Interlude ~その名は紅~
※作者より
今回でこの物語は一旦完結となります。
前回のInterlude二話から更新時期が空いてしまいましたが、こちらを読む前か後にでも(特に「傭兵稼業」の方は)再読していただけたらありがたいです。
(2023.11.24追記。最終話としてもう一話加筆しましたので、次回が最終話となります。)
Interlude ~その名は
三人のテロリストを一瞬で戦闘不能にしたカーマインは、スーツの上着を素早く脱ぎ、裸の人質に渡した。
「これを着てベッドから降りて」
呆然とした人質をよそに、ワイシャツのボタンを引き千切って一瞬で脱ぎ捨てると、その下に着ていた薄手の防弾チョッキも脱いで渡した。
「でかい音を立てちゃったから、下の連中が様子を見に上がってくる。戦闘になったら流れ弾が飛んでくるかもしれないからね。これも着て」
人質がこわごわとベッドから降りてチョッキを着始めると、カーマインはベッドの下に手をかけ、軽々と持ち上げて引っくり返した。
「その後ろに隠れて」
だが人質は呆然と立ちすくむだけで、動こうとしなかった。カーマインは床に放り出された彼女のスラックス――誘拐犯たちに剥ぎ取られたのは明白だった――を拾って手渡した。
「安心してくれ、ブランシェット博士。イギリス政府の依頼であんたを助けに来た。カーマイン・セキュリティー・サービスという会社の者だ。つまり傭兵だね」
だが人質――リザ・ブランシェット博士の目から恐怖心は消えなかった。性暴力を受けた後の人間の怯えた姿。カーマインも散々見てきた経験がある。
おそらく今の彼女にとっては、あらゆる暴力の気配は恐怖の対象でしかない。カーマインという名前は軍人の頃から使っている名前だったが、
八年前、地獄を後にしたあの日に着ていたドレスの色で、自分にとって解放の象徴となる色だったから、この名前は気に入っていた。だがここは本名を名乗った方がリザを安心させられるだろう。
「何も怖がらなくていい。私はロゼリア・ライヴリー。この国で一番こういう仕事に向いてる人間だ」
その名前を告げたとき、リザの表情が微かに変化したのをカーマインは見逃さなかった。彼女も五年前までイギリスで暮らしていたそうだから、一家殺害事件の生き残りとして大々的に報道されたロゼリアのことは知っていただろう。
リザがまだ動こうとしないので、カーマインは改めて立てかけたベッドの後ろを指さした。
「ゴミ掃除をしてくるからそこにいて。掃除機が部屋を一回りするより早く終わるから」
一階にはまだ十一人のテロリストが残っているが、カーマインにとっては準備運動も同然だ。
リザがスラックスを抱えてベッドの後ろに隠れると、カーマインは失神した誘拐犯三人をベッドの前に引っ張ってきた。ベッドのマットレスは当然銃弾が貫通してしまうが、防弾チョッキを身につけたこいつらの身体を盾代わりに立てかけておけば、流れ弾がリザに当たる可能性はまずない。
床に落ちた銀色の十字架と細い鎖が目に付いた。テロリストのものとは思えないからリザのものだろう。服を剥ぎ取られたときにペンダントも引きちぎられて落ちたらしい。
それをポケットに入れ、今度は失神した三人から武器を取り上げようとしたが、その時間はなかった。様子を見に下の階の奴らが既に二階の廊下まで来ていた。
「おい、何があっ――」
ドアを開けた男は、真正面からカーマインの前蹴りを腹に受け、廊下の手すりを越えて一階に落下していった。――あと十人。
蹴り飛ばすとき男の方は見てもいなかった。カーマインは手元の時計に目を落としていた。
見たのは時刻ではなく秒針の位置のみ。一分以上かける気は更々ないからだ。
男の身体が床に叩きつけられ開戦の合図となる盛大な音を立てたときには、カーマインは既に廊下に躍り出て、階段を上がっていた男二人の右肩を撃ち抜いていた。それぞれ拳で一撃ずつ入れて戦闘不能にする。――あと八人。
階段を上がろうとしていた男がようやくカーマインに銃を向けるが、跳躍したカーマインは猛禽類の狩りのように男の頭上から襲いかかり、頭を踏みつけた。倒れた男が後頭部を打ち付けて昏倒すると同時に、ダイニングにいた男たちのうち一人の太ももを撃ち抜く。――あと六人。
ダイニングから銃弾の雨が降り注ぐ前に、昏倒した男の身体を引きずり上げて盾にする。防弾チョッキを着ているのは服の厚みで確認済みだ。そして横幅の太めな大柄な男であることも。身長一六二センチのやや小柄なカーマインの身体は完全に男の陰に隠れる。そこから射撃するために顔を出す必要もない。六人分の人型をしたルミナスの位置は見なくともわかるし、カーマインにとって脚の位置を狙って片手でライフルを撃つことは難しくない。更に二人の脚を撃ち抜く。――あと四人。
残りの敵がダイニングの壁に身を隠す前にもう一人撃とうとしたが、弾切れだった。リザが襲撃されたときにこのライフルが使われてから、弾倉を交換していなかったらしい。これだから素人は。だがここまで敵が減っていれば問題ない。
カーマインは盾にした男を前に突き出したままダイニングに突っ込み、まずは入口左にいた男の顎先に一発お見舞いし、ふらついたその身体を背負い投げで右手の二人に向けて放り投げた。左手のもう一人が発砲するのを素早く頭を下げてかわすと、そのまま低姿勢で突進してみぞおちに拳をめり込ませた。――あと二人。
放り投げられた男の身体をはねのけて立ち上がった二人に向かって、ダイニングテーブルを蹴りつける。一人が壁とテーブルの間に挟まれ苦痛の呻きを上げる。――あと一人。
銃を取り落とした最後の一人が、咄嗟にキッチンの包丁スタンドから包丁を抜いてテーブルに飛び乗ると、カーマインに向かって飛びかかった。
カーマインはそれを素手で受け止めた。ヌキテの形にした手の中指の先で――リーンフォースで硬化されたそれで、鈍色に光る刃を止めてみせた。
「えっ? はっ……」
バランスを崩しながら着地した男は、呆然と包丁を見つめた。その両鎖骨に手刀が振り下ろされる。左右の鎖骨が瞬時に砕かれ、包丁を取り落とした男は悲鳴を上げてその場に跪いた。――あと〇人。
再び時計に目をやる。――全員無力化するまで二十七秒。まあまあの数字だった。
キッチンで見つけたダクトテープで全員を拘束した(片脚を撃ち抜かれた者たちは脚を引きずりながら外に逃げようとしていたが、首根っこを押さえて連れ戻した)カーマインは、二階に戻った。
最初に叩きのめした三人が動き出していないかは常に注意を払っていたが、まだ起きてこないようだった。
「もう終わったよ。奴らは全員拘束した」
スラックスとスーツの上着を着ていたリザがベッドの陰から顔を出した。
「さて、迎えを呼ぶ前にやるべきことを片付けようか」
予定を変更して全員殺さずに――中には重体の者もいたが――おいたのは、ガーフィールド大佐が情報を引き出したがるからというのもあったが、それ以上にこいつらの処遇を決めるに相応しい人間がいたからだ。
「顎が折れてないのが一階にしかいないな」
この部屋にいる三人の誘拐犯は、リーダー格の男を含め全員が下顎骨を粉砕されているので会話になりそうもない。カーマインは仕方なく下の階から比較的軽傷の者を選んで、軽々抱え上げて二階へ運んだ。
「さて、おまえにこれから質問する。迅速に、正直に答えるんだ」
カーマインは拘束した男を椅子に座らせると、自分は横倒しにしたベッドに腰掛けた。リザはその後ろで壁際に所在なげに立っている。
「一応確認しとくけど、リザ・ブランシェット博士を誘拐したのは、元々彼女が開発してたっていう新兵器の情報を引き出すためでいいんだよな?」
「何の話だ……? 俺たちはその女を処刑するために拉致した。黒人の血が流れていながらクリストファーに協力してたからだ」
リザと父親のダニエル・ブランシェット博士は、クリストファーが率いる傭兵集団に協力していたらしい。だが何らかの理由でリザは彼らから離反することを選び、中東某国のイギリス大使館に保護を求めてきた。
カーマインとしては、自分が祖国の土を再び踏むことになった経緯を連想せずにはいられない話だ。だがロゼリアと違い、リザの帰国は上手くいかなかった。空港から護送される最中、現在ではクリストファーとほとんど敵対関係にある黒曜連合の手の者に襲撃された。
政府関係者から情報が漏れていた点も見逃せないが、そもそも一人の科学者をそうまでして拉致しようとする理由が、ブランシェット父子の研究にあるというのは想像に難くない。だが下っ端がそれを知らされているとは限らない。
「あくまで目的は殺すことだと? なら身代金は? 入金を確認次第、彼女を殺すつもりだった?」
男は俯いて黙り込んだ。カーマインは数秒待った後、立ち上がって男の顔に手を伸ばした。
男が顔を上げた瞬間、カーマインは指先にぶら下げた左耳を見せた。男自身の耳だった。あまりに素早かったせいで、引きちぎられるまで耳に触られたことにも気づかなかったようだ。
「あああぁぁぁっ!」
男の悲鳴に混じって背後でリザも小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。
「迅速に答えろと言っただろ? 人の話も聞けない耳なら要らないよなあ?」
カーマインは男の髪を掴んで顔を上げさせた。
「リ、リーダーが計画を変更して身代金を取ろうって……どうせ殺すならって」
当初の予想どおり、誘拐実行犯のリーダーが黒曜連合を裏切る形で独断専行したようだ。まあその辺りの細かい事情に興味はない。
「どうせ殺すならか……それでついでにレイプしたって?」
言葉に詰まった男の右耳をそっと摘まむ。男が慌てて口を開く。
「その女は血を裏切ったんだ! 母親が黒人でありながら、俺たちじゃなく白人のクリストファーに味方した! その制裁を加えてやったんだ」
カーマインは鼻骨が折れる程度で済むよう加減して男の顔面を殴りつけた。
「はあ? 違うだろ。そうじゃない」
カーマインは元より黒曜連合の思想に興味はない。だがこの部屋で行われたおぞましい行為に、それが無関係であることは明らかだった。
「さらったのがきれいな女だから、欲望のまま犯した。それだけだろうが。黒曜連合の思想信条も、おまえの思想――そんなものがあればだが――それも何の関係もない。おまえはただの薄汚い強姦魔だ」
政治的思想や宗教を理由として掲げ、暴力を振りまくテロリストたち。奴らの主張にどれだけ正当性があろうと、性暴力に走った時点でそんなものは何の意味もなくなる。
カーマインに言わせれば、監禁した異教徒や異民族、異なる思想の持ち主を強姦するような連中は、そもそも信念に従って行動などしていない。貧困やうだつの上がらない人生に嫌気が差したような連中が社会への復讐のためにテロリストになり、そういう奴らが溜め込んだ性欲を発散するために捕らえた弱者を犯しているだけだ。そこには思想も、ましてや一欠片の正義も介在する余地がない。
もう一度殴りつけると、ついに男は情けなく泣き始めた。だがカーマインは容赦するつもりはない。
「正直に答えろ。この場で彼女に手を出した奴は?」
「それは、お、俺と……そこの二人と、下の階の――」
「リーダーのこいつはやってない?」
「すぐに出て行ったから……」
「そうか。ちょうどよかった」
カーマインは振り向くと、恐怖と嫌悪感に眉をひそめているリザに何でもないことのように語りかけた。
「ブランシェット博士、こいつらをどうやって殺してほしい?」
「……え?」
「リーダー格の男からは情報を吐かせたかったんだが、こいつはあんたに手を出してないそうだから生かしておいてもいいかな? 他の奴は殺してもいいからさ」
「何を……」
「ああ、別に何か要求しようなんて気はないから安心して。サービスだと思ってくれればいいから。こいつら通信を妨害してるから、ここでの会話は私たち以外の誰にも知られない。ただあくまで戦闘中に殺傷したってことにはしときたいから、露骨に痛めつけて殺すようなリクエストには応えられないけどね。不自然じゃない範囲で苦しんで死んでほしいなら、肺を刺すのなんかはおすすめかな」
リザは呆然とカーマインを見つめた。まあすぐに受け止めるのは難しいかもしれない。
「殺したいだろ、こいつら? それが自然な感情だよ。無理に抑えなくていい」
「私は……」
「よくわかっただろ? こいつら、黒人が歴史上奪われたものを取り戻すための聖戦なんて言ってるけど、本気でそのために戦ってるのなんて黒曜連合の中でも一部だよ。ここにいる奴らは全員ただのゴミだ。金を手に入れて高飛びするチャンスがあれば思想なんて放り出すし、いい女を拉致する機会があれば喜んで犯す。生かしておく価値なんかないんだよ」
「でも……逮捕されるんですよね? 私にしたことも、護送の人を撃ったことも、ちゃんと裁かれて……」
「法で裁かれれば、こいつらが刑務所にぶち込まれたらそれで満足なのか? 自分をごまかさなくていい。正直になっていいんだ」
だが誰もがかつてのカーマインのように、性的暴行を受けた後ですぐに憎悪と怒りを燃やせるものでもないだろう。
「確かにこいつらの刑期は長いだろうな。女日照りの監獄生活で、こいつらはあんたにしたことを思い出すだろうよ。あんたの感触を何度も思い出してマスをかくんだ。こいつらクズはそういう生き物だ」
リザの顔が見る間に青ざめ、俯いて口元に手をやった。嘔吐するのをかろうじて堪えたようだ。
「悪かった。あんたを苦しめたいんわけじゃないんだ。でもね、陵辱を受けるっていうのはそういうことなんだよ。究極的には自分を犯した記憶を消してもらわないと、死んでもらわないと清算はできないんだ。私はそのことをよく知ってる」
ロゼリアがかつてボスだけではなく〈断頭〉隊の男たちを皆殺しにした理由の一つもそれだった。部下を犯した人間を、その記憶を楽しんで思い出すであろう男を、誰一人生かしておきたくなかった。
「私はただ、後悔してほしくないんだ。少なくとも私は、復讐してなければずっと後悔してたはずだから」
涙を流し、嗚咽をこらえながらリザは顔を上げた。
「私も、後悔するかもしれない」
リザの答えに、男たちが情けなく息を呑んだのがわかった。顎を砕かれた三人もとうに気がついて、気絶したふりをしながら恐怖に震えていたことはカーマインにはわかっている。
「でも……やっぱり殺さないで」
泣きはらした目でカーマインを見つめ、はっきりそう言った。
「それは、法に反するから? それとも神の教えに反するから?」
カーマインはポケットに手を突っ込み、先ほど拾った十字架に触れた。
「――いいえ、違う。たぶんそれもあるけど、一番の理由じゃない」
「なら自分の信念に反するから?」
「……それも、違う。私がこの人たちを殺してほしくないのは……あなたにそんなことをしてほしくないから」
「――私に?」
意外な答えに、カーマインは面食らった。
「あなたが……優しい人だから、無抵抗の人間を殺すようなこと、してほしくない」
続く言葉もまるで意味がわからず、カーマインは思わず眉をひそめた。
「私が優しいから? 何かの冗談?」
「いえ、あなたはいい人です……私のために、レイプ犯を始末してくれようとしてる。私の苦しみが少しでも和らぐように。でもだからこそ、私はあなたに甘えるわけにいかないんです。……人の苦しみを自分のことのように受け止められるあなたに、人を苦しめて殺させるようなこと、させちゃいけないんです」
リザの言葉は、カーマインの予想の範疇を超えていた。
この血まみれの手を今更汚すことを厭うはずもなかった。それで傷つく心など既に持ち合わせていない。
私が今まで何人殺したと思ってるの? リザにそう言ってやることもできた。
「……そうか。それがあんたの答えなら、私の今日の仕事はこれで終わりだな」
だがカーマインは彼女の意思を尊重することにした。本人が決めたことだからというだけではない。リザの、自分とは異質な意思の強さを認めたからだった。
そっと安堵の息を吐いた男たちにはもはや一瞥もくれず、ベッドを隔てて立つリザに手を差し伸べた。
「外に出て迎えを呼ぼう。いつまでもこいつらと同じ空気を吸いたくないだろう?」
リザはおずおずと手を取った。背の高い彼女は、隣に並ぶとカーマインからはやや見上げるような格好になる。
家を出て新鮮な空気を吸い込んだ後、携帯端末を取り出したが、案の定妨害電波で通信ができなかった。この家からもっと離れる必要がある。
庭というよりただの原っぱを、何となくリザと並んで歩き出した。
「あの、寒くない?」
カーマインは防弾チョッキを脱いでいたので、上半身は黒いアンダーシャツ一枚だった。
「いや、寒いのは陸軍の訓練で慣れたから」
「そう……軍人になったのは、あなたが昔助けられたから?」
二年間誘拐されていたロゼリア・ライヴリーは、イギリス軍の特殊部隊が救出した。――彼女が八年前に計画したとおり、世間にはそういう
「いや、それは関係ないよ。私はただ、普通の生き方が息苦しかっただけだ」
イギリスに帰ってきてからの、どこか霞がかかったようなぼんやりとした日々を思い出す。願ったはずの生活は、地獄の鮮烈な記憶と比べると、茫洋として現実感に欠けたものだった。
「帰国してからしばらくして高校に編入したんだけどね、その頃には案外普通の暮らしってやつができそうだったんだ。私のことは取材規制と報道規制がかかってたけど、顔写真は両親が殺されたときに散々出回っててね。遠巻きにされて陰口も言われたが、そんなもんはいちいち気にするほどのことじゃない。そのうち学校の子とも言葉を交わすようになって、少しは高校生らしい生活を始められそうだった」
そう、ロゼリアは確かに日常に順応できていた。そのはずだった。
「だけど、あるときふと考えちゃったんだよ。ここにはこんなに大勢の人がいるのに、誰も私に殺意を向けてこない。これが平和な社会だ。けど、本当にそうなのか? もしかしたら私は平和に慣れすぎて、自分に向けられる殺意を感知できなくなっているんじゃないかって」
「殺意の感知って、ルミナスで?」
「話が早いね。もしかしてあんたも使える口?」
その可能性は初めて会ったときから考えていた。リザのルミナスは平均的なそれより明らかに強い。だがそれだけではRMⅰNASを使えるとは限らない。
「……私はあなたみたいに身体能力を強化することはほぼできないけど、ルミナスを知覚する程度なら多少は」
何もRMⅰNASの効果は戦闘にだけ発揮されるものではない。中でもナーヴは頭の回転を速くするのに使えるから、頭脳労働者には最も重宝する能力だ。リザが使えるとしたらそちらの方面の可能性が高い。だがカーマインはあえて追求しなかった。
「とにかく私は、その殺意の感知が知らない内にできなくなってるんじゃないかと疑った。廊下や食堂の無数の生徒に紛れて、自分を殺そうとする奴が背後に忍び寄ってきても、実際に刺されるか撃たれるまで気づかないんじゃないかってね」
「誰も殺意を発してないから殺意を感じないんじゃなくて、自分の殺意を感じる力がいつの間にかなくなっているんじゃないかって……? けど、もしもその力を失くしてしまったとしても、もう命を狙われることなんてないんじゃ……?」
「誰にも命を狙われてないとは限らない。黒曜連合の人間が逆恨みしてるかもしれない」
「標的になるとしたら、あなたを助けた軍人たちなんじゃ? あなたが狙われる理由がない」
「ああ……そうだね。そうだといいんだが」
ロゼリアが〈徴税人〉の〈断頭〉隊を皆殺しにしたことは〈徴税人〉の他の部隊には知られただろうし、そこから黒曜連合にもその話が伝われば、暗殺対象になってもおかしくない。たった一夜で五十人殺すような人間が、誰からも怨まれずにいられる方がおかしいのだ。
「だが誰かに狙われてるんじゃないかって強迫観念は、どうしたって消えないんだ。敵の脅威が去っても、自分の警戒心からは逃れられない」
一度戦士として生きてしまったら、もう二度と戦士でない自分には戻れない。それを痛感させられることになった。
「このまま平和なスクールライフを送ってたら、戦場で研ぎ澄ませた感覚がどんどん鈍っていく。――そう思って高校はやめたんだ。そして気づいた。力を失くしたときに身を守れなくなることだけが怖いんじゃない。私は単に手に入れた力を失いたくなかったんだ」
二年間かけて必死で身につけたものが、どんどん失われていく。地獄でたった一つすがれたもの。平和な社会に戻ったからとあっさり手放せるはずがなかった。
「だから軍に?」
「軍の生活は必ず昔のことを思い出させるのはわかってた。でも結局、学校で普通の子供に混じって生きてたって、あの地獄が記憶から消えてくれるわけじゃない。だったらせめて、あそこで身につけた力を有効に使える場所で生きていく方がマシだ」
リザは遠くを見つめながら、風にかき消されそうな小さな声で呟いた。
「忘れることは、できないのね……」
「ああ、前に進むことはできてもね」
下手な気休めは言いたくなかった。復讐するにせよ、
カーマインはポケットから十字架を出して、リザの前に掲げた。
「これを返しとくよ。あんたには必要なものだろう」
「……ありがとう」
「今でも神を信じられる?」
意地の悪い問いかと思ったが、つい口に出してしまった。リザはそっと十字架を手に取ると、それに目を落としたまま呟いた。
「……わからない。でも信じたいと思う」
「――そうか」
ロゼリアの信仰――と呼べるほど強固なものではなかったにしろ――は子供時代を終わりにされたあの日、捨て去っている。そのことを一瞬たりとも惜しいと思ったことはない。
だが信仰がその人間の善良さを形作ることがあるのは知っているし、カーマインは昔も今も人間の善には敬意を払っていた。
「神が本当にいるなら……あなたにもきっと神のご加護がある」
カーマインははっと顔を上げた。それはたった今自身が口に出そうとして飲み込んだ言葉だった。
「私には……必要ないよ。自分の身は守れる。私の分も、あんたのような人間に加護があるべきだ」
リザ・ブランシェット博士が革命家クリストファーの下でどんな兵器を開発していたのかは知らない。抜け出そうとしたくらいだから、何かしら非人道的な研究に従事していたのかもしれない。
それでもロゼリアは願わずにはいられなかった。彼女に神のご加護がありますようにと。人に血を流させることを嫌う、優しい人間に救いがあることを。自分と同じ傷を抱えることになった彼女の、その傷がいつか癒えることを。
“Longinus” closed.
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