第12話 祝宴

 帰りは行きよりも風が弱く、メイヤ・ギーニィ号がガララタンの港に帰り着くまで、結局十八日ほどかかった。帆船は何をおいても風次第なので、この程度のずれはよくある話だ。


 着岸作業を終えた後、トルックは一時的に厨房ギャレーに手伝いに入っていた。万が一のための食料のうち、あまり日持ちがしないものを一挙に使って料理を山ほど作るためだ。その豪勢な食事は、船の甲板で開かれる恒例のねぎらいの祝宴で、たっぷりの酒と共に船員に振る舞われる。開始時刻はその時々だが大抵は夕方には始まるため、料理人たちはそれまでが勝負だった。


 トルックが頼まれた果物を潰している横で、シャニィはくるくると立ち働いている。その包丁さばきは見惚れるほどの速さで、それでいてなぜか優雅なのが不思議だ。何よりその楽しそうな様子に、周りで働いている人間まで楽しくなってくる。


「……」


 ただ時々、彼女がふっと何かを考え込むように動きを止めることがあった。恐らくそれはトルックが嵐の島で焼いた、が原因に違いない。だがあくまでも素知らぬふりをして、心の内で謝るに留める。何しろ時間がなかったからだ。帰還の宴は、同時に彼女の下船の見送りでもあった。このままシャニィが何事もなく降りてしまえば、きっともう道は交わらない。そう感じて打った、必死の一手だった。


 ———ほんっとに、うちの船長は……


 そんな不満を原動力にして、トルックは果物をがしがしと潰す。一気に進展してほしいなどとは考えていないが、せめてシャニィに気づいてほしかったのだ。彼女の知らないところで、秘されてしまったものがあることを。


「シャニィさん、こんなもんでいいっスか?」

「ばっちり!じゃあ、次はナッツを砕いてもらってもいい?」

「はいはーい、お任せあれ。楽しみだなぁ、旨いもんがいっぱい食えるの」


 思惑は能天気な笑顔に隠して、トルックは受け取ったナッツを砕きにかかった。



 * *



「おー、やっぱ引きがいいっスね、シャニィさんは」

「いざって時に強いわよねぇ、あの子」


 木箱に腰掛けたトルックとエーリーの視線の先には、札遊びに興じる船員たちの姿があった。普段は船内での賭け事は禁止されているが、祝宴の時だけは別なのだ。


 この公認の賭け札遊びは希望すれば誰でも参加でき、勝ち抜けば褒賞が得られる。ただしそれは金銭ではなく、〝船員の誰にでも、なんでも、頼み事ができる権利〟だ。だから大抵は、酒を奢ってもらうとか、当直を一回代わってもらうとか、ハンモックの位置を取り替えてもらうとか、そんなささやかなものだった。


 なにしろ育ちの良いお嬢様だし、さすがに眉をしかめるかもしれないと思ったのだが、シャニィは意外にも乗り気で誰に言われるでもなく自分から参加している。手札を真剣に見つめながら彼女がほんのり顔を赤くしているのは、たぶんさっき果実酒を飲んでいたからだろう。


 トルックとしては、多少いかさまを仕込んででも彼女を勝たせてやろうと思っていたが、しばらく見ていたらその必要はなさそうだった。一体どこで覚えたのか、彼女はちゃんと勝ちにいっていたからだ。


「いけそうね。とどめの一枚」

「っスね」


 もちろん仮に手を貸したとして、勝たせる以上の部分には口を出すつもりはなかった。権利を得てそれをどうするかは、シャニィ次第だ。聞きたいことに答えてもらうも、無難なお願いをして何事もなく船を降りるも、全ては彼女の自由だった。


「あー、くそ、負けたぁ!強ぇじゃねぇか、シャニィ」

「やったー!!」


 シャニィは勝利の雄叫びを上げ、船員たちはやんややんやと喝采を送った。彼女は横で司会役を買って出ていたリッケルを見ると、小首を傾げて確認する。


「本当に、船の人なら誰にでも、なんでもなのね?」

「ああ。遠慮なく欲しいもんねだっちゃいな。応じなかったら、そいつは海の男じゃねぇや」


 リッケルは上機嫌でそう焚きつけた。


「さぁ勝者シャニィ、誰に何を頼む?」

「それじゃあ、ヴァン船長に」


 そう告げたシャニィは、札遊びには加わらず静かに酒を飲んでいたヴァンジューの前へ歩いて行き、正面に陣取る。


「おう、なにが欲しいんだ、子猿」


 彼がそう笑うと、彼女はにこりと微笑んで言った。


「あのね、船長。私、この船に乗っている間、今までこんなに笑ったことはないって思うくらいたくさん笑ったの。大口開けて馬鹿みたいに笑って、すごく楽しかった」


 シャニィは真っ直ぐにヴァンジューを見つめる。


「だからヴァン船長、私をまたこの船に乗せて?船長たちの都合のいい時でいいから。それが私の欲しいものよ。いい?」


 しん、と甲板が静まり返った。皆が息を呑んで、船長と彼女を見つめている。


「……お前、それは……いいわけないだろう?わかっているのか、これから海軍軍人の嫁になるんだぞ?そんな立場の人間が海賊船に乗るなんて、外聞が悪いどころの話じゃない」


 眉根を寄せて、ヴァンジューが返した。


「どうせもともと奇天烈きてれつ令嬢呼ばわりされてたもの。今さら後ろ指なんて気にしないわ」

「……お前はそうでも、あいつは違うかもしれないだろ?」

「だとしても、仕方がないことよ。そこまでのご縁だったということね」


 シャニィは迷いのない目で、きっぱりと言い切った。


「仕方がないって……いや、やっぱり駄目だ。シャニィ、それ以外ならなんでも聞いてやるから……」

「いや!」

「いやってお前……お、おい……っ!?」


 甲板が盛大にどよめいたのは、ふいに動いた彼女が思い切りヴァンジューに抱きついたからだ。そのたくましい体躯に腕を回し、胸板に顔を押しつけて密着している。


「うんって言ってくれるまで絶対に離さないから!」

「ちょっと待て、お前さては酔ってるな!?」

「あ、あの船長、シャニィがそこの橙苺だいだいいちごの酒を、たてつづけに三杯くらい飲んでたのを見たんですが……」

「なんで止めない!?」

「すんません!酒は飲める年齢のはずだし、色々と意外なことが多かったから強いのかと思って……!」


 その柔らかな温もりに狼狽うろたえているのか、珍しく理不尽な叱責をしたヴァンジューは困りきった顔で彼女を見下ろした。


「シャニィ、それだけは無理だ。聞き分けろ」

「いやよ!なんでもって言ったもの!!」

「そうは言っても、ものには限度ってものがあるだろうが」


 がんとして首を縦に振らないヴァンジューを見上げて、シャニィは駄々をこねる子どものように叫んだ。


「だってここでうんって言ってもらえなかったら、ヴァン船長は次に私と会ってもなんの関係もない赤の他人ですって顔するでしょう!私が悪く言われないように!だから……だからまた来ていいって言うまで……他人にはない〝次の約束〟をくれるまで、絶対離れないんだから!!」

「……」


 ヴァンジューが言葉に詰まり、エーリーがグラスを手に立ち上がった。


「シャニィ、さすがわかってるわね。嬉しいわぁ。あたしの秘蔵の黄金桃酒を分けてあげちゃう!」

「馬鹿!もう飲ませるな!」


 エーリーが差し出したグラスを、ヴァンジューが慌ててひったくる。


「もう観念しなさいよ、ヴァン」

「そうですよ。いいじゃないっスか、そんなに来たいって言ってんだから。なんならこのままさらっちまえばいい。俺たちは海賊なんスからね!」


 トルックが加勢に入ると、事情を知らない他の面々からも声が上がった。


「勝者のお願いは絶対ですよ!船長!」

「そうだそうだ、観念しちまえ船長〜!」

「そうよ、観念しなさい!私が日々鍛え上げた腕力でじ切られたくなかったら、今すぐいいって言いなさい!」

「お前も自然に脅迫に移行するんじゃな……!」


 その語尾がたち消えたのは、ごく触れそうな至近距離に彼女の顔があったからだろう。


「いいって言って?」


 今にも泣き出しそうな、うるんだ美しい瞳。少なくとも好意以上のものを抱いている相手にあのように迫られて、冷静なままでいられる人間が果たしているだろうか。トルックは彼女のその懇願が、船長を冷静の呪縛から解き放ってくれるように祈った。


「……シャニィ。もし……もし、お前の本当の」


 何かを口走りかけたヴァンジューは、しかし途中でぐっとこらえるような表情になって歯を食いしばった。


「……いや……なんでもない」


 その時、ふいに強い視線を感じたトルックは、二人から目を外して振り返る。素早く視線を巡らせると、昇降階段タラップのあたりに人影が見えた気がした。祝宴中はもちろん出入り自由であるため、船員がうろうろしているだけの可能性もあったが、なにか嫌な予感がしてその姿を追う。


 駆け寄って船べりから桟橋を見下ろしたトルックは、目にしたものに思わず眉根を寄せた。


「あちゃー……こりゃ一悶着ひともんちゃくあるかもしれないっスね……」

「なに?どうしたのよ」


 追いかけてきたエーリーに、トルックは船から離れていく、街灯に照らされた白い後ろ姿を顎でしゃくる。


「女の嫉妬は怖いなんて言いますけど……そんなもん、男だって変わんないですよねぇ」


 一度だけ振り返ってこちらを見たは、到底大人しく身を引いて引き下がるような目はしていなかった。

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