第11話 入り江にて

 無事に嵐を越えたメイヤ・ギーニィ号は目的の島にたどり着き、今は入り江に停泊して夜を迎えている。

  

 翌日の準備を終えたヴァンジューはようやくひと息ついて、貰い物の酒を開けた。美しい琥珀色の液体をグラスに注ぎ、その豊かな香りを楽しむ。普段は不測の事態に備えてあまり飲まないが、嵐越えの後には祝い酒も兼ねた一杯を味わうことにしていた。沈めば飲めないことを思えば、その旨さもひとしおだ。

  

 口に含んだ瞬間に広がる、芳醇で複雑な香気を存分に楽しむ。穏やかな波音をお供にゆったりとグラスを口に運び、半分ほど飲み干した頃にエーリーが部屋にやってきた。

  

「お前も飲むか?」

「……そうね、せっかくだからいただくわ。あら、果物みたいないい香り」

「ヴドピア産の蒸留酒らしい。初めて飲んだがなかなか美味いな」

  

 たっぷり酒が注がれたグラスを受け取った彼は、しばらく黙って異国を味わっていたが、ふいにぽつりと呟く。

  

「ねぇ、ヴァン。……誤解を、解かなくていいの?」

「……なんの話だ?」

  

 ヴァンジューがとぼけると、エーリーは眉根を寄せた。

  

「リーなんて名乗らせて、トルックに口止めまでして、にわからないようにしたつもり?」

「……別に。ご令嬢が海賊船に乗ったなんて話が流れたら、外聞が悪くて色々と面倒だろうが。それに、一体なんの誤解を解く必要あるっていうんだ?」

  

 しばらくの間、部屋の中には波音ばかりが満ちていた。ややあって、エーリーは口を開く。

  

「……だってあの子、海賊閣下を誤解してるじゃない」

「そうなのか?あいつの叔父とやらが言った海賊閣下がどこのどいつかなんて、俺は知らないからな。どこの海にも多少の海賊はいるものだし、海軍の中にも制服を着た海賊みたいな連中はごろごろしてるだろ」

  

 エーリー相手に誤魔化したところで、無駄なことはよくわかっている。だがこれは、ヴァンジューの中ではもう決まったことだった。どこか太陽を思い起こさせる彼女のことを知れば知るほど、その思いは強くなるばかりだ。

  

「……あたし時々、あんたのそういうところが腹立たしくてたまらないわ。そうやって生きていって、肝心なあんたの手には一体何が残るっていうのよ」

  

 どこか怒りの滲む彼の声に、窓から見える半月を見つめながらヴァンジューは答える。

  

「……船と仲間で充分さ。余計なことはするなよ、エーリー」

「あたしはなにもしないわ。……でも、あの子は聡い。だから気づくわよ。あんたの思惑なんか吹っ飛ばして、きっと気づいてくれるわよ!!」

  

 残りを一気に飲み干したグラスをだん、と叩きつけるように机に置くと、エーリーは荒々しく部屋を出て行った。 

  

  

 *  *

  

  

 晴れ渡った空の下、甲板に出たシャニィは気持ちよく伸びをする。

  

「あー、いい天気ね!」

「本当っスね!生きてると空気が旨いや!」

  

 昨日くぐり抜けた嵐は夢だったのかと思うような、とびきりの快晴だった。海も空も青く澄み渡り、島を覆う緑は目に鮮やかだ。

  

 円環状にぐるりと嵐で囲まれたこの不思議な島で下船するのは、いつも船長と副船長とエーリーとダントの四人だけで、他の人間は降りる許可が出ないのだという。そのヴァンジューたちは、朝も早くから大量の荷物を持って出掛けていった。知れば知るほど不思議なところのある海賊たちね、とシャニィは玄能げんのうやヘラを用意しながら思う。

  

 船に残った人々はいくつかの班に分けられ、それぞれ修理や整備を進めることになっていた。この島自体はどんなに晴れていても、帰路に就けば確実に嵐に遭遇する。そのために、できる限りの備えをしておく必要があるからだ。各長たちの部屋を潰してまで詰め込まれていた荷は、修理のためのものや、漂流する羽目になった際の予備の食料で、全ては嵐越えの備えだった。

  

 シャニィ、トルック、リッケル、ポポの四人が振り分けられたのは、甲板の整備班だ。四人はヘラと玄能を手にして等間隔で並び、木の外皮でできた〝まいはだ〟呼ばれる繊維を木材と木材の隙間に打ち込んでいく。これは水漏れを防ぐための作業だった。

  

「その海峡を通る時にもしもその声が聞こえたら、その夜は絶対に寝ちゃ駄目っスよ。じゃないと、夢を渡ってそのが来ちゃうから。もし取り憑かれたら、死ぬまでまとわりついて離れなくなっちまいますからね」

「ひぇー!」

  

 ポポは十代半ばの少年だが、どうやらかなりの怖がりであるらしい。彼の素直な反応を面白がって、リッケルとトルックは作業をしつつ船乗りに伝わる怖い話を次々に披露していた。

  

「リッケルさん、他になんかないスか?」

「うーん、もうこれ以上は知らないかな……今まで誰かが話してても、結構聞き流してたもんだから……俺は正直、化け物なんかより人間の方が怖いって性質たちだし……ポポがこんなに喜ぶってわかってたら、もっとしっかり覚えておいたんだけど」

「喜んでないですよ!!っていうか、化け物より怖い人間ってなんなんです!?」

  

 怯えきった顔で、ポポがリッケルを見る。

  

「えー?そうだな、例えば……まぁデンバーロアとか?」

  

 ふいに飛び出した聞き覚えのある名前に、シャニィは思わず手を止めてリッケルの方を見た。その視線に気づいた彼は、どこか意味深な顔をして笑う。

  

「知ってる?」

「……公爵家のデンバーロア?」

  

 とは言っても、有名な大貴族ゆえに一応名前を知っているだけで、シャニィ自身は関わりは全くない。民間に嫁ぐつもりで社交界デビューもしなかったため、夜会ですれ違うようなこともなかった。もしかしたらまた別のデンバーロアかもしれない、とも思ったのだが、リッケルはにっこり笑って頷く。

  

「そうそう、そのデンバーロア」

  

 彼は手際よくまいはだを詰めながら、淡々と語る。

  

「公爵としての体裁を保つために表はうまくキレーに見せてるらしいから、関わりのあるお貴族様でもその実態を知らない人は案外多いんじゃない?でも裏はどろっどろの真っ黒、ってのがその筋でのもっぱらの噂だ」

  

 リッケルは苦笑しつつ付け足した。

  

「まぁ俺たちはそんな雲の上の人と関わることはないだろうけど、シャニィは良いとこのお嬢さんなんだろ?それに氷の閣下と結婚すんなら、いずれは伯爵婦人だ。万が一どっかで会うことがあったとしても、極力関わらないように気をつけな」

「おーい!リッケル!ポポ!悪いがちょっと手ぇ貸してくれー!!」

  

 二人が別の班の助っ人に呼ばれたため、しばし残った二人で黙々と作業を続ける。

  

「それにしてもやるっスね、シャニィさん。こんなに短期間でヴァン船長から贈り物をもらってるなんて。よっぽど気に入られたんだなぁ」

「……え?」

  

 なんのことかわからずに首をかしげると、トルックはにかっと笑ってとんとんと自分の首元を指先で叩いた。

  

「もしかしてこれのこと?」

  

 シャニィは首もとから金鎖を引っ張り出す。海に金の波が走っているような石が、太陽の光を受けてきらりと輝いた。

  

「それ、船長のペンダントと揃いのデザインでしょ?あ、やっぱりそうだ。冠のとこだけ、少し違うんスね。いやぁ、あの人装飾品とか興味ないらしくてあんまりしないんだけど、あのペンダントだけは大事なのか昔からずっとつけてて。なんかそういうのいいなって思ってたんで……」

  

 彼が最後まで言い終えないうちに、ジグが甲板に出てきて小走りで駆け寄ってくる。

  

「いたいた、トルック。船長が言ってた新しい滑車が見当たらないんだが、何か聞いとるか?」

「あっ、そういや滑車の場所動かしたっけ……確か厨房長の部屋だったと思うけど……すいません、シャニィさん。ちょっと抜けるっス」

「いってらっしゃい」

  

 ジグとトルックを見送り、シャニィは作業に戻る。手は淡々と動かしていたが、頭の中はついさっき言われたことでいっぱいだった。


 ———冠だけ違う、揃いの……


 もしこのペンダントがよくあるデザインのものなら、似たものを色々な人が持っていてもおかしくはない。だが、町を見て回った限りでは、シャニィのペンダントのついに見えるようなものはひとつも見当たらなかった。流行はやすたりはあるから、今の流行のデザインではないということかもしれないが、何かが引っかかっている。


「……」

  

 ガララタンに着いてエクロズに会った時から、いや恐らくその前から、言いようのない違和感は確かにあった。


 そもそも、なぜシャニィが民間に嫁ぐと思っていたかというと、初めて約束の話を聞いた時に「彼のところへ行った場合、君は今よりずっと自由になるが、同時に今受けている貴族令嬢としての恩恵はなくなる。それでも構わないか」と、叔父に聞かれたからだ。


 シャニィが貴族でなくなり、生活が不安定になる可能性を危惧したからこそ、兄ラジアンはあんなにも反対していたのではないか。


 思い返せば返すほど、違和感は強くなった。まるでボタンを掛け違えているような、そんな違和感が。


「……」

  

 叔父が生きていた頃には、その冒険譚をせがんでよく聞かせてもらった。西の最果てにある不思議な王国、アラパータ山の世捨て人、北の大地の一夜城、そして———嵐の中を突き進む、一せきの船の話。


 海が荒れると舵輪だりんは重くなり、到底一人では動かせなくなるらしい。それを男たちが何人も取りついて、懸命に回して舵を切るのだ。叔父は臨場感たっぷりにそれを語り、シャニィはいつもどきどきしながら聞いていた。

  

 冒険の高揚感と、シャニィの未来の夫のその勇姿に。


 ———そうだわ。彼のことを語る時、叔父様は何度もこう言っていた……

  

「嵐さえものともしない、親愛なる海賊閣下」と。

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