくショートボブの女性が声をかけてきた。一時間弱の遅刻であったが、既に皆いい具合に出来上がっていた。
「うわー……もう酔っぱらってるわけ?」
毎度毎度の光景に、苦笑する。
彼女は店舗に勤務する後輩の加藤だ。社交的で愛嬌のある彼女は、大橋楽器店のマスコット的存在だった。大きな瞳と小さな鼻が愛らしく、いつもちょこちょこ動き回っているので、なんとなく小動物を連想してしまう。
加藤は随分酔いが回っているらしく、俺に向かって手を振りながらフラフラしている。隣席にいる同期の社員が不安げに彼女を見守っていた。
「高槻さん、早くこっち来てくださいよ。加藤がくだ巻いちゃって大変なんですから……」
「俺、ゆっくり飯食いたいから。加藤のことはよろしく頼む」
後輩の申し出に断固として首を振り、俺は工房勤務者が集まる隅っこの席へと移動した。
「お疲れ」
席に着くと隣から、労をねぎらう声とともにビール瓶が差し出された。
大柄な体躯に人の良い笑顔を浮かべてこちらを見ているのは、先輩調律師にして大橋楽器店ナンバー2の芝さんだった。
俺は伏せられたままのコップを手に取り、それを受ける。
「ありがとうございます」
「……ん? なんか湿布の匂いがする」
ムクムクと盛り上がってきた泡がコップの縁ギリギリのところで止まった。
「ああ。俺です」
百聞は一見に如かずで、右腕を捲って見せると、芝さんは途端に顔を顰めた。
「どうしたんだそれ? 何かあったのか?」
「咬まれました」
「は?」
芝さんがポカンと口を開いた時、離席していた近藤さんが戻ってきた。
「今日、野宮君のところでね」
「あー……」
その一言で全て納得したらしく、芝さんは二度三度と頷いた後グラスを手にし、向かいに座る近藤さんを促すようにちょいっと頭を下げた。改めて三人で乾杯し、俺は一気にビールを流し込んだ。時間が経って冷たさは半減していたが、それもで美味しいと思える程度には疲れていた。
「調律で噛み付かれるなんて前代未聞ですよ。しかも、ガムテープ貼られそうになったんですよ」
ここに、と言って湿布を張った腕を見せると、芝さんは途端に吹き出した。
他人事だと思って、と一瞬恨めしい気持ちにはなったが、考えてみれば芝さんもあの家で調律を拒まれた被害者の一人だった。
近藤さんはため息をついて、コクリともう一口酒を飲む。
「抵抗されるだろうとは思っていたけど、まさかここまでとは……」
「俺の時はパンチングクロスが宙を舞ってましたもんね」
その光景を再現するように芝さんは両腕を天井に向かってぱっと広げた。
どこか楽しげに当時を振り返る芝さんの言葉を聞いて、通常の仕事では絶対に発生しないであろう、その状況が頭の中に浮かんできた。
どうせ『俺のピアノに触るな!』とか言って、暴言吐きまくったんだろう。
五円玉に似た穴の開いたフェルトが宙を舞う姿がありありと想像できる。
「完全にブラックリストじゃないですか」
「いやもう、君たちには本当に済まないことをしたと思っている」
近藤さんは神妙な顔で言って、俺と芝さんに頭を下げた。
「まぁ、でも仕方がないですよ」
近藤さんから直々に謝られて許さないわけにはいかないのだが、芝さんは随分諦めが早い。パンチングクロスをぶちまけられた上に、「でもね」な理由で調律を拒否されたというのに、その点もすっかり納得できているのだろうか。
「なかなかないですよね。パンチングクロスが舞う現場」
「なかなかどころか、絶対にありませんよ。笑ってる場合じゃないですって、芝さん」
「まぁまぁ、高槻君。あれ、パンチングペーパーだったら回収するのもっと大変だっただろうから、フェルトで良かったと思わなきゃ」
随分なことをされているにも関わらず、緊張感の全くない二人の会話に思わず笑ってしまう。まぁ、それぐらいの余裕がなければ野宮家の調律などやってはいられないのかもしれないが。
「どうして逃げるんですか、高槻さん」
「あ、加藤」
ゆらりと背後に気配を感じたと思ったら、酎ハイのジョッキを持った加藤が立っていた。
「ほらほら、こっち来い」
加藤を娘のように可愛がっている芝さんが横にずれ、彼女が座るスペースを確保する。
三度目の乾杯をした後、俺は皿の上にあった唐揚げを皿に取った。
「加藤さーん。置いて行かないでくださいよー」
そして、加藤に続いてもう一人。今年から店舗勤務となった新入社員の女の子がやってきた。
ひっそりとしていた席が途端に華やぎ、年配の職人さんたちはそんな俺たちを遠巻きに見ながら、隅の方でびちびと酒を飲み始める。
「あれ? 何か湿布の匂いがしません?」
本日二度目の質問に、芝さんが笑う。
「高槻だよ。調律に行って噛まれたんだって」
「噛まれた? 犬か何かいたんですか?」
新入社員のその言葉に、近藤さんも声を出して笑う。
「まぁ、そんな感じかな」
「犬はパンチングクロスをぶちまけたりしませんからね」
「犬じゃないんですか? え? パンチング……?」
どうやら、こちらもかなり酔っぱらっているらしい。新入社員がフラフラしている首を傾げた。
「パンチングクロスね。鍵盤の高さを調整したりするんだよ。こんな風に穴の開いたフェルトが鍵盤の下に入ってんの」
芝さんは親指と人差し指で輪を作ってみせながら新入社員に説明する。
「…………鍵盤の下って、あれ全部ですか?」
「そうだよ。八十八個全部ね」
酔っぱらっている彼女にどこまで伝わるかは不明だが、一応俺も補足する。
「えーっと、それを犬が噛んで…………」
「違うよ、澤ちゃん。犬は高槻さんを噛んで……」
この会話を聞いていた加藤が、ケラケラ笑いながら澤の腕を叩く。
「違う違う! 犬みたいな人間が俺の腕に噛み付いたって話。パンチングクロスは芝さんの方。犬とパンチングクロスは別の話」
「え? 高槻さん噛み付かれたんですか? 大丈夫なんですか?」
振り出しに戻った!?
相当酔っぱらってるなぁ……この二人。
俺はグラスに残ったビールを飲み干し、厄介な酔っ払いリストに二人の名を刻んだ。加藤が酔っぱらうのはいつものことだが、今年からはもう一人要注意人物が登場したようだ。
「大丈夫じゃないよ。青痣になってる。ってゆーか、ネットがないからって湿布の上からガムテープ貼られそうになった」
「きゃははは! 何ですかそれ!? かわいそー」
「ガムテープ貼られても、労災って降りるんですか?」
もはや何を言っているのか分からない。しかも、二人で笑いながら可哀想がられても、あまり説得力はない。
「高槻君、今日は思う存分飲んでいいから」
近藤さんが飲み物のメニューを渡してくれたのだが、確認する前に隣から手が伸びてきて、奪われてしまった。
「澤ちゃん何飲む?」
「あ、私、カルアミルクお願いします」
「高槻さんは?」
「芋の水割り」
「あ、俺も焼酎飲むから、もう、ボトル入れようか」
芝さんと女子二人がワイワイと相談しながら、元気よく店員を呼ぶ。
問題の多い一日ではあったが、終わりよければすべてよしとしよう。
***
宴会は二時間ほどで終わり、その後場所を移動して二次会が開かれた。午後十時を回ったところでお開きとなり、三々五々に帰っていく社員の中で、俺は例の如く酔っ払いの世話係と化していた。
「お前、本当に酒飲んだ?」
「何言ってるんですか。ずっと一緒に飲んでたじゃないですか。芝さんどうやって帰ります?」
「あー、俺は嫁さんに来て…………」
「あー! もう、そこ、暴れるな」
歩道で騒いでいる新入社員と加藤を掴まえて引っ張ってくる。
「高槻さぁーん」
「はいはい。加藤はここで待機な」
がばーっと抱き着いてきた加藤と、加藤に抱き着く新入社員を軽くいなして、
「じゃ、芝さん、お疲れさまでした」
やってきたタクシーに二人を叩きこむ。
加藤にくっついていた新入社員は、十分ほどの場所で降車した。大分酔っぱらっていたようだが、マンションの前で別れたので、ちゃんと自宅には戻れるだろう。
次は加藤だ。
これまで何度もこんなことがあったので、加藤の家は知っている。
ぐったりとシートに体を預けた加藤は、それだけでは足りずに俺の方にもしなだれかかってきた。
「……ってか、なに? シップの匂いしません?」
「だーかーらー、さっきも説明した通り、今日、噛まれたんだって」
「ははは……調律行って噛まれるって何ですか?」
加藤が笑うと、肩のあたりでサラサラの髪が揺れる。甘い匂いに交じって服に染み付いた食べ物とアルコールの匂いが鼻を掠める。
「ピアノは最高だったけどな」
せめて一曲ぐらい聞かせてもらえたら少しは満足できたのかもしれないが、とてもそんな状況ではなかったし、あの後の混乱に紛れるように調律は終わってしまった。
「高槻さん、もう少し飲みませんか?」
体に伝わってくる振動と、少しトーンの落ちた声音で加藤が俺の方をじっと見ていることが分かった。
「飲みません」
車窓の風景から視線を外すことなく、極力平坦に俺は答える。
「いいじゃないですか。明日休みなんだし」
「疲れたのでもう帰ります」
「えー。たまには付き合ってくださいよ」
「そんなに飲みたいなら、澤と一緒に三次会に行けばよかったのに」
「もぉ~そうじゃなくてーー!」
肩のあたりをポンと叩かれる。
「分かってますよね?」
「何が?」
「意地悪!」
ああ……こういう雰囲気苦手だな……。
「……私のこと嫌いですか?」
嫌いではない。とてもいい子だと思っている。
でも、付き合うことは出来ない。
「今日は一段と酔っぱらってるな。言ってることが支離滅裂だぞ」
俺のことなんてさっさと忘れた方がいいよ、と心の底から思う。
加藤が俺に興味を持っていることはなんとなく分かっていた。店舗と工房で働く場所は違うが、加藤は頻繁に工房に顔を出すし、たまに一緒に飲みに行ったりもする。周りの人間もそのことには気づいているのだろう。今日みたいに、飲み会の席で加藤の世話をしろと呼ばれることもしばしばあった。
「茶化さないでくださいよ! あー、ムカついた。私も噛み付いちゃおうかな!」
ぶぅと頬を府絡ませて、しかし、冗談にしたい俺の気持ちを察してか、加藤もおどけた風に俺の腕をつかむ。
「きゃー! 労災申請しなきゃー!」
「もぉー……! 高槻さんっ!」
「ほら、もうすぐ着くぞ」
これ以上言ったら俺を困らせることがわかっているのか、ちゃんと逃げ道を残してくれている。
本当に、いい子なのに……もったいない。
結局うやむやなまま、加藤は自宅マンションの前でタクシーを降りた。
「もったないなぁ……」
一部始終を見ていた年配のタクシー運転手が、首を傾げながら言った。バックミラー越しに、眉を顰めた運転手と視線が合う。
「かわいい子だったじゃない。お兄ちゃん、彼女いるの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
「据え膳喰わぬは男の恥って、今時の子はそうじゃないのかなぁ。SNSとか、いろいろあるもんね。僕たちの若いころは、もうね、道端でナンパですよ。友達同士で、ちょっとかわいい子見つけたら、お前行けって」
運転手の言葉に苦笑する。
運転手はそれからも上機嫌に、自分の時代と今の若者の恋愛観がいかに乖離しているかをしゃべり続けた。本人は、実体験を元にした恋愛指南をしているつもりなのだろうが、俺には全く意味のない言葉でしかなかった。
BGMのように流れてくる武勇伝に適当に相槌を打ちながら考える。
そもそも女性は恋愛対象ではないんだ、と告白したらこの運転手はどんな顔をするのだろう?
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