第3話
僕の日課は、朝五時にランニングをすることから始まる。
小学生の頃からの習慣である。はじめは、サッカーのための体力づくりを目的としていた。サッカーをやめた現在でも朝五時に起きて走るという習慣は変わらなかった。
急いで森林公園へと向かう。
この時間のこの公園の雰囲気が好きだ。朝日の昇っていない早朝、ひんやりとする空気、風に揺れる木々、時折聞こえてくる車のエンジン音、そして人のいない園内。一人で走るのには邪魔のない環境だと思う。
だからなのかもしれない。今日は、少し気分が晴れない。
園内の入り口を走り抜け、自動販売機前へと向かう。
すると、屈伸運動をしている俊吾と目があった。
俊吾は、僕が所属していたクラブチームの一つ下の後輩だった。
中学生で一八〇㎝というサッカーをするに恵まれた体格、プレイヤーとしてのパフォーマンスも申し分ないことから、一つ上の僕たちの試合にもレギュラーメンバーとして活躍していた。
そんな俊吾とは、僕がボランチとしてプレーしているときに頻繁にタッグを組んでいた。
最初は僕も含めてチームメイトとぎこちないやり取りが多かった。が、俊吾の気さくな性格や選手としての実力もあってしばらくして打ち解けた。
そして、いつの間にか僕は彼から慕われ、月に一度だけ自主練についてくるようになった。
今でもなぜこんなにも好かれているのか疑問だが……。
「おはよう」と僕が言うと、俊吾は朝早いにもかかわらず大きな声で「お疲れ様です‼」と返事をした。「今日も早いな」と言うと「そんなことないですよ、俺も今来たところですから」と二カッと笑った。
「先週もお前が先にいたよな……」
「そうでした?」と俊吾はガシガシと短髪の頭を掻いて、おどけたように笑う。
「まあ、いいか……じゃ、行きますか」と僕は、腕に付けた時計を見て走り始める。「ちょっと、待ってくださいよ」と言って慌てて走り始め、肩を並べるようにして俊吾が付いてきた。
しばらく無言で走っていると、何か言いたそうにちらちらと俊吾が僕を見てくる。この行動をとるときの俊吾は、決まっていつも何かを誤魔化した後に本心を述べる。
僕は少し深く息を吐き出して「なに?」と尋ねると、俊吾が話しかけてきた。
「先輩の高校、確か……東池袋っすよね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「いや、実は、姉貴もそこに通っているんすよ」
「そうか、じゃあ校内ですれ違っているかもな」
俊吾の姉貴。
よく試合を見に来ていたらしいが、生憎一度も見たことない。フィールドでサッカーしているのに、観客の顔にまで集中できるわけがない。
そういえばいつだったかメンバーの一人が俊吾の姉はかわいいとかなんとか言っていた気がする。
さすがに拝島さんほどかわいいとは思わないけど……少し気になる。
少し沈黙したあと、俊吾が言った。
「……先輩、サッカーは続けないんすか?」
「そうだね」と僕は答える。
走るスピードを少し上げたからかもしれない。心拍数が急激に上がった気がした。
少し息苦しく感じる。
必死になって呼吸をする。ひんやりとした空気が肺に入るたびに心地よさと同時に息苦しさをもたらした。
「先輩の怪我は完治しましたよね、それなのに――」
「やりたいことが見つかったから、もうサッカーはしないかな」
俊吾からの視線を感じたが、僕は真っすぐに正面を向いたまま走り続けた。
「そうすっか……」と俊吾は残念そうな声で返事をした。
……全く、大人げないほどにも限度がある。
自分のふがいなさに苛立つ。
「今から一・五キロ勝負な」と僕は誤魔化すため言葉を吐くと、俊吾は「え?」と返した。僕は「負けた方がジュースおごりな」と言って全力で走り出す。即座に俊吾は「後悔しないでくださいよ!」と言って僕の後を追い始めた。
それ以降は終始無言のまま早朝ランニングの時間が過ぎていった。
やはり現役でサッカーをする人にはかなわない。
俊吾にはいつの間にか追い越されてしまった。結局、ジュースは僕のおごりだった。本数を制限しなかったことを後悔した。二本もおごる羽目になった。しかもコンビニで売られている一・五リットルだった。
「朝から三リットルも摂取する気か⁉」と言ったら、後輩は「いいえ、一日分の摂取量っす」と真面目に返された。
いや三リットルもジュース――というか野菜ジュースを摂取したら逆に体に毒だと思うのだが……。
ここに本末転倒も極まれり。
そう思った。
家に着くころには、辺りはまぶしいほどの朝日によって照らされていた。
とっくに日の出の時刻は過ぎていた。
∞
家に着くとすぐにシャワーを浴びた。
朝ご飯を食べて、数学の問題集を解く。それからラインを確認すると、夏目優衣から『朝、七時半に教室に来て、見せたいものがあるの』と羊のイラストスタンプと共にメッセージが来ていた。
送信時刻が昨晩であった。
図書館に寄ったときに直接言ってくれればよいのに、わざわざ別れた後に要求というか、命令をしてくるとは……よほど言いづらいことが待ち受けているのかもしれない。
一抹の不安を抱かずにはいられない。
しかし無視することなど大人げない。
「……仕方ないか」
渋々『了解』という文字を送った。
それから、駅へと真新しい自転車で向かった。
薄暗い契約駐輪場で自転車を止めて、改札口をくぐり、階段を下りて駅のホームに降りた。時間帯は違えど、いつもように最後尾から二番目の車両に乗るために、ホームを進んだ。すると、水鳥勇樹の後姿が見えた。
練習着姿の水鳥は、いつものようにワックスで髪を整えていた。清潔感あふれるほどの長さの髪を耳にかけてツーブロックにしていた。髪型をセットするのに、毎朝いったいどのくらいの時間を要するのか判然としない。
しかしその姿は、オスがメスにアピールする、なにか高尚な動物の求愛行動のように感じられた。
凝視していたからもしれない。
水鳥は野生の本能に従ったかのように振り返った。
僕を認識したようだ。
一瞬、ハッとした表情をしたような気がしたが、すぐに口元に笑みを浮かべた。
水鳥はイヤホンを耳から外して「意外に早いな」と呟いた。
「入学以来見かけなかったけど、春斗もこの時間の電車なのな?」
「いや、今日は例外。夏目優衣に呼ばれた」
「そうか……優衣に気に入られたのかもな」と水鳥は一瞬思案した後、茶化すように言った。
「それはないだろう。知り合ってから二か月しか経っていない」
「別に……時間の長さは関係ないだろう?」と水鳥は少し真面目腐った表情で言った。すぐに明るい調子に戻って「いずれにしても早朝に呼び出しをもらって春斗もよく向おうと思うな。律儀過ぎないか?」
「もしもお前が呼び出されたら、向かっただろう?それと同じだよ」
「違いない」
水鳥は乾いた笑顔を浮かべて肯定した。
この男はそういうやつなのだ。
誰にも分け隔てなく優しい。サッカー以外の時はいつだってそうだ。試合の時は優しそうな笑顔を排除して無表情に貪欲に取り組む。
しかし、学校生活では笑顔でみんなと接する。
頼まれていなくても困ったクラスメイトに手を差し伸べるような誰にでも優しい奴だ。高校で一緒になってから初めて知った。
トレセンでの水鳥しか知らなかったから、それが意外だった。
それにしても高身長で顔も整っていて頭も切れる……運動神経もよい。そして何よりも優しい。
こいつ、ハイスペックすぎるだろう!
……女の子が騒ぐ気持ちも少しは納得できる。
男の嫉妬など気持ち悪いだけだが、この場合羨ましいとは思うのは自然の摂理であろう。
「お前だって人のこといえないだろう。拝島さんと仲良いじゃないか?」
「そんなんじゃない……小中と同じだったから仲が良いだけだよ」
「……そうか」
「それよりも――サッカーは続けないのか?」
またその話か。
今日はよくその話題が上るものだ。
俊吾といい、水鳥といい、いちいち確認するようなことなのか。僕がサッカーを続けようが続けまいが彼らには関係ないことだろう。
イラつく内心を抑えて、できるだけ事実を述べた。
「お前と違って僕は繰り上がり合格で都立のトップ校に入れた身だからな。大人しく勉学に勤しむとする」
「そうか……それは……残念だな」と水鳥は小さくつぶやいた。
そんな他愛もない会話をしていると電車がホームへと入って来た。
駅の電光掲示板の時刻を確認した。
七時五分。
プシューという音が鳴り響き、扉が開いた。
いつもより三十分早い電車に乗った。
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