第10話

 あれは中学三年生に上がる前――春休みに入る前の三月中旬のことだった。


 そう……あの日は強く風の吹いている日だった。


 グランドの横ではちょうど桜の花の開花時期らしく満開に咲いていた。例年よりも開花が早かった。その桜の花をナイターの明かりが青白く照らしていた。


 この日、僕はプロサッカーチームの下部組織であるユースチームの練習を見学に来ていた。たまたま僕のプレーを見ていたスカウトが一度声をかけてくれた。そして、その日、他の選手とともに見学していた。


 この時に初めてプロのサッカー選手になるとはどういうことなのかを目の当たりにした。そして、僕には到底無理であると悟った。ひどく痛感した。


 単純なことだった。


 才能の問題だけじゃなかった。覚悟の問題もあった。


 一つ上の学年の選手たちは、練習そのものがすべてプロの選手になるために組まれているメニューを淡々とこなしていた。


 人工芝の上、天然芝の上ではどのようにボールを蹴るのか、個々のプレイヤーのテクニックに必要なことは何か。スカウトの人は熱心に説明した。僕は全てに圧倒された。


 僕たちがこれまで取り組んできたメニューとはもっぱら異なっていた。


 それはそのはずだ。

 僕たちのチームは勝つことを目的としてやって来たからだった。正確にはチームが勝つための練習をしていたのだ。それはどこまで行っても団体戦だった。プロになるとは――


『チームとして勝つことと個人で勝つこととは違う。プロになるとは、個人戦に勝つことだ』とスカウトの人が言うのが聞こえた。


 この時期、僕は都の選抜に選ばれていたものの自分よりも才能がある選手ばかりで圧倒されていた。例えば、都の陸上記録を更新さえするほどに身体能力の高い人しかいなかった。あるいは、他の競技で全国レベルに到達している、そういう集まりだった。


 はっきり言ってみんなバケモノじみていた。

 しかもその中には勉強すらも得意な人がいた。


 一芸どころではない。二芸も三芸も身についているのだ。


 僕は無力だった。そして無気力になった。


 だからかもしれない。その人の言葉が僕の頭の中で、繰り返し繰り返し、再生された。


 もう一度グランドへと視線を向ける。


 視界に入ってくるのは、モノクロな練習風景。


 いつの間にか僕はグランドを出ていた。途中で誰かが僕の名前を呼んだ気がしたが、無視して歩き続けた。何も考えず歩き続けたかった。


 気が付いた時にはとっくに最寄りの駅を通り過ぎていた。


 周りを見渡すと青白い電灯が灯る閑静な住宅街まで来ていた。


 そこは高級住宅地として有名な場所だった。


 何をやっているのだろうとため息をついた。そして、駅まで引き返し始めた。


 別にプロになりたいと思ったことは一度もなかった。ただ、楽しくて夢中になってサッカーをしていただけだ。そのはずなのに……それだけ……それなのに……自分に失望した。何かを期待していたのかもしれない。


 それに気が付いて、ひどく自分が嫌いになった。


 いつからだろう。楽しいと感じなくなったのは…………。

 分からなかった。


 いつからだろう。苦しいと感じ始めていたのは…………。

 分からなかった。


 次々に疑問が頭の中を飛び回っていた。自問自答し続けた。

 

 そして――――サッカーをやめよう。そう思った。

 

 高校に入ったら、サッカーとは無縁の文科系に入るのもいいかもしれない。そんなことを漠然と考え始めていた。

 

 しばらく歩いていると、前から制服を着た女子とすれ違った。


 ほのかに柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。そしてそのすぐ後――十歩くらい後ろからフードを被った人がブツブツと言いながら通り過ぎた。


『……?』


 違和感があった。なぜだろう。フードを被っていたことがおかしいのか……?分からなかった。無性に気になった。


 僕は数歩進んだ後立ち止まり振り返った。ちょうど街灯の下を通り過ぎて、全身が照らされてわかった。腑に落ちた。ああ、レインコートかと思った。


 ……あれ?……レインコート?


 おかしくないか。今日は朝から雨など降っていないはずだ。それにもかかわらず、着ることがあるのだろうか。まだ春だから肌寒いこともある。しかも、今日はやたらと強風が吹いている。


 それでも防寒具として普通使うことはあるものだろうか……?


 疑問が湧いた。そして疑惑に変わった。


 いや明らかにおかしいだろ。

 しかも女の子のあとを追うようにして歩いている。


 ……まさかな。


 僕の脳裏には一瞬、嫌な映像が湧いた。


 気のせいに違いない。だから、それを打ち消して歩き始めようとした。


 しかし無理だった。

 

 先ほど女の子が曲がった路地でレインコートの人も同じように曲がった。

 

 いやいや本当に気のせいかもしれない。二人は偶然同じ方向に向っているだけかもしれない。取り越し苦労に違いない。


 自分に言い聞かせた。それでも一抹の不安が残った。


 気がついたら、早歩きで後を追い始めていた。

 くぐもった悲鳴のような音が聞こえた。


「……!?」


 全力で走った。少し距離があったから数秒かかった。


 そして角を曲がると――


 そこで見たのは――レインコートのフードが脱げた男が、女の子を襲っている姿だった。


 いや未遂だったみたいだ。ひとまずは安心した。

 

 僕は警察へと連絡しようと携帯電話を取り出した。そして呼び出し音が鳴り繋がった。できるだけ大きな声で話した。


『暴漢です。○○近くです。はい、そうです。あと一分弱ですか』


 一分あれば逃げられてしまうだろう⁉


 そんな言葉を吐いたって意味ない。わかっている。

 だからこそ無意味な言葉を飲み込んで、できるだけ冷静に振る舞った。

 ……振る舞おうとした。


 でも内心ではもう一つのことを決めていた。


『わかりました』と言って、オペレーターの声をそれ以降無視した。

『……あん?』


 男が振り返り細い目が僕をとらえた。

 同じくらいの年頃か。

 背丈は僕と変わらない。

 ならば何とかなりそうだ。

 愚かにも僕はそう思っていた。今にして思えば慢心だった。

 ただのヒーロー気取りの馬鹿だった。

 僕は、近づきながら、心拍数の上がった身体とは別に低い声で言った。


『やめろ。何やっている』

『……』

『その子を離せ』

『……』


 男は不自然なほどあっけなくその手を離した。そして不自然に黙って直立したままだった。


 女の子は泣きながら僕の方へと走ってきた。僕は『今、警察を呼んだので』と言って女の子を見た。眼鏡をかけた奥では赤く目をはらしていた。近くにはカバンの中から落ちたのであろうと思われるプリント類が散乱していた。女の子は泣きじゃくったまま震えていた。


 そして不審者の男へと視線を戻した瞬間――衝撃をくらった。

 

『っく』と肺の中の酸素が出た。


 警察に繋がったままの携帯電話が手から吹っ飛んだ。


 一瞬何が起こったのか分からなかった。

 そして、痛みが全身を走った。地面に押し倒されたことがわかった。


 遅れて『きゃっ』という悲鳴が上がるのが聞こえた。

 男は血走った眼だった。


『お、おお、お前のせいで、台無しだ!』

『それはよかったな』

『ゆっ、ゆるさないっ』

『だから?』


 そう言った瞬間、顔面を殴られた。

 頬に痛みが走った。口内のどこかから出血していた。鉄の味がした。


 …………大義名分。そう思ったら自然と顔がほころんだ。


 僕は体をひねって自分の膝で男の背中を思いっきり蹴った。


 男は『ぐっ』と言って体勢を崩した。その隙に、僕は押し出して逆に男を組み敷いた。そして、思いっきり顔面を殴った。右手が痛みを感じたが、些細なことだった。男は『うっ』と言い、もがいて逃げようとした。だから、もう一発殴った。なぜだか無性に腹が立った。そして、もう一度殴った。さらにもう一度殴った。すると、男は脳震盪でも起こしたのかもしれない。ぐったりとしたまま動かくなった。


 それを確認してから、僕は男から離れた。すると、『だ、大丈夫ですか』と女の子がぐずったまま近寄ってくるのがわかった。その姿を見て、気が抜けてしまったのかもしれない。


『――っつ』


 その途端、左の鎖骨周辺に言いようのない痛みが走った。急にめまいがし始めた。脱臼かもしれない。しかし有難いことに今まで一度も大きな怪我をして来なかったからよくわからなかった。とにかく「死ぬほど痛い」としか思えなかった。それ以上思考が働かなかった。


 サイレンの音が近づいて来ているはずなのに、段々と遠く離れていくように感じた。


 そして意識を失った。

 次に僕が目を覚ましたのは夜中の病院のベッドの上だった。


 医者の説明によると骨折した骨が神経を圧迫していたため痛みによって気を失ったのだと言った。


 全治二か月だった。

 手術をしたらしい。


 結局、様子見として二・三日入院することになった。


 すぐに警察の人が病室に事情聴取に来た。


 僕は真っ先に殴ったことについて質問した。すると警察の人は苦笑いを浮かべて、『正当防衛ということもあり、犯罪にはならない』ことを教えてくれた。正直それに一番安心した。初めて人を思いっきり殴ったので、加減が分からなかった。犯人が死亡してなくてよかったと気が抜けた。


 事情は大方被害者の女子中学生から聞いていたらしい。あの被害者が中学生であったことに驚いた。どうやらかなり裕福な家庭のご令嬢らしく、名前を明かせないらしい。犯人は、近くに住む顔見知りだったとのことだ。つまり、犯人も裕福な家庭に育った人物らしかった。そのためか、名前は明かせないと言われた。


 この現代にそんなことがあるのかと、脳味噌空っぽの頭で思った。きっと守秘義務に違いないと無理やり納得した。


 最後に僕は好奇心から犯人がどうなるのかを聞いた。


 犯人は先ほど目を覚まして、意味不明な言動を繰り返しているらしかった。警察の人は『心神喪失』『精神疾患』『精神的錯乱』と言葉を変えて何度も僕に説明した。そして『未成年』ということもあり、『不起訴』になる可能性が高いこと、『精神病院に入院』ということを淡々と説明した。


 言葉を疑った。


 唖然として呆然とした。


 あの時、犯人は言っていたのだ。『お前のせいで台無しだ』と。確かに聞こえた。確かに言っていた。


 用意周到に計画して、女の子があの薄暗い路地を曲がることも知っていた。


 だからこそ近所の顔見知りの女の子を襲ったのではないか?


 それが頭がイカレた結果――偶然近所の女の子を襲った?……ありえない。


 唯一ありえるとすれば、それはあの犯人が嘘をついていることだ。


 そう何度も言った。


 繰り返して言い続けた。


 警察につながったままであった携帯から音を拾っていないのかと尋ねてみた。すると、警察の人は、『通話は切れていた』と言った。何も音を拾っていないらしい。

 

 おそらく倒されたときに通話が終了してしまったのかもしれない。

 

 悔しかった。


 真実を白日の下にさらされなければ、アンフェアだ。


 サッカーの試合では、悪質なプレーをしたらファールをもらう。よほどひどかったらカードをもらい、即退場することもある。ルールで決まっている。


 それでは人を裁く基準は……?何を基準にしている……?


 法律だ。


 僕は法律を学ぶべきだと思った。


 その後の警察の人の話は、耳から通り過ぎていた。いつの間にか事情聴取は終わっていた。後日またお話を聞きに来ますと言って帰った。


 おそらく終盤は黙りこくっていたからかもしれない。心配そうにするお父さんとお母さんをなだめた。妹は泣きじゃくっていた。その時初めて、お父さんの泣く姿を見た。すまないと思った。


 それでもとにかく一人になりたかった。


 心配をかけたのは申し訳なかったが両親には明日も仕事に勤しんでほしいと伝えた。そして強引に自宅に帰ってもらった。

 

 病室で一人になった。


 憤りを感じた。

 ふざけるなと思った。頭の中が沸騰した。


 しかしそれと同時になぜ裁かれないのか、その基準とは何かと知りたかった。その時僕は法律を学びたいという冷静な思いもふつふつと沸いていた。


 それからの三日間は暇だった。

 何もできない。


 安静第一だったのだ。しかし二日目に被害者の女の子の母親が挨拶に来た。

 目茶苦茶綺麗だと思った。

 黒く長い髪が良く似合っていた。それに芸能人だと思ってしまうほどオーラがあった。見とれてしまった。驚きのあまり無意識に右手に持っていた本を落としてしまった。


 母親はしきりに感謝の言葉を告げた。しかし本人はトラウマを抱えていて直接は来れそうにないらしい。それから『ごめんなさい』と謝罪した。

 

 一瞬なぜ謝罪しているのか、わけが分からなかった。ああそうか。名前を明かせないことについてのことだろうと思い至った。


 なぜ明かせないのかという疑問が残っていたからだろう。


 僕の表情を察してくれて手短に説明してくれた。何でも加害者の男――中学生は、会社の取引相手の社長のご子息らしく、大事にしたくないらしい。もしマスコミにばれてしまうと、株に影響が出てくるらしい。


 正直、僕には遠い世界のことのように感じた。


 知識がなさすぎて経済への影響とやらは想像がつかなかった。


 とにかく双方示談で終わらせたいということだった。僕にも示談で終わらせてほしいみたいだ。


 もちろん、この時の僕はよく理解していなかった。だから状況に流されれるままに頷いた。


 後日、『正式に話しましょう』と言って帰って行った。

 

 そして時が流れ、晴れて退院した。

 

 その日、お父さんに頼んでギプスを付けたまま、大手書店へと連れて行ってもらった。苦笑いで『わかった』といって、車を出してくれた。


 真っ先に僕は法律関係の書籍を読んだ。


 全く理解できなかった。


 当たり前だ。それならば法学部に行くしかないと思った。そして、すぐに有名な大学を調べた。国立市にある国立商科大学が帝都大と同じくらい司法試験に受かっていることを知った。僕はそこを目指すことを決めた。そのためには、そこに一番多く合格者を輩出している都内の高校を調べた。通える範囲では、中高一貫校を除いたら都立東池袋高校が一番だった。


 とりあえず過去問を見た。


「……うん。わからん」

 

 さっぱりだった。問題文すら意図がつかめなかった。もちろん解けそうな問題も皆無だった。よく確認するとやたらに偏差値が高い高校だった。僕の今の成績から判断すると、難しいのは理解した。本番でかなりの点数をとらなければならないことが明白だった。


 しかし、まああれだ。

 今まで消費していた時間帯を確保すれば何とかなるかもしれない。

 

 入試まで約十二か月間、集中すれば何とかなるかもしれない。

 

 根拠もなくそう思った。いや確信していた。

 

 まずは、都立東池袋高校を目指そう。

 そして、絶対に将来は法曹関係の職に就きたい。

 

 この時――すでに僕の頭の中から「サッカー」という単語は抜け落ちていた。

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