168. 慟哭
強欲のファバニール。
その竜が欲したのただ一つ、一人の少女の存在だった。
ブリュンヒルデという少女をファバニールは求めた。
ファバニールは生まれてからずっとブリュンヒルデと共にいた。
ファバニールにとってブリュンヒルデは、母であり、友であり、惟一のかけがのない存在だった。
たとえその少女の心が自分にないとわかっていも、ファバニールは彼女を求めた。
たった一つの願い。
ファバニールにとってそれはブリュンヒルデと一緒にいることだった。
竜の気持ちを人間の言葉で表すならば――愛。
ブリュンヒルデが全てであり、彼女のいない世界に意味などなかった。
「ファバニール……」
少女の、ブリュンヒルデの悲痛の声が届く。
失うのが怖かった。
孤独になるのを恐れた。
竜の王として生まれてきたことを、ファバニールは本能で理解していた。
この世界の頂点にすら立ち得る力をもって生まれたことを理解していた。
だからこそ、竜は恐れた。
彼女がいなくなってしまえば、本当の理解者がいなくなってしまう。
少女が自分を向いていないことなど、疾うの昔に理解していた。
その瞳に他の誰かが映っていることを理解していた。
理解していてもなお、ファバニールは共にいたいと願った。
たった一人の少女への愛。
たった一つの願い。
強欲というには、あまりにも狭い。
しかし、その願いは深く強欲と呼ぶにふさわしいものだ。
自分のすべてを投げ売ってでも、少女の無事を願った。
「――――」
ファバニールは致命傷を負っていた。
喉からはヒュウヒュウという掠れた音しか出ない。
もう長くはないだろう。
もう助かることはないのだろう。
ならばせめて、最後のときはブリュンヒルデとともにいたかった。
ファバニールはブリュンヒルデを見つめる。
竜と人間には大きな隔たりがある。
ファバニールの爪では少女を傷つけてしまう。
ファバニールの口では少女を燃やしてしまう。
ファバニールの体躯では少女を押しつぶしてしまう。
ファバニールでは少女の涙を拭くこともできなければ、慰めのセリフを吐くこともできない。
抱きしめてあげることもできない。
「ファバニール……ファバニール……」
ブリュンヒルデの声がファバニールの耳に届く。
ああ、そうか……と、ファバニールは目を細める。
ブリュンヒルデの瞳には自分がうつっていないと思っていた。
でも、それは違った。
こうして悲しんでくれている。
たしかにブリュンヒルデの瞳にファバニールが映っていたのだ。
「――――」
愛してしまったなら、愛を知ってしまったなら、もうそれを知る前には戻れない。
強欲にも、愛が欲しくなる。
愛を得るためになんだってやってあげたくなる。
その結果が今だと言うなら、ファバニールに後悔はない。
本当に欲しいものは得られたのだから。
もう手の中にあったのだから。
ファバニールは穏やかな表情で、ゆっくりと目を閉じた。
その胸に愛を宿して――。
◇ ◇ ◇
燃えるような恋をした。
文字通り、身を焦がすほどの恋。
ブリュンヒルデにとってジークへの想いは、まるで灼熱の炎だ。
想いが強くなればなるほど、内側から燃やされるように感じる。
熱い。
夜、一人でいるときに想像してしまう。
妄想してしまう。
火照った体をおさめようと、一人で事を済ませる。
しかしそれでも熱は収まらない。
たった一つの想い。
ブリュンヒルデは世界を憎んでいた。
世界に嫌われているのだから、彼女だって世界を嫌う。
なぜ自分だけ他と違うのか?
息が苦しくて、生きるのが苦しい。
もがいてあがいて破滅して――。
それでもまだ、体を燃やさんとする灼熱の想いは消えなかった。
いっそのこと炎に燃やされ灰になれたらなら良かった。
「私を燃やして。灰にして。ぐちゃぐちゃにして燃やし尽くしてほしいの」
かつて彼女はファバニールに頼んだことがある。
ファバニールはブリュンヒルデの願いならなんでも叶えてくれた。
でも、その願いだけは聞き入れてくれなかった。
ブリュンヒルデを殺してはくれなかった。
「なんて愚かで自分勝手な願いなのかしら」
ファバニールの気持ちを理解していたのはずなのに。
ファバニールにとって大事なものが自分だとわかっていたはずなのに。
殺してくれと言われたときのファバニールの悲しい顔を理解していたはずなのに。
ブリュンヒルデはファバニールに自分を殺しくれてと頼んだ。
彼女は自分のことしか考えていなかった。
恋は盲目というけれど、彼女は本当に大切なものを見失っていた。
失ってから、その大切さに気づいた。
最後の、そして唯一の繋がり。
ファバニールとの繋がりがぷつんと切れた。
それは、つまり――ファバニールの死を意味した。
――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ブリュンヒルデの慟哭がニーベルンゲン平原に響き渡った。
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