第2話 野宮家の初期値

 俺の調律が気に喰わないのであれば、出禁でも担当替えでも何でもすればいい。言いたいこと言ってすっきりするならどんな罵詈雑言にだって耐えてみせる――それも仕事のうちであれば。


「ごめんなさいね……あー、やっぱり痣になってるわ……」


 くっきりとついた傷跡は犬歯が当たったであろう部分が二か所内出血していた。

 近藤さんと女主人のお蔭でどうにか陽夏の凶行から逃れ、手当のために通されたのは廊下を挟んで北側にある台所だった。


 台所……なんだよな……ここ?


 口には出さず、俺は周囲を見渡す。

 表のナュラル(?)ガーデンに引っかけてナチュラルキッチンでも作ったつもりだろうか?

 もはやこの家の住人に対する信頼は地の底まで失墜していた。いや。シュタイングレーバーがあるというだけで、勝手に住人に対してハードルを上げた俺が悪かった。それは反省している。

 ピアノ部屋ではなく、キッチン――つまりは、彼らの生活空間に足を踏み入れて理解したことがある。

 表の庭は、ナチュラルガーデンを模したものではなく、ただ手入れを放棄されただけの庭であること。そして、このアトリエにはピアノ部屋だけではなく、キッチンと必要最低限な生活空間が備わっているが、どうやらWHO憲章に抵触するほどの汚部屋であるらしいこと。

 そしてそんな状態が、この家の初期値であること。


 六帖ほどの狭いダイニングキッチンで綺麗なのは電子レンジの周辺と椅子の上だけだった。床には収納しきれなかった鍋やフライパンが転がり、小さなダイニングテーブルの上には、宅配ピザのチラシやその他諸々、電気代の検針票なんかが積み重なり、震度1の地震がきただけで崩れそうだった。


「え……っと、救急箱、救急箱…………」


 何がどこにあるのか、まったく把握できてないのだろう。女主人は手あたり次第に戸棚を開き、救急箱を探す。


「おっかっしいわね…………ここら辺にあったはずなのになぁ……」


 首を傾げながら俺の方を振り向き、


「ねえ、高槻君、そっちの棚探してくれない?」


 あろうことか、被害者である俺にも救急箱の捜索を依頼してきた。


「あの……大丈夫ですから、お気になさらないでください」


 痛みはあるが、腕は動く。骨にも筋にも異常はなさそうだ。


『何でこんなの連れてくるんだよ?』


 あの後、狂犬中学生はボロボロ泣きながら二人に抗議を続けた。


『近藤さん来るって言ったじゃん。俺のピアノ勝手に触らせるな……』


 調律がどうとか、シュタイングレーバーがどうとかいう以前の話だった。野宮陽夏が求めている調律師はただ一人、近藤さんだけなのだ。

 ひょっとしたら、俺は何人目かの調律師で、近藤さんにとってこのような出来事は既に経験済みだったのかもしれない。


「あ、あったあった」


 女主人がどこからともなく救急箱を引っ張り出してきた。埃をかぶった木の箱に鉄の取っ手がついた昔ながらの救急箱だ。


 大丈夫かなのだろうか? 一抹の不安が胸を過ぎる。


 ケホケホと咳をしながら埃を払い、女主人が蓋を開けると使いかけの薬や変色した絆創膏なんかが放り込まれていた。その様子にゾワっと悪寒が走った。


「あの……本当に……」


 大丈夫ですから……。


 しかし、手当を固辞しようとする俺を遮るように女主人は口を開いた。


「貴方で三人目なの、調律師」


 あまりにも自然な口調で言われたので俺は一拍置いて予感が的中したことを理解する。


「だいぶ前だけど、大橋楽器店の……こう、大柄な……」


「芝ですか?」


「そうそう。あの人も陽夏が拒否して……まぁ、私もちょっと違うかなって」


 断った? 芝さんの調律を?

 俺より十年以上のキャリアがある人だ。未だに分からないことがあると芝さんに相談することがある。そんなベテランを、しかも、あの狂犬のみならず二人で一緒にNOを突きつけたということか?


「彼も悪くはなかったのよ……」


 女主人は自分に言い聞かせるように言って、何度も頷いた後「でもね……」ポツンと零した。

 しん、と静寂が戻る。

 救急箱の底から出てきた湿布を取り出し、薄いフィルムを剥がす主人の言葉を待ってみたが、そこから先は沈黙が続いた。


 ――でもね――


 彼女は何を言おうとしたのだろう?


「……あのさ」


「はい」


 顔を上げた女主人と目が合う。

 疲れ切ってどんよりとした表情とは裏腹に眼鏡越しの瞳は、意外にも黒々と輝いている。正面から真っ直ぐに見つめられると何故か背筋が伸びた。

 芝さんの調律を断った理由を教えてくれるのだろうか。何か解れば俺にだって出来ることがあるかもしれない。

 期待して言葉を待つ俺に、女主人は言った。


「ここ、剥がれないように包帯巻いたりネット掛けたり何かするんだろうけど、そんなものなくて……ガムテープならあるんだけど……」


「何度も申しておりますが、大丈夫ですから。お構いなく」


 ほんっっっっっっとうに、この親子はよぉぉぉぉ!!



***


 どんな現場に出向いたって、ここまで疲れる調律はない――

 今年一番……否、今までの調律人生一の疲労感を覚えていた。

 初めてお客様の家を訪問した時ですらここまで疲れることはなかった。

 なんなんだ、あのガキ。

 心の中ではそう思っている。

 そして、怪我した俺にガムテープで治療しようとしたあの母親。

 ピアノ同様、あの親子も規格外だ。

 近藤さんが言う以上、二人とも耳が良いというのは事実なのだろうが、俺より経歴の長い芝さんの調律を蹴り、近藤さんに固執する拘りの強さはプロな顔負けだ。ただ、調律師にいちゃもんつけてストレス解消しているだけという可能性もなきにしもあらずだが、攻撃することでしか自分の不満を表現できないなんて中学生のやることではない。幼児そのものだ。

 近藤さんの手前、口には出さなかったが、頭の中はあの親子への不信感と不満でいっぱいだった。


 野宮邸から帰る途中、立ち寄った薬局の駐車場で、近藤さんから事情を聴いた。


『マホ君も耳がいいんだよ……駅前の音楽教室で講師をやっていてね……』


 女主人――野宮マホさんが言っていたように、俺の他にも二人の調律師があの家を訪問していた。

 最初は七年前。近藤さんの知り合いの調律師だ。しかし、野宮親子の要求に応えることができず、その話はとん挫する。

 そして、今から四年前。俺が大橋楽器店に入社する直前、ナンバー2の芝さんが訪問したが『でもね……』な理由で拒否された。

 そして、三回目の今日、もはや調律云々以前の理由で俺は拒否された。

 淡い茶色のふわふわした髪に、アイドル然とした愛らしい顔。それだけ見れば女子がキャーキャー騒ぐような王子様系アイドルに見えなくもないが、その実、作業中の調律師に罵詈雑言を叩きつけ、挙句の果てに噛み付く、トンデモ中学生である。


『芝さんはどうしてダメだったんですか?』


『……彼女が思った音色ではなかったんだろうね』


 何だか釈然としない回答ではあったが、要するにフィーリングの問題ということだろうか。近藤さんの音を聞き続けてきた人間が、他の調律師の音に違和感を覚えるのも無理からぬ話ではあった。そしてそこに強い拘りを持っている顧客であれば尚更、近藤さんの続投を希望するのは当然のことだった。

 ピアノにちょっと触っただけで烈火の如く怒っていた野宮陽夏。あんな状態で後任の選定などはっきり言って無理だ。しかし、あの家で、この先一体どれだけピアノの需要があると言うのだろうか。


『野宮君は、音楽の方で進学を希望しているんですか? この辺なら青城学園の音楽コースがありますけど……」


 結局、あの後試弾されることもなく、今日の作業は終わってしまった。野宮陽夏の実力も分からないままだ。


『うーん……』


 近藤さんはポリポリと頭を掻いて、黙り込んでしまった。

 聞いてはいけない質問だったらしい。

 俺が担当するお客さんの中にも、音高のピアノ科への進学を希望している女の子がいる。彼女は音大出身の講師に毎週レッスンを受け、去年地方のコンクールで入賞した。

 高校進学時点でピアノを視野に入れているのであれば……あまつさえ調律師を三度も蹴るほどこだわりがあってピアノを弾いているのであれば、あの中学生だって何かしらのコンクールに出場している可能性は大いにある。


 この世界で大成する人間は、小学生の時からその頭角を現しているものだ。

 楽器こそ違うが、世界的ヴァイオリニストである青柳真帆は小学校入学前に、その才能に注目が集まり、小、中学校時代は国内外の主要コンクールの賞を総なめにするような神童であった。

 最近は青柳真帆の話も耳にしなくなったが、当時の人気は絶大で、クラシックが社会現象になったほどだ。

 マホはマホでも青柳真帆と野宮マホでは天と地の差があり、ヴァイオリンにしろピアノにしろ、ちょっと人より上手く弾けるからどうこうなるという生半可な世界ではない。

 近年の主要コンクールにも野宮陽夏の名前はなかった。入賞はしているが印象には残らなかっただけという可能性もあが、そもそも入賞できてないというのが実際のところなのだろう。

 その程度の技術では……。

 頑張って音大……のためのシュタイングレーバーと調律師三人キャンセル?

 だとしたら、呆れた話だ。

 癖のある顧客とその保護者、そして癖のあるピアノ。

 近藤さんが顧客ファイルを自己管理するだけのことはある。

 いずれにせよ、そこまで拘りがあるのなら、頑張るだけ頑張ってみればいい。彼らの目標がどこだろうと知ったことではないし、俺はもう二度とあの家の敷居を跨ぐことはないのだから。


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