Cフラットの恋

畔戸 ウサ

第1話 ノミヤハルカ

「次の交差点を右、その先、目的地周辺です」


 ポン、と音がしてカーナビが反応した。

 俺はチラリと画面に目をやり、もう一度場所を確かめる。前方にある大きな橋から伸びた道路の先に、数件の家が集まった集落があった。和風建築が軒を連ねる中、たった一件だけぽつねんとレンガ色の建物が見える。

 きっとあそこが目的地なのだろう。何となくそう思った。

 調律の勉強を始めて七年、大橋楽器店に入社して四年目の春。上司にして、この道の大先輩である近藤隆志から今回の仕事の同行を命ぜられたのは一週間前のことだった。


『ちょっと難しいお客さんでね……』


 そう言って近藤さんが差した青いファイルには、これまでの対応履歴が丁寧に綴じられていた。几帳面な筆跡で事細かに作業内容が書かれたファイルは、会社のキャビネットでは見かけたことのないものだ。

 前回の調律は、去年の八月。作業の確認欄には筆記体でHULLKA NOMIYAの名があった。

 ハルカ、と読むのだろうか。

 しかし、その独特な名前の綴りよりも気になったのは、ピアノのメーカー――


『…………シュタイングレーバー、ですか』


 確認した瞬間、驚きと共に思わず声が出た。

 これは確かに、問題ありかもしれない。

 シュタイングレーバー=サーネは1852年創業のドイツのピアノメーカーだ。一台一台完全手作業で造られているため生産台数が少なく、海外にもあまり流通していない。日本ではあまり目にすることのないピアノだった。


『中古だけど、すごくいいピアノだよ。小型とは思えないぐらい良く鳴る』


『よく手に入れましたね』


 よほどの拘りがあったのか、ツテがあったのか……ピアノ購入を検討する中で国内メーカーや、スタインウェイサンズを差し置いて、いきなりシュタイングレーバーが選択肢に上がることはないだろう。中古ピアノであれば尚更、個体差が大きいので現物を見て吟味して購入しなければならない。

 それでも、近藤さんがこうやって太鼓判を押すと言うことは、よほどの品なのだろう。


『まぁね……いろいろとすったもんだはあったみたいだけど……どうかな? 高槻君』


『もちろんです。すごく興味があります』


 一も二もなく返事をすると、近藤さんは最初からそれが分かっていたかのようにふっと笑みを漏らした。やっぱりねと暗に言われたような気がして少しだけ恥ずかしくなった。


『君に調律をお願いしようと思っているんだ』


『え……? 俺が、ですか? 大丈夫ですか?』


 ファイルを確認する限り、ノミヤハルカさんの家にはおおよそ半年スパンで訪問している。これだけ頻繁に調律の依頼をかけていると言うことは、それだけピアノを弾き、音にも拘りを持っているお客さんということになる。

 珍しいピアノに加え、難しいお客さんという先ほどの説明。俺なんかがピアノを触っても大丈夫なのだろうか、という不安が胸を過る。


『この際だから、経験を積んでほしくてね』


 近藤さんは怖気づく俺を励ますように言った。

 この半年、近藤さんは俺や他の調律師に自分の顧客を紹介して回っていた。県外出張も多い近藤さんが不在の時でも、緊急時の対応ができるように、今後のことも考えてリスクを分散させたいとの話だった。

 近藤さんももうすぐ還暦を迎えるので、将来的な仕事の引継ぎも見据えてという意味もあるのだろう。顧客の何人かはすでに俺が担当し、昨年からはコンサート調律も経験させてもらっていた。

 俺が大橋楽器店に入社した日から近藤さんはずっと変わらない。

 惜しみなく自分の経験や技術を教えてくれるし、都合がつけば実際に現場に立ち会わせてくれる。俺や、他の調律師が落ち込んでいると叱咤激励することもあれば、肩を叩いて慰めてくれることもある。

 今回の顧客について俺に声をかけてくれたのは喜ぶべきことなのかもしれない。近藤さんが絶賛するシュタイングレーバーの音は是非とも聞いてみたい。しかし、それは同時にを引き受けることを意味する。これまで色々と要求の多い顧客を相手にしてき経験はあるが、仕事だけでなく、人間性も完璧な近藤さんが難しいと断言するのだから、よほどの顧客なのだろう。

 逡巡している俺に、近藤さんはいつもと変わらない優しい笑顔を向けた。


『心配しなくても大丈夫だよ。私もサポートするから』


『わかりました。来週ですね』


 心強いその言葉に、俺は今回の仕事を引き受けた。

 クセあり顧客は気になるものの、やはりシュタイングレーバーへの興味を押さえることはできなかった。創意工夫がちりばめられたピアノを……その中で眠るアクションを隅々まで見て、触れて確かめてみたい。


***


 調律という仕事を知ったのは小学生の時だった。

 三年生の時、家にあるアップライトピアノの調律を初めて見た。前板が外されたピアノの中には綺麗に並んだ鋼鉄の線と、アクションと呼ばれる打弦機構が収められていて、そこには見たこともない世界が広がっていた。

 整然と並ぶハンマーと複雑に入り組んだ木製の機械は、巨大な虫のようでもあり、意匠を凝らした建築物のようでもあった。俺は驚きとともにその美しさに呆然として不思議な動きをするアクションを食い入るように見つめていた。

 床に広げられた様々な工具で、先端にフェルトが巻かれたハンマーを一つ一つ整え、調律師が鍵盤を叩く度に変化していく音色に聴き入っているうちに作業は完了してしまった。

 俺があまりにも熱心に見ていたので、調律師も心を良くしてくれたのだろう。その時の調律師にピアノは鉄と木と羊毛で出来ているのだと説明され、俺は再び驚いて次の瞬間には「楽器の王様」と呼ばれる黒くて大きな楽器に魅了されていた。


 それからはピアノ一色の生活だった。街の図書館に行って片っ端からピアノの本を読み漁りそこから調律、音響、興味は色々な方向に広がっていった。高校の進路指導で調律科のある県外の短期大学に行くことを宣言し、短大卒業後は、地元に帰らず調律の仕事に就いた。


「そこだよ」


 近藤さんが指示した場所は、やはりあのレンガの建物だった。

 駐車スペースの前には、古びた門扉と荒れ放題の…………否、ナチュラルガーデンを模した庭があり、ポツポツと続く庭石の先に表札のかかった平屋の家屋があった。門を入って右側にあるアトリエ風の建物は、庭に面した部分が窓になっていたが、レースのカーテンが引かれていて中を伺うことはできなかった。


「さぁ、行こうか」


 調律道具を携えた近藤さんは錆びた門扉を開けると、アトリエに向かって歩き出した。

 てっきり日本家屋の方へ向かうだろう思っていた俺は、慌てて方向転換する。

 よく見ると、敷石こそないものの洋館の壁に沿って緩やかにカーブした獣道のような道が続いていた。

 そして、その獣道の終点にはコンクリートのエントランスと木製のドアが見えた。

 近藤さんが壁のブザーを押してインターフォン越しに挨拶すると、ほどなくしてこのアトリエの住人が顔を出した。


「いらっしゃい」


 雰囲気のある洋館と趣のある庭。一体どんな住人がいるのだろうと期待と不安が入り混じっていた俺は、あっさりとその期待を裏切られてしまった。

 ドアから顔を出したのは化粧っ気のない、スエット姿の女性だった。ボサボサの髪を一つに束ね、黒ぶちの眼鏡をかけた小太りの女性。歳は四十代……後半、ぐらいだろうか。


「……その子がこの前言ってた子?」


「そうですよ。高槻創平たかつき そうへい君」


「はじめまして。大橋楽器店の高槻創平と申します」


 若干の失望。しかし、悪いのは、建物や庭やシュタイングレーバーというキーワードで勝手に色眼鏡をかけてしまったこちらの方だ。

 そんなことはおくびにも出さず、俺は礼をして名刺を差し出した。


「ま、とにかく調律ね」


 入って、と女主人は踵を返し、俺たちを室内へ招き入れた。

 案内されたのは庭を望むレースのカーテンが引かれていたあの部屋だった。南に面した窓側にローテーブルとソファーセット、東側の壁には腰の高さほどの作り付けのキャビネットがあり、そこにはピアノの楽譜がずらりと並んでいる。

 そして、その手前、楽譜という沢山の従者に囲まれるかのように、シュタイングレーバーは鎮座していた。


「確認してみてくれるかい?」


 近藤さんに言われて、恐る恐るピアノの蓋を開ける。

 鍵盤に手を置き、いくつか音を鳴らすと、ゾワっと背筋に電流が走った。小型のピアノだとは思えないほど豊かで厚みのある音が響く。室内を満たす音は温かな波紋のようだ。

 なるほど。近藤さんが絶賛するだけのことはある。こんなに小さいピアノなのに、音の響きはフルコンサートにも引けをとらない。俄然興味が沸いてきて、俺は夢中になってピアノの状態をチェックした。

 ずっと近藤さんが専属で入っていただけあって、ピアノは丁寧にメンテナンスされている。ファイルにあったこれまでの対応履歴から想像した通り、一切の妥協がない玄人向きの調律が施されていた。

 ここまでがっつりピアノの性能を引き出してしまうと、繊細な指の操作にもピアノが反応してしまい、逆に扱いが難しくなる。裏を返せば、この女主人『ノミヤハルカ』さんの腕もそれなりのものだということなのだろう。


 近藤さんが言っていた『難しいお客さん』という評価に納得する。ノミヤハルカさんは部屋から出て行くこともなく、相変わらず俺たちの作業を見守っていた。品定めされているようで少し居心地が悪い。何か言われるとしたら、調律が終わった後だろうか。

 問題のピアノは全体的に音が少し下がっていた。ほかにも気になるところはちょこちょこある。


「ブッシングですかね……ここ、戻りが遅い気がします」


 ポンポンポンとその鍵盤を叩く。

 報告すると、近藤さんはにっこり笑って、ノミヤハルカさんに向かって目配せした。


「じゃ、庫内清掃から始めようか」


「はい」


 それから一時間余り。

 近藤さんの作業を手伝いながら、アクションのメンテナンスと整調を終えた。俺が気になっていた部分はやはり、埃がたまっていたらしく、鍵盤を止めるピンとその周辺に貼られたブッシングクロスを掃除することで問題は解消した。

 今度は、いよいよ調律の作業に入る。

 鍵盤からハンマーまでが一連になった打弦機構をピアノの中に戻し位置を確認する。


「調律に関してご要望や気になる点はありますか?」


「いいえ。貴方が思う通りにやってみて」


 漠然としたものでもいい。抽象的な表現でも、主観でもいい。音のイメージを伝えてもらった方が調律しやすいのだが、女主人は高見の見物を決め込むようだ。

 やっぱり試されているような……。

 でも、ピアノの持ち主がそう言うのであればやるしかない。

 音叉の波形にピタリと合わせた時に、頭に浮かんだのは濃くて温かみのある茶色だった。

 落葉樹の葉が幾重にも重なった山の地面。湿った腐葉土匂いに交じって、呼吸する木々が放つ生命の匂い。雨や風や太陽、自然の恵みを全身に受けながゆったりと静かな時間。誰に知られることもなく、自然の中で繰り返される森の営み……。

 一度調律を始めると、ノミヤ ハルカの存在は気にならなかった。ただピアノに寄つて対話をしながら、オクターブ、ユニゾンと一つ一つを丁寧に合わせて行く。整っていく音を肌で感じながら、コンマ何ミリ動きでハンマーを動かしていく。この瞬間が調律師にとって一番幸せな時間かもしれない。


「近藤さん、こっち来て」


 調律も終盤に差し掛かったところで、女主人が近藤さんを呼んだ。

 隣の部屋に続く扉を開けて近藤さんを手招きする。きっと、俺のことを話しているのだろう。ひょっとしたら、もう俺が調律に呼ばれることはないのかもしれない。

 でも、それでも構わないと思った。

 ここに、こんなに素晴らしいピアノがあることを俺は知っている。そして、近藤さんがいる限り、この音は守られて行くのだ。

 再び作業に取り掛かると、今度はバタンと玄関の方で音がした。


「………………誰?」


 突如、入口の引戸が開き少年が姿を現した。

 市内の中学校の制服を着ている。光の加減か、髪が栗色に光って見えた。温かみのあるその光の色がシュタイングレーバーの音に似ていると思った。

 そして、俺が一瞬気を取られた瞬間、


「*?∥♯$%**%!!!!」


 少年が何かを叫び、鬼の形相でこちらへ向かってきた。

 日本語ではない。英語ですらなかった。


「え? えっ? えぇっっ!?」


 何を言われたのか、何が起こったのか、こいつは一体誰なのか……混乱している俺を他所に、少年は怒りに顔を染め、目に涙まで浮かべてこちらへ近づいてきた。


「俺のピアノに触るな、っつってんの!!」


 惚けている俺に、今度ははっきりと聞き取れる言葉で少年が叫んだ。

 ほんの数秒の出来事だった。

 俺は、咄嗟にチューニングハンマーから手を離す。屋根を開けた状態のピアノと、チューニングピンに刺さったままのハンマー……あまつさえ、床には数々の工具が並べられているのだ。こんな場所で暴れたら少年か俺どちらかが、或いはピアノが怪我をしかねない。


 これ、シュタイングレーバーなんだぞ!! 分かってんのか!? チューニングピンだってそこいらのピアノとは物が違う。


「えっ!? もう帰ってきたのっっっ!?」


 騒ぎを聞きつけた二人が隣の部屋から姿を現した。

 しかし、突進してくる少年を説得する猶予はなかった。申し訳ないとは思いつつ、少年の胸倉を掴んで寸でのところで突進を食い止める。


「やめろ、危な…………っ――!!」


 危ないだろ!

 そう言おうとした矢先、腕に激痛が走った。

 俺の右腕に噛み付いた少年と目が合う。敵意むき出しの少年は尚も顎に力を込めた。

 調律を始める際、スーツは邪魔になるのでピアノの椅子に掛けておいた。ハンマーを持つ右腕もワイシャツを捲っていた。ノーガードの腕に、少年の歯が食い込んでくる。

 マジで痛い。こいつを殴ったら暴行罪になるだろうか? いや。正当防衛だろう。


「ハルカやめなさい!!」


 女主人が金切声で叫んだ。


「ハルカ君、落ち着いて!」


 どんな場面でも慌てた姿など見せたことのない、近藤さんが本気で焦っていた。

 そんな二人を見て俺はすべてを理解した。

 このピアノ……近藤さんが手塩にかけてメンテナンスしているシュタイングレーバーの所有者はスエットの女主人ではなく、この狂犬中学生『野宮陽夏のみや はるか』だった。


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