第11話
時刻は早朝七時三十分を過ぎた。
スマホをズボンのポケットへと終って教室のドアを引こうとする。その前にドアにはめ込まれているガラス窓から室内を覗き見る。
ほのかに薄暗い教室内にはすでに拝島舞と夏目優衣の姿があった。
最後列の窓際の席で向かい合って座っている二人の姿は、どこか天使が戯れているような絵画にも見えた。ストレートの黒い髪の天使と金髪に近い茶髪をサイドテールに結っている天使……。
正直に言ってしまえば、二人とも容姿だけは整っているから見とれてしまった。
だからと言って見た目に騙されてはいけない。
中身がどちらも天使とは程遠い存在なのだから。言ってしまえば、悪魔のような女たちだ。
……それは何でも言い過ぎにしても男を惑わす堕天使には違いない。
何にしても登校前で静かな校舎――廊下に突っ立ていることは、不審者極まりない。
僕は意を決っして、ドアに手をかけて足を踏み入れた。ガラガラとドアを引く音に気が付いたのは、夏目優衣だった。そして拝島さんは静かに挨拶した。
「おはよー」
「おはよう」
「お疲れ」
僕は自分の席にバックを置いてから教室の後方へと移動した。すると夏目優衣は立ち上がり、空いている席から椅子を持ってきた。拝島さんと夏目優衣が向かい合っていたすぐ横に置いて、三角形の頂点のようになった。そこへ僕を座るように促した。僕は「ありがとう」と言って腰を下ろした。
そして拝島さんが夏目優衣と目配せをした後、口を切った。
「私のために集まってくれてありがとうございます」
「まいまい、気にしすぎだよ」
「ありがとう、優衣さん」
「……まだ解決していないのだから、そんなに感謝することもないだろう」
「ありがと、春斗くん」
「それよりも、本題に入ろう」
「……そうね。優衣さんにはもう見せたのだけど、まずは、これを見てほしい」
拝島さんは、机の上においてあった一枚の手紙を僕に差し出した。昨日、洋食屋さんで見た時と同じ紙のようだ。
……いや違う。よく見たら書かれている内容が異なっている。
『オマエハ、マタトクテイノオトコトシタシクシタ。ユルサナイ。コノママチュウコクヲキカナケレバ、オマエニフコウナコトガオコルカモシレナイ。ソレデモヨケレバ、ソウシロ。』
おいおい、今度は脅迫してきたのかよ。
もはや忠告の域を越えているだろ。
ここまで来たらストーカーというよりも精神的な病人だな。いや自己中心的な悪人ではないか。しかも武力行使することをいとわないような文面だ。
おそらくこの犯人は自己完結しているんだ。こちらが何を言っても、聞き入れないのではないか。そんな危うさを感じる。そうだとしたら、たちが悪いにも程がある。
「これは、今朝もらったのか」
「そうよ。下駄箱に入っていたわ」
「近くに人の気配は?」
「私たち、二人で登校してきたけど、全然気が付かなかったよ。それと……まいまい、この写真も一緒にあったでしょ」
夏目優衣は僕に写真を手渡した。ふわりとほのかにリンゴのような甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐった。
写真に視線を落とすとそこには――僕と拝島さんが、映画館へと入っていく姿が、映っていた。少しピントがずれているが右斜め前方から取られているようだった。
「昨日の写真ということは、犯人も近くにいたということか……」
「そうなるわね……はじめからつけられていたのかもしれないわ」
「そうかな……」
「春斗、どういうこと?」と夏目優衣は怪訝そうに眉を曲げた。
「いや、よく考えたら、最初から近くにいたとは考えにくい」僕は記憶を手繰り寄せてから「確か、僕たちが梅田珈琲で落ち合ったのが九時十五分くらいだったよね?」と拝島さんへと確認する。
「そうね。意外にも早く来たから、驚いたもの。よっぽど、楽しみだったみたいね?」と拝島さんは挑発するように微笑んだ。
「……まあ、それは置いて置くとして――」
「春斗って、意外に紳士?」と夏目優衣は、にやにやと笑みを浮かべて、僕の言葉を遮った。
……まったく、やりづらい。
確かに少し、ほんの少しだけ、一グラムほど楽しみにしていたかもしれない。しかし素直に認めるのはなんだか癪なのだ。
コホンと咳をして、夏目優衣の言葉を無視して話を戻した。
「――あの時、店内には、僕たち以外の客は大学生一人しかいなかったわけだし、外で待ち伏せしていたとも考えられない。そして、梅田珈琲の出入りを少なくとも三十分以上確認し続けられないはずだ。だって、拝島さんが僕のことを気が付いたみたいに、もし犯人がガラス越しに見ていたとしたら、その視線に気づくはずでしょ?それに、梅田珈琲の店内を見張れるほかの店も近くにはなかった。そうなると、犯人は、僕たちが珈琲店を出てから映画館に向かう途中で、たまたま見つけたことになる」
「ちょっと、待って」と拝島さんは僕の言葉を遮った。
「……どうかした?」
「春斗くん……あの時――店内にいた時のお客さんを覚えているの?」
「あの大学生のこと……?」
「うん」と拝島さんは神妙に小さくうなずいた。
「確か……ノートパソコンに向かって、レポートか何かと格闘していたような……それがどうかした?」
「……なんでもないわ。ただ、よく鮮明に覚えているものだと驚いただけよ」
拝島さんは何かを誤魔化すように呟いた。
一瞬だけ拝島さんの雰囲気が少し変わった気がしたのだが……。
そんな些細な変化を感じ取ったのかもしれない。夏目優衣は、明るい調子で言う。
「よく覚えていたねよ?記憶力が強よ過ぎない?ううん、春斗ってヘン。絶対ヘンだよ。普通ならそんな日常の風景なんか覚えていられないよ」
「いや、ほんと、偶然覚えていただけだから」
実際は拝島さんの話を聞いていなくて非難されてそれを誤魔化すために店内を観察しただけなのだけど。いずれにしても口は禍の元だから余計なことは言わないに越したことはない。都合よく勘違いしていてもらおう。
「とりあえず、話を戻すけど……僕たちが喫茶店から映画館に向かう途中で、犯人は拝島さんを見つけた――」
そして、後をつけてきて、映画館に入るところを撮った……?
写真は、右斜め前から取られている。ということは、もし後をついて来ていたとすれば、一度、僕たちを追い越してそれから盗撮したことになる。ありえない。犯人が気付かれる危険を犯すか。
ということは最初から犯人が映画館近くにいたのか。犯人も休日を楽しむために、繁華街に出ていた。
そして偶然ストーカー相手を見つけた……?
偶然の確率……?
いや、待てよ。
「……夏目、昨日どこにいた?」
「うーん……家で弟の勉強見てあげていたけど?」
「僕たちが映画観ること知っていたのでは……?」
「もちろん知っていたよ?というか、私が、まいまいにチケット渡したんだから」
夏目優衣はなぜか誇らしげに胸を張った。『褒めて褒めて』と顔には書いてあるかのように、どや顔だった。
なぜこんなにも得意げなのかはさておき、貧相な胸を強調されても困るのだが……。
まあ、それは横に置いておくにしても、本題はこれからだ。
「一応確認するけど……一〇時過ぎにどこにいた?」
「あなた、優衣ちゃんを疑っているの⁉ありえないわ!ありえない‼」
拝島さんは、少し大きな声でヒステリックに僕を非難した。そして僕を鋭く睨んだ。
こんなにも怒鳴ることがあるのか……。
いや以前も早朝の教室で怒鳴る姿を見たから二度目か……。でもあの時は演技だった。そうすると初めて見たことになるか……こんなにも取り乱した拝島さんの姿。
そして確かに今、優衣「ちゃん」と呼んでいた。いつも誰に対しても「さん」付けなのに……。それでもどこか他人行儀だとは思われない程度に距離感をうまく保っているはずの拝島さんが「ちゃん」付けで呼んだのだ。
……違和感はあるが、まあいい。二人の関係が悪いことはなさそうだ。
「まいまい、私は気にしてないから大丈夫」
笑顔を浮かべて、夏目優衣は、拝島さんの肩を寄せた。そして、悪くなった雰囲気を壊すように、茶化すように振る舞った。幼い子供のように頬を膨らまして僕に抗議した。
「春斗、ひどいよ!……さすがに傷つくからね?」
「別に僕は、夏目が犯人だとは言っていないから……ただ、夏目から情報が漏れた可能性があると思っただけだ」
「嘘よ……!明らかに、疑っていたわ!」
拝島さんは、綺麗な髪を振り乱して否定した。感情を振りかざす姿が、どこか痛々しいほどにもろい存在のように思えた。いつものように、優雅で気丈な姿がひとかけらも見えない。
さすがに、苦しい言い訳だったか……。
それにしても、なぜそこまで夏目優衣を庇おうとするのか疑問だ。
いや、なぜ夏目優衣を疑おうとしないのか……。
どう考えたって身近な人を疑うのが普通ではないか……?
それがストーカーだったら尚更そのはずだ。
しかし、拝島さんはある可能性――夏目優衣が犯人であるかあるいは共犯関係にあるかもしれないことを排除している。都合よくその可能性を遠ざけて見て見ぬふりをしているように思えてならない。
何にしても、冷静になってもらわなければ、話は進みそうにないな……。
「気を悪くさせて、ごめん。ただ……考えられる可能性を言った方がいいかと思ったから……」
「……春斗の言う通りだよ。もしも私が春斗の立場だったら、真っ先に疑うのは舞ちゃんの近くにいる人物だから」
合理的だよ、と夏目優衣は冷静に肯定した。しかし、拝島さんは即座に返答した。
「それでも、優衣ちゃんを疑うなんて……私にはできない!」
「舞ちゃん、ありがとう」
夏目優衣は、拝島さんの肩に手を伸せた。そして、しばらくの間、二人は黙って見つめ合った。自然と二人はそっと肩を寄せ合い始めた。心なしか二人ともわずかに頬が赤くなり上気しているように見える。あっという間に、甘い空間が出来上がった。
なんだこの展開……。
なんだこのシュチュエーション……。
今までの流れからシリアスな展開じゃないのか……?
なぜ、百合の花が咲き誇っているの……?
ちょっと待てよ……。
もしかして拝島さんが昨日言っていた『好きな人がいる』ってそういうことなのか……?
いずれにしてもこの場に僕がいることは邪魔に違いなかった。といよりも見ていられない。耐えられない。背景とかしている今のうちにそっと立ち去ることがいいかもしれない。老兵は去るのみ。
できるだけ音を立てないように、椅子を引いてそっと立ち上がった。
すると、いつの間にか冷静になった拝島さんはキョトンとした表情で僕を見た。
「……どうしたのかしら?」
「なんか、ごめん。申し訳ないけど、僕はこの件からは降りるよ。役立ちそうにないし……」
「あっ、春斗、ちょっと待ってよ。別にそういう話ではないでしょ!」
焦ったように取り乱した夏目優衣は立ち上がり、僕を椅子へと戻そうとした。ふわりと甘い香水の香りが鼻腔をくすぐった。
「そうね、優衣さんの言う通りだわ……。話は何も進んでいないじゃない」
「…………」
冷静を装っても拝島さん……いまさら「さん」付けに戻しても、二人が親しい間柄であることは、誤魔化せていないのだが……。
しかも、夏目優衣も素に戻った表情で「舞ちゃん」と呼んでいたのだから、なおさら決定的だろう。本来二人だけの時は「ちゃん」付けでお互いを呼び合っているのだろう。
無言の肯定を示して、僕はおとなしく座り直した。
その時、ちらりと白板の頭上に掛けられている時計の針を確認する。
光陰矢の如し。いつの間にか時間は過ぎていく一方ですでに時計の針は八時近くを指示していた。
もうそろそろ朝練の終わったクラスメイトがぼちぼちと教室へと来るかもしれない。
二人を交互に見てから言う。
「残念だけど、運動部の朝練が終わる時間みたいだ」
「もうそんな時間か……どうしようか?」
「そうね、今日の放課後は――」と拝島さんは夏目優衣と目配せをしてから「優衣さんは部活があるそうだから……お昼休みに文芸部の部室でどうかしら?」と提案した。
「ごめんね。今日、抜けられそうにない」と夏目優衣は申し訳なさそうに謝った。
「昼休みか……それでいいんじゃないかな」
「確認だけど、私、部員じゃないけど部室に入っても大丈夫?」
夏目優衣は、キョトンとした表情で、僕と拝島さんを交互に見た。
「問題ないわ。部活には、私と春斗くんと二年生の葵さんしか出てこないもの。それに、私が入部して以来、葵さんがお昼休みに部室に来たことはないから、聞かれる心配もないもの」
「そうだな。問題ないと思う。……ところで夏目は部活どこに入ったの?」
「言わなかった?軽音部だよ。私、ピアノ――じゃなくて、キーボード担当なの」
「そうか」
バンドか。青春の象徴だな。
夏目優衣のような派手な人というか、明るい人というか、リア充には、ぴったりだ。イメージ通りと言っても過言ではない。
それにしても、キーボードをピアノと言い間違えるものなのか?
怪訝そうな表情をしていたからかもしれない。
夏目優衣は、ちょっと頬を膨らまして抗議の声を上げた。
「絶対、私が弾けないと思ったでしょ?そんなことないから!ピアノは幼いころから弾いているから!まいまいよりは……下手かもしれないけど、それなりに弾けるのよ!」
「……さいですか」
「疑っているわね。いいよ今度、聞かせてあげる。そして、絶対ほえ面かかしてやるんだから。首洗って待っていなさいよ、春斗‼」
夏目優衣は、ビシッと僕を指さして高々に宣言したのだった。それを見て、拝島さんはクスクスと小さく笑った。
そんなこんなで最後は雑談によって早朝の会議は、終わったのだった。
結局、ストーカーを特定するための有効な会話はほとんどなかった。しかし、拝島さんと夏目優衣が親密な関係であることが分かっただけでも収穫と言えるだろう。おそらくは幼馴染だろう。しかし、夏目優衣の出身中学は埼玉に近いはずだ。先週、図書館から帰宅するとき西武線に乗っていたのだ。
そうなると、いつ知り合ったのか疑問が残るわけだが…………。まあ、いくら何でもそれは深入りしすぎかもしれない。取り越し苦労だ。
いずれにしても少なくとも夏目優衣がゆがんだ愛情を持っていて、拝島さんにストーカーをしている可能性は低いだろう。
僕は一限目が始まるまで単語帳を見ながらそんなことを考えていた。
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