第1話
都立東池袋高校に入学してから二か月になる五月下旬のこと。
徐々に日照時間が伸びて、六時近くになっても夕焼けが空を満たしていた。グランドではサッカー部が走り回っている。その中でも新入生たちの着る真新しいユニホーム姿が目立っていた。
いやそれだけでない。先輩からのいびりというかシゴキみたいな掛け声が微かに聞こえる。
そんな光景を横目にすると、別に僕が怒れているわけでもないのになぜかどっと疲れが押し寄せてくる気がした。
僕——黒田春斗は、日直という大役を終えて昇降口へと向かっている最中だった。
ちょうど渡り廊下を通り過ぎようとしたその時だ。
いささかどんよりとする気持ちを掻き消すように心地よい風が吹き抜けた。
どこからか風とともに無数の青白い葉が漂ってきた。
葉の舞ってきた先へと視線を向けると、一人ポツンと箒を手に中庭の掃除に勤しむ彼女の後姿があった。
その瞬間、脳裏にはある光景が浮かんだ。
四月一日の入学式当日のことだ。
彼女――拝島舞は入学当初から目立つ生徒だった。
なぜなら彼女の端正な顔立ちは芸能人のようであったからだ。くっきりとした二重まぶた。サクランボ色の小さな唇。きめ細やかで長い黒髪。全てのパーツが一寸の狂いもなく配置されていると言っても過言ではなかった。
そのような姿に目を奪われたのは、僕だけでなく周囲の生徒も同様であった。
実際、彼女の周りには入学当初から同性、異性問わず話しかける人でごった返していた。それはまるで有名人を取り囲む報道記者の群れのようだった。
『ふふ、ありがとうございます』
彼女は投げかけられる質問詰問難問に朗らかな笑顔とともに答えを返していた。時々セクハラまがいの質問に対しては、冷たい微笑みとともに受け流す姿は、どこかプロの受け答えのようであった。
噂によると、父親は大企業の取締役らしく、かなり裕福な家らしい。それでも気取ったところもなく、気さくな性格と綺麗な顔立ちは瞬く間に全校生徒へと広まり、学校一の有名人となるのに時間はかからなかった。
そう。まさに超人的で完璧な人間。
だからかもしれない。
僕は彼女と個人的に話す機会がなかった。もちろんクラスメイトであるから事務的なやり取りは何度もあった。しかし個人的な話は一度もしたことがなかった。
僕は彼女のことをよく知らなかった。
例えば、彼女は何が好きで何が苦手なのか――
そんなくだらない僕の思考はサッカー部の掛け声によって現実に引き戻された。
一瞬、どれくらいここに立っていたのかわからなくなった。
彼女の黒く長い髪が夕焼けを反射させ周囲に光を散逸させていた。その姿はどこか神々しい何かのように僕の目には映った。
周囲を見回しても、ほかの生徒の姿はなかった。
グランドからはまだサッカー部の掛け声が響いている。
……なぜだろうか。
気がついた時には、愚かにも衝動的に声をかけてしまっていた。
「すみません!」
「……」
拝島さんは気づくことなく手を動かしている。黒い髪をなびかせて静かに動いている。
僕は先ほどよりも大きな声を出していた。
「あの!すみません!」
彼女は一瞬、動きを止めた。そして、こちらを振り返り視線が合った。
拝島さんの大きな瞳はさらに大きく開き、驚きの表情に変わった。それに呼応するように、手を止めて固まった。
僕は歩いて彼女のいる中庭へと向かう。
「黒田くん?」
「あ、うん」
心臓の鼓動が激しくなる。
何か言葉を口に出そうとしたが上手く出てこない。
それは彼女も同じようだった。拝島さんは明らかに困った顔をしていた。
「えっと……」
「手伝いたいから箒貸して」
お世辞にも上手な言い訳とは言えない。
それでも何も言わないで突っ立ているよりはましだろう。
そんな僕の様子を見ていた拝島さんは、一瞬思案した後「うん」と言って手に持った箒を僕に向けて差し出した。そして、ソメイヨシノの木に立てかけてあった塵取りを手にして「こっちに集めて」と続けた。僕は肩にかけていたスクールバックを地面に置き、小さな声で「わかった」と返事をした。
「……」
「……」
無言になってしまった。
とりあえず、何か言葉を紡ぎださなければ……完全完璧に僕の印象が悪い。
いや、これでは最初から最後まで徹頭徹尾、悪印象のままに違いない。
どうにかして好印象にしなければ――
ありとあらゆる打開策を思案し始めたところで、視線を感じた。
「ありがと」と拝島さんは僕を見上げる格好で言った。
「え?」と僕は咄嗟のことで聞き返してしまった。
「助けてくれてありがとう」と拝島さんは頬を赤く染めて照れくさそうに微笑むと少しうつむいた。
「気にしないで」と僕は誤魔化し笑いをした。
つい、拝島さんのかわいいしぐさに目を奪われてしまった。
くっそ、これではずっと見続けてしまうではないか。
きっと見続けたら嫌われてしまうことは目に見えている。
だからこそ断腸の思いで、少し離れた場所に移動するしかない。
ちょっと移動して掃き掃除をつづける。
何か話したいけど、話題が見つからない。
それは彼女のほうもまた同じなのだろう。時々、背中に視線を感じる。
けど、やはり頭の中には何も浮かんでこなかった。
「……」
「……」
わずかな沈黙が僕たちを支配していた。それでも、聖女のようなやさしさを持つ拝島さんは、思い切って声をかけてくれた。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「なに?」
「黒田くんはサッカー部に入部する予定だったりする?」
「いや、違うけど……どうして?」
僕は手を止めて振り返った。拝島さんの大きな瞳に強く吸い寄せられてしまった。僕の回答を聞いて、拝島さんは少し不思議そうに首を傾げた。
「いつもサッカー部の練習を観ているから入部するのかなと思ったのだけど……違う?」
第三者に指摘されるほど、僕はサッカー部を見ていたのだろうか。
……よくわからなかった。無意識のうちに眺めていたのかもしれない。
それにしても……顔がにやけてしまう。
僕のことを気にかけてくれていたのか⁉︎
いやいや、ここは落ち着く場面だろう。
いやでも歓喜を抱かずにはいられない。
……こほん。なんとか冷静を装って受け答えよう。
「……そんなに見ていた?」
「私が黒田くんを見るときはわりと頻繁に見ていたと思う」
「そっか……そんな自覚がなかった」
「その……どうして入部しないのか聞いてもいい?」
申し訳なさそうに少しうつむいてから探るように僕を見つめた。
なんと⁉︎その聞き方はずるいだろう⁉
可愛さ満点で何でも答えてしまう。いや何でも思い通りのことをやってしまいそうだ。エルメスでもヴィトンでも爆買い上等。どんと来い。
…………僕は深呼吸した後、落ち着ついた表情で答える。
「文芸部に入部した」
「あれ……本を読むのが好きなの?」
「違う。すごくくだらない理由で入部した」
「なに?」
「この学校は部活動が強制だし、仕方ないから取りあえず席だけ置いておいて、そのあとは欠席しても何も言われなさそうな部活を選んだ」
「確かにすごくくだらない理由だと思う」と拝島さんからクスクスと小さく笑う声が聞こえた。しかし突然表情を曇らせて「けど……」と小さな声で呟いた。
「……」
けど、何なのだろうか。
しかし拝島さんはなぜか最後まで言葉を言おうとしなかった。
「拝島さんは部活決めた?」
「今週いっぱいまで仮入部の期間だから考え中だけど、どうしようか迷っている」
拝島さんは少し困った表情をしているようだった。
確かに彼女が困るのもわかる。
四六時中、部活の勧誘をされる姿をクラス内や廊下で見かけていたから、げんなりとするのも納得だ。聖女のように温厚な拝島さんでもやはり、内心で辟易しているのかもしれない……。
いや、違う。もしかしたら、入りたい部活が多すぎて困っている可能性もあるかもしれない。
「そっか。決められないほど、入部したい部活が多いのも大変だな」
「違うの」
「え?」
「一番面倒じゃない部活がどこかを見極めているの」
拝島さんはひどく真面目な表情になって言った。
つい、僕は笑ってしまった。
「私、なにか変なこと言ったかな?」と拝島さんは不思議そうな表情で尋ねた。
「いや、ごめん。そうじゃなくて拝島さんみたいなすごい人でもそんな理由で迷うこともあるんだなと思ったら、おかしくて」
「べつに私自身がすごいわけではないわ、ただ親が少しお金を持っているだけ。それに……」
「……?」
「ほんとうのわたしはかなり醜いから」
僕の気のせいかもしれない。拝島さんの声が小さくてそう聞こえた。
拝島さんは、わずかに表情に陰りがあるようだった。彼女の綺麗な顔がわずかにこわばっていたように見えた。
もしも僕の聞き間違いではなかったら、この意味深な言葉に対してどのように反応すればよいのだろうか。
『どういう意味なの?』と聞いてもよいのだろうか。
それとも受け流した方がよいのか。
愛想笑いがいいかもしれないな。言葉を口に出さず、誤魔化すことが無難な反応に違いない。いや、違うかもしれない――
そんな煮え切らない僕の表情を読み取ったのかもしれない。拝島さんは明るい声で言った。
「ごめんなさい。なんでもない。あとは片づけるだけだから、私一人でやるね」と拝島さんは切り上げるように、僕の手から箒を取った。
僕は手持無沙汰になり、数回手を開いたり閉じたりを繰り返した。渋々「わかった」と頷いて、スクールバックを地面から持ち上げるしかなかった。
拝島さんは一度お辞儀をしてから感謝の言葉を述べた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃ、また明日」
「うん、また明日」
僕は昇降口に向かって歩き始めた。
何か大きなことを成し遂げた後のような達成感があった。
偉業とい言葉がふさわしいのかもしれない。これまでにない満足感が僕を支配していた。
拝島さんと話すことができたという事実がたまらなく嬉しい。歓喜のあまり涙を零しそうなくらいの想いだ。いや、涙を流して踊り出してしまうかもしれない。
それはいくら何でも言い過ぎにしても、たまらなく嬉しいのは本当であった。
するとすぐに背中越しから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「春斗くん!」
僕を呼び止めるとはまさかの展開だ。これは『この後、お茶でもどうかな』とか在り得るかもしれない。そうしたらどう答えるべきだ?迷う。まさか、ホイホイと『行きます!』などと言えば、『あ、こいつ、「ワンチャンあるかも」とか思ってそうで――気持ち悪いっ!』とかなりそうだ。
そうであるならば――策を弄するしかない。
僕は立ち止まり、にやけそうな顔を何とかこらえて振り返った。すると、拝島さんは申し訳なさそうな表情をしていた。
「……汚しちゃってごめん」
「え?」
「それ」拝島さんの視線が下を向く。
すると、つられて僕もその視線の先を追う。
いまさらながら気が付いた。
僕はずっと上履きで掃除をしていたらしい。
頬の筋肉が引きつり、口の中がからからに乾いた。頭の中がオーバーヒートした。警戒音のようなアラーム音が頭の中で鳴り響いてパニック状態だった。
何かしらの言い訳を考える。しかし、「ほとんど話したことのないクラスメイト」+「上履きで掃除」=「キモチワルイ不審者」という方程式が頭の中を支配して、何も考えられない。
とにかく何か言わなければならない。早急な打開策が必要だった。
「もともと汚れていたから気にしないで」
「それでも――」
「気にしないで!」と僕は声をかぶせる。
「気にするよ!」と拝島さんは反射的に答えた。
「……」
「……」
一瞬、静まり返ったからかもしれない。早く逃げ出したいという気持ちを抑えて、少しは冷静に振る舞えるようになった頭を使う。
相手が納得するオチどころ……普通、無難、いろいろな言葉が頭を駆け回る。
そして唯一ひねり出した妥協策を提示する。
「わかった。じゃ、もし罪悪感があるならば、今度ジュースでもおごって。それでチャラにしよう」
「それで黒田くんが良いなら――」と拝島さんは納得のいかない様子で答えた。
「構わない」と僕は反射的に答える。
「……うん」
拝島さんは何か言いたげに口を開きかけたが、渋々と言った感じでうなずいた。
どうして渋っているのか気になるが、しかし、とにかく羞恥心で早く逃げ出したかった。穴があったら入りたい。だからこそ、一方的に挨拶の言葉を口にするしかなかった。
「じゃ、また明日」
「うん、また明日」
今度こそ僕は昇降口へと急いで向かう。
渡り廊下の角から振り返ると、拝島さんはスマートフォンを操作していた。
誰と連絡しているのだろう。
それにしても拝島さんはなぜ一人だけで掃除をしていたのだろうか。
いつもならば隣に誰か一人はいるはずなのに……。
そのような僅かな疑問が頭に残ったまま昇降口へと向かった。
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