93. ソファ

 アフロディーテはシャーリックの研究室か、フレイヤの研究室か、どちらに入るか悩んでいた。


 どちらもいま最も人気の研究室であり、多くの学生が志望している。


 研究分野としては、やはり伝統的なフレイヤの研究が好きだった。


 しかし、シャーリックの研究も魅力的である。


 研究員の中で、最も優秀なアフロディーテはどちらを選ぶこともできたし、どちらの研究室からも声がかかっていた。


 フレイヤの研究は、魂の研究だ。


 魂とは、つまり魔法の根源である。


 魂の研究を突き詰めれば、魔術師が求める魔法の真髄に近づくことができるだろう。


 魂とはどこから生まれるのか?


 死んだ魂はどこになるのか?


 そもそも魔法とは何か?


 なぜ人間は魔法が使えるのか?


 古くから探求されてきた分野であり、今でも解明されていないことが多々ある。


 魔法使いとして、その探求には心惹かれる。


 それに対し、シャーリックの研究は実践的なものであった。


 シャーリック理論、またの名を並行理論。


 これは現代の魔法に革命を起こすほどの斬新な理論であった。


 シャーリック理論の研究を突き詰めれば魔術が大きく発展する。


 シャーリック理論の魅力的なことは、応用の仕方が膨大にあることだ。


 未知への探求という意味でいえば、魂の研究に負けず劣らず心惹かれる研究分野であった。


 悩んだ挙げ句、アフロディーテはフレイヤの研究室に入ることにした。


 魂という永遠のテーマを追いかけたいという気持ちが勝ったのだ。


 フレイヤもアフロディーテが来ることを喜んでくれた。


 ちなみに、最終的な決め手となったのは親の意向だ。


 代々魔術の研鑽を続けてきたアフロディーテの一族。


 アフロディーテ自身もそうだが、彼女の実家にとっても大きな関心ごとであった。


 そして今の時代には稀代の天才、フレイヤがいる。


 フレイヤのから師事を受けられることは、とても幸運なことであった。


 アフロディーテは魂の研究に没頭した。


 ちなみにフレイヤの研究で最も評価されたことは、魂に”重み”をつけたことである。


 魂は存在するだけで重力を発しているという考えだ。


 つまり、魂は他の物質とも影響し合う。


 最も魂の結びつきが高いものは、当然、肉体であろう。


 肉体に魂が宿り、肉体が滅んだときは魂も肉体から離れていく。


 死とは、肉体が魂を引き付ける力をなくした状態とも言えた。


 ここでもうひとつ仮説が立てられた。


 魂はどこに行くのか?


 その答えとも言える仮説だ。


 死者の魂は、死者の国ヘルに行く。


 これは通説とも言えることだったが、なぜ死者の国に行くのかは解明できていなかった。


 死者の国はこの世界よりも引力が強い、という仮説が誕生した。


 つまり、肉体から離れた魂は現世よりもより強力な引力を持つ死者の国に向かっていく。


 これらの考え方自体は古くから存在したものの、フレイヤの優れていたところは、魂の重みをつけることで理論的に説明したことであろう。


 この理論によれば死者の復活も理論上は可能である。


 死者の国よりも強い引力をもつ肉体はこを用意し、そこに死者の魂を引き寄せれば良いものだ。


 もちろん、そんな肉体は存在しないため、理論上可能なのであった実現は不可能に近い。


 だが、死者蘇生は不可能にしても、魂を転移させるということは可能だ。


 一度死者として魂を分離し、他の肉体はこに入れ替える。


 そうすれば魂の転移が可能になる。


 ちなみに、この考え方も古くから存在していた。


 そして過去には研究のために多くの犠牲を産んだこともある。


 たとえばアンデットの誕生。


 アンデットが街をひとつ滅ぼしたのは、ほんの数十年ほど前の出来事だ。


 だが、過去のものとフレイヤの研究の大きな違いは、理論として確立させたことだ。


 つまり、手探りの実験とは違い、成功する確立が極めて高いということだ。


 アフロディーテはフレイヤの研究を手伝うことで、フレイヤに心酔していった。


 過去にここまで魂の研究を進めた者はいなかった。


 シャーリックの研究も革新的だったが、フレイヤの研究もまた革新的といえた。


 他の者達とは違い、フレイヤの美貌ではなく知識に心酔したのだ。


 侯爵令息たちにいじめを受けようが、アフロディーテは大して気にならなかった。


 この研究の前では、いじめなど些細な問題だと考えていた。


 いまの研究を進めることが、彼女にとって何よりも幸福であった。


 だから、アフロディーテはこうなるとは予想もしていなかった。


「そう? このソファ、世界に一つしかない特別性なのに。もったいないわ。それについ最近新調したのよ?」


 アフロディーテはフレイヤとアークの会話を聞いていた。


 研究室で二人が話している。


 それを一番近く・・・・・・で聞いていた。


 アフロディーテの上にはフレイヤがいる。


 フレイヤがアフロディーテ・・・・・・・・・をツーっと撫でた。


 ゾクッとした。


 つい声が出そうになる。


 しかし、すでにアフロディーテには声を出す器官が存在していなかった。


 フレイヤが執拗にアークをソファに勧める。


 それをアークが断る。


 一見すると、優しくソファを勧めるフレイヤと、なぜか辞退するアークという構図にしか見えない。


 だが、今のアフロディーテにはそうは映らない。


 アークはおそらく理解している。


 何度かアークはフレイヤの持ち物を睨むように見ていた。


 彼は気づいているのだろう。


 アフロディーテがソファにされてしまっていることを。


 ここにあるほとんどのモノがフレイヤによって物にされた人間であることを。


 そう、彼女らの魂はモノに移し替えられていたのだった。


◇ ◇ ◇


 フレイヤの理論とは、魂の転移理論。


 この魂の転移理論の最も秀逸なところは、魂に重さという概念を与えたことである。


 つまり、魂を定義付けし、式に落とし込んだことである。


 魂が重さを持つ瞬間。


 それが死だ。


 死によって魂が肉体から離れる。


 だが、もっとも引力を持つのが死であるなら、魂の転移とは不可能なことになる。


 なぜなら、肉体から魂を引き出すことができても、それを肉体に戻すことができないからだ。


 つまり、不可逆であるということ。


 しかし、そこに一つの力が加わったとしよう。


 ヘルの力だ。


 ヘルは死の世界を統べる者と言われている。


 彼から力を賜り、ナンバーズⅦの地位を得たフレイヤは死の力を操ることができるようになった。


 フレイヤは小さな死の世界――固有結界を扱える。


 だが、それだけでは魂の転移は起こせない。


 魂の転移を引き起こすためには、対象が自ら死に近づく必要がある。


 死に近づく、つまりフレイヤに・・かれる必要があった。


 フレイヤへの好意が、魂を引き離す力として作用するのだ。


 こうしてアフロディーテはまんまとフレイヤに魂を持っていかれたのだった。


 そしてフレイヤが用意した箱。


 それはソファだ。


 ちなみに、原作でもアフロディーテはフレイヤに魂を持っていかれる。


 アークの介入があったにも関わらず、原作通りに進んでしまったのである。


 さすがにアークでも覆せない原作の修正力が働いたのだろうか?


 それは誰にもわからない。


 この後、どのような展開になるか誰にもわからない。

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