01:蜂谷抗には秘密がある

 蜂谷はちやこう。その名前は同級生の間では有名だった。

 高校最初の中間試験で普通科でありながら特別進学科特進科の生徒を掻き分け学年一位の座に輝いたことが彼女の存在を一瞬で広めたきっかけだった。高校なんて小さな箱庭。噂が広まるのに時間はかからなかった。

 蜂谷は知り合いが一人もいない高校に進学をしていた。狙っていたわけではないが家から遠くの高校を選んだ時点で自然とそうなっていた。入学してからも自主的にクラスメイトに声をかけるタイプではないため友人と呼べる存在を作れないまま昼食や移動教室を一人で行動していた蜂谷だったが、試験結果が話題になり声をかけてくれる同級生は増え、気づけば一目置かれる存在となった。


 一目置かれたのは彼女の容姿も関係している。

 スラっと伸びた背に似合う長い手足。ニキビや乾燥などを知らない綺麗な肌と唇。つり目から黒がのぞき、肩甲骨辺りまで伸びた黒髪は指を通しても引っかからないことが遠目からでも想像できるほどサラサラ。街を歩けば誰もが振り返る……とまでは言わないが、校内で男子の間で話題に上がるくらいには整った容姿をしていた。

 告白をされたのは一度や二度の話ではない。それでも誰も彼女のお眼鏡には敵わなかった。仲が良く告白に踏み切ったが「ごめん好きじゃない」とバッサリ切り捨てられ落胆し数か月引き摺る者もいたが、それはひとえに彼女の他人への関心のなさが引き起こした悪意無き言葉が刺さりすぎたというだけの話。誰も責められない。


 中心ではしゃぐタイプではなかったが誰が相手でも自分の意見を言うことができたためクラスに馴染み始めた頃には相談役として頼られることが増えていた。クラス委員長に推薦されても異議を唱えられないくらいには信頼を得ていた。


 品行方正、清廉潔白、眉目秀麗。


 そんな言葉で彼女を表す人間が増えるのも当然の結果で、その印象と肩書きは後輩たちにも自然と広く知られることになった。

 とはいえ、彼女はいつも目立つばかりではない。勉学は得意であったが運動は中の中くらいで、彼女にとってはやればやるだけ成績に紐づくものではないだけにできる範囲で努力していた。

 地味すぎず、かと言って目立ちすぎず。仮にどちらかに転んだとしても孤立とは無縁でいたい。

 そんなスタンスであり続けた高校生活は残り一年を切っている。

 変わらぬ日々があと一年続くことが約束されている。

 それでも彼女は最後までその姿勢を崩さない。それが彼女の持ち合わせる素の一部である限り、彼女は今日も、蜂谷抗であり続ける。


「蜂谷さん、今日はありがとね! また明日ー!」

「はい。また明日」


 クラスメイトは教科書とノートをカバンにしまうと早々と教室から出て行った。明日の小テストが不安で放課後すぐに泣きつかれ急遽始めた勉強会。勉強中は唸りに唸り、終わりを告げればお礼と共にブンブンと手を振って、まるで嵐のように忙しないと他のクラスメイトが話していたのを思い出す。間違っていなかったようだ。

 一人になった教室で帰宅準備を済まれた頃には放課後のチャイムから二時間ほど経過していた。


 蜂谷は教師の勧めで高校二年生の頃に普通科から特進科に転科することを決めていた。……転科、なんて大袈裟に言っているが実際は教師の打診に生徒が了承すれば学年が上がる際に学科を移ることができる。そこにテストなどはないから、実質誰だって転科可能な甘々設定。学年一位の成績を取り続けている蜂谷が打診されるのは当然のことだった。九クラス中二クラスしかない特進科はやや閉鎖的で、クラス替えもその二クラス内で行われる。授業内容が普通科と異なるが故に部活動でもしていなければ普通科との関わりはほとんどゼロに等しい。普通科の生徒が輪に入るとなると多少は苦労するものだが、有名人である彼女が馴染むのにそう時間はかからなかった。

 先程勉強を見ていたクラスメイトのように蜂谷を頼る者は多い。相談役としての平和な日常は続いていた。


 身支度を終え、教室の戸締りで使った鍵を職員室へ返し、スマホに目を落とす。予定の時間までは少しだけ余裕があった。


 学校を出て、最寄り駅に向かう。交通系ICを改札に通して、家とは真反対の隣県へ向かう電車に乗り込む。

 揺られること二十分。目的の駅で電車から降りてまっすぐ駅中のお手洗いに入る。個室の鍵をかけて、制服を脱ぎ、私服に着替える。制服と一緒にメガネをハードケースにしまってカバンに押し込み、個室から出る。鏡に映るのはガーリーな姿。自身でも見慣れない姿。裸眼故に二メートル先すらぼやけて見えるが数時間なら問題なかった。

 スマホに表示されるのは待ち合わせの十五分前。お手洗いを出て改札を通り抜ける。足がいつもより早くなった。


 人には表の顔と裏の顔が存在する。

 明るく振る舞うムービーメーカーが万引き犯であることも、話下手な人見知りが親しき者相手だと饒舌になることも、友人や家族には素っ気ないが恋人には甘えることも、どれも人の表と裏だ。裏表がないと言われている人間だって友人に見せる顔と親兄弟に見せる顔は多少違う。ささやかでも違う一面があるのならそれは裏表と言っていい。

 ただそれが自らの心に秘めなければいけない内容か、場合によっては人に言える内容か、そんな差でしかない。

 故に、蜂谷にも裏の顔が存在する。

 誰にも話せない、抱える秘密が存在する。



ゆうちゃん。待ってたよ」


 待ち合わせのカフェに入ると目的の人物は彼女を見つけ次第小さく手を振ってアピールをする。彼女は彼を視界に捉えると案内のためにやって来た店員に断りを入れて彼の元へと近づく。


「お待たせしました、真壁まかべさん」

「大丈夫。俺も今来たところだよ」


 テンプレートな返しを受け、彼女は彼の向かい側の椅子に腰を下ろす。店員が追加のお冷とおしぼりをテーブルに置いていく。


「今日は突然ごめんね。急な誘いだったのに来てくれて嬉しいよ。本当にありがとう」

「いえ全然。私も真壁さんに会いたかったので嬉しいです」


 蜂谷が真壁から今日の誘いを受けたのは昨日さくじつの夜のことだった。元は来週末に会う約束をしていたのだが、彼の都合で今日に予定が変わった。放課後に特別用事のない彼女にとっては何も問題のない予定変更。何より彼と過ごす時間は彼女にとっても有意義なものであった。


「優ちゃんは夕飯ってもう済ませちゃった?」

「いえ、これからです」

「そっか。なら好きなもの頼んでいいよ」

「ありがとうございます」


 差し出されたメニュー表を開き何にしようかとページを捲っていく。彼は既にドリンクを注文していたようで、ホットコーヒーの入ったカップに口をつけていた。今来たばかり、というセリフはカップの中身が半分を下回っているのを考えると嘘らしい。何度も会っていると、それくらいは察することができた。互いにあえて余計なことを言わないのは野暮だと思っているから。

 メニュー表から顔を上げ彼を見る。白のシャツに黒のジャケットとシンプルな格好には清潔感があった。日中は会社員をやっていると話していたが、つまりわざわざこのために着替えて来ているということ。それこそ彼女がスーツの男と一緒に歩いているところを誰かに見られたら、という点を加味してのこと。逆もしかり。私服で会おう、という話をしたことはないのにそうなっているのは互いの持つ気遣いが一番の理由だった。

 店員を呼び注文を通す。メニュー表を定位置に戻せば、微笑みを浮かべた彼と目が合った。


「今日はご機嫌ですね。いえ、真壁さんはいつもそうなんですけど」

「あははっ。ごめんね。待ちきれなくて……」


 彼は苦笑して頬を掻く。幼さを感じられる表情からは二十代後半とは思えない。その姿に和んでいるのは事実だった。


「真壁さんは本が本当に好きですね」

「まぁ俺の生き甲斐だからね」

「今日は寿ことぶき夜景やけい先生の本について、でしたね」

「うん。予定日を早めたのは俺だけど……どう? 読めた?」

「はい。一応読めるだけは読みましたよ。初めて読んだんですけど色々なジャンルの本が出ていて驚きました。どれも面白かったです」

「そうだね。多岐に渡る作品を書ける人はそう多くないし、それのどれもが万人受けしているのは珍しいことだよね。俺としては先々月に出た──」


 彼と会うと、こうして本について語る。そのために集まっている、というのが正解だ。

 彼女が彼と出会ったのは半年前のこと。そこから今の関係が始まった。


 ──蜂谷が優と呼ばれているのも、この関係性を表している。


 本好きの話は長い。好きなことを好きな者同士で話しているのだから時間が過ぎるのはあっという間だ。

 カフェを出て、駅までの道を歩く。その間も話は止まらない。目を輝かせ本について話す姿が彼女はとても好きだった。

 けれど、もう終わりだ。駅が近づく。別世界なのではないかと思わせる明るさに蜂谷は目を細めた。


 現実に、引き戻される。


「……もう、時間だね」


 彼は小さくこぼす。スマホに表示される別れの時間。こんな関係で、もっと先を望んだっておかしくはないのに、真面目な彼は「仕方ないね」と寂しそうに笑う。

 仕方ない。繰り返し、咀嚼する。

 何度も言って、言われてきた言葉。理解はしつつ、これ以上を求めることはない。ただでさえグレーゾーンなのだ。危ない橋を渡りなくないというのは二人に共通する思い。だから彼女も「仕方ないですね」と口にする。


「今日はありがとう優ちゃん。テスト前なのに、本当にごめんね」

「気にしないでください。私も好きで来ているんです。それにテスト勉強はちゃんとしていますから大丈夫ですよ」

「そっか。それならよかった」


 一分、二分……少しずつ立ち止まる時間が延長されていく。悪気はない。自然とそうなっている。

 しかしどれだけ目を背けても現実は変わらない。

 なんでもない話だけで繋ぎ止められるほど、この関係は甘く簡単なものではない。


「──今回は急だったから、おまけしておいたよ」


 カバンから縦長の茶封筒を差し出し、彼は言う。


「ありがとうございます、真壁さん」

「いいよ。俺が好きでやってることだからね」


 手にした封筒の厚さはいつもと変わらない。持って分かるほど慣れているわけでもない。

 律儀に頭を下げる彼女に彼はまた笑った。


「気にしなくていいよ。だから、また会って話そうよ」

「はい。もちろんです」


 彼女の反応を確認して彼は頷く。


「またね、優ちゃん」


 この世界に無償の愛など存在しない。何かしらの対価を持って、愛は存在できる。金や外見や愛嬌などはその一例だ。羽振りがいいから優しい言葉をかけられ、自慢できるから隣にいてほしいと思わせ、心を鷲掴みにされるから甘い言葉で誘われる。おかしなことはない。それが普通だ。

 ならば、と彼女は思う。対価らしい対価を持たない自分自身の近くにいてくれる理由がわからない。下心の見えない彼が何を考えてこの関係を続けているのかわからない。

 いつだって優しい笑みを向けられて、悪意を含まないそれに胸が痛むことはない。ただ、少し思うことがあるだけ。

 自ら進んでこの関係を築いているのだから罪悪感を抱いたって仕方がない。わかっている。関係を続ける理由に、複雑なことは一切ない。単純で馬鹿らしい。けれど必要だから続けているだけのこと。

 結局のところこれは現実逃避でしかない。

 都合の悪いことから目を背けるのにも慣れてしまった。

 彼は踵を返し建物の影に消えていく。彼女も背を向けて駅へ歩き出した。

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