第4話【報酬】

 鋭い低音が耳に叩きこまれる。

 小さな衝撃が車をグラグラと揺らした。

 呼吸が止まる。

 光だと理解する前に、反射的に手で目を遮る。

 隣から息をのむ気配が伝わってきた。

 ビシャっと液体が滴る音を聞き取る。

 遠くなっていくエンジン音が、目を焼いていたのが車のヘッドライトだと告げていた。

 すぐに光線は向きを変え、車が目の前を横切った。クラクションをかき鳴らしながら街の方向へ走り去っていった。

 無理にUターンしようと駐車場に乗り上げ、こちらに接触ギリギリまで近づいてきたようだった。


 忘れていた息継ぎをする。

 大きく息を吐く。鳥肌と汗が同時に襲ってきていた。

 乾いた笑いが聞こえてきた。長谷の笑顔はこわばっていた。手に持ったペットボトルとハンドルは、きつく握りしめたままだった。

「コーラこぼれちゃった」

 やっと一言絞り出すと、着ていたTシャツについた茶色のシミを拭こうとティッシュを探し始めた。俺は何も言うことができず、うな垂れながらハンカチをポケットから取り出した。

「これ、使ってください」

「あんがと。女子力高いねえ」

「俺が言われても嬉しくないですよ、それ」

 無駄話を再開できる程度にはお互いに落ち着いてきていた。ベタベタするぅ、と長谷が自分のTシャツを拭いているのを眺めていると。

「長谷。定時報告が遅れているぞ。何をやっている」

 先輩のノイズ交じりの声がトランシーバーから聞こえてきた。出て出て、と促す長谷を横目に見ながら、トランシーバーを手に取り、側面のスイッチを握った。

「早坂です。長谷さんは現在出られないので代わりです。異常はありません」

「ならいい。長谷のことだ、コーラこぼしたとかだろ。見回りを忘れるなと伝えておけ。サボるなよ」

 筒抜けだった。しょーがないしー、と長谷が抗議する横で了解です、と答えると無線は切れた。


「平田さん、最近ピリピリしてるんだよね。なんか知り合いのヤクザさんに借金作ったとかで、お金ないんだって。あっウチのカレシじゃないよ」

 ざまあみろと思う他ない。

 トランシーバーを戻すのと同時に長谷も掃除を終えたらしかった。

「洗って返すねえ」

 ハンカチを折りたたみながら言った。長谷のTシャツは茶色く透けて、下着が薄く見えていた。

「よし、見回り行っちゃおうか」

 長谷はレバーを操作すると、乱暴にパーキングを発進した。

 天気が悪く月の光も差しこまない真っ暗な海岸線を、車で静かに走っていく。民家の明かりが一軒、ぽつりと浮かんでいるように灯っていた。窓の外を眺めると、遠くに山々が連なっているのが見えた。


「ねえ早坂ちゃん。さっきの話だけど――」

 長谷は相変わらず笑っていた。

 初めて声をかけられた時からそうだが、心からの笑みというより、笑う気もないのにブレーキが壊れてしまったように笑うのだ。それが俺は少し苦手に感じられた。

「簡単にはパクられないかもしれないけど、死んじゃう時はすぐ死んじゃうんだよ、この仕事。だから割が良いし、やる人間もたくさんいる」


 だからさ、と言ったその女から、表情は消えていた。

「もし早坂ちゃんが今この瞬間に死んでも、変わりはいるからあんまり問題ないんだよね。それはワタシもそうなんだけど」

 息をのんだ。答えられずにいると、長谷はすぐに相好を崩した。

「ごめんね。脅したいわけじゃないんだよ。けど、言っとかないとフェアじゃないかなあって思って」

「……ありがとうございます」

 なんとかそう答えた。パーキングエリアに再び戻った後も、長谷の言葉は頭にこびりついていた。

 その後、トランシーバーから撤収の連絡があり、市内に戻る。

 閉店したショッピングモールの影で、先輩たちと合流した。

 2台の大型ワゴンには、総勢7人の男が乗っていた。年齢はバラバラで、髭が伸び放題のおっさんもいれば、俺よりも若そうな、高校生のような見た目の男もいた。

 大急ぎで撤収してきたのか、各人ドライスーツや顔を覆ったマスクをつけたままの者もいた。船の上から海に飛び込んでいた連中が濡れたまま車に押し込まれている様子は少し面白かった。


 開いたトランクに腰掛ける平田は既に着替えたのか、ジャケットにジーパン姿で機嫌よくクーラーボックスを撫でていた。

「見てみろ」

 そう言って平田は俺の腕を強引に引き寄せ、クーラーボックスの蓋を開ける。

 中には、ナマコがぎっしりと詰まっていた。見た目だけなら黒い石のようにも見えたが、まだ生きているのか小さく収縮を繰り返している。

「今日の成果だ。漁師どもが悠長に沖へ出る前に頂いた」

 見ると、同じ形をしたクーラーボックスがいくつも並んでいる。

「漁師どもは俺たちが違法だなんだと騒ぐが、あいつらも密漁品を扱うことがある。俺に言わせれば同じ穴の狢だ。少しばかりの、海からすればおこぼれみたな漁果をぎった(ヌスンダ)ところで、あいつらになんの不都合がある?」

 平田は得意げにご高説を垂れながら、肩に手を回してきた。

 泥棒の自己弁護につき合う気は無い。

「離してください」

「なんだ、嫌だったか? 昔は愛想も良かったのに」

 どこまで俺の気に障れば気が済むのだ。苛立ちを抑えきれず、半ば振りほどくように平田の腕から抜けた。


 怖い怖い、とヘラヘラにやけながら懐から財布を取り出すと、中から紙幣を引き出し、こちらに差し出してきた。

「五万ある。本来なら業者との取引を済ませた後に儲けは分配するが、お前には先に渡しておこうと思ってな」

 五万と言えば、パチンコ屋の給料の三分の一に相当する。

 正直に言えば、いらないと突っぱねたかった。しかし口止め料も兼ねていると考えれば、拒否することもできない。

「……ありがとうございます」

「そうそう、素直にする方が可愛げがある」

 舌打ちが出そうになったが、なんとか堪えた。

 受け取ったところで解散となった。

 長谷が送っていくよお、と誘ってきたが、夜風にあたりたいと言って断った。

「次もよろしく頼むわ」

 去り際にそう念押しして、平田たちはワゴンを加速させ、国道へ走り去った。

「じゃあねえ。また生きてたらねえ」

 長谷も最後まで笑いながら、危なっかしく去っていった。


 自宅までの国道沿いの道をフラフラと歩き始める。ここからだと一時間程度の距離だ。昼には交通量が多い道も、深夜になると人の気配がほぼなくなる。靴音だけが、夜の闇に吸い込まれていく。

 長谷の忠告を思い出し、足取りが重くなっていく。

 既に片足が沼に捕まっている。このまま平田に脅され密漁を続ければ、未来には死ぬか捕まるか。どちらかの道しか待っていない。だからといって足抜けするのも難しい。平田がこちらの居場所を握っている限り、蛭のようにしつこく貼りついてくるだろう。

 冷たい風が静寂を切り裂いていき、羽織っていたジャンバーがはためく。痛いくらいの寒気に、身体が震えた。


 そこに、コンビニが見えてきた。オレンジの看板が淡く光っている。

 小学生くらいの頃、吹雪で前が見えなくなった時もこの看板を目印に歩いたっけ。

 そんなことを思い出しながら、店内に入る。何か腹に入れたい気分だった。先ほどまで生死の心配していたのに、今は空腹を覚えているのは、なんだかおかしな気持ちだった。

 五分ほど物色した末に、温かいフライドチキンとペットボトルの水を買った。代金は今日の手取り五万から支払った。

 店の前でペットボトルの蓋を開け、一気に半分まで飲み干した。緊張で渇いた喉を潤すと、一口大のチキンを木のフォークで刺して食べた。肉と油の旨味が口の中に広がっていく。

 店の壁に背中を預け、黙々とフライドチキンを口に運び、水で胃に流しこんだ。ポケットの五万は少し減って四万九千円。

 腹が満たされるに連れ、悩みに沈んでいた気分が徐々に上向きに変わっていく。我ながら現金なものだと思う。

 決して悪いことだけではない。そう考えることにした。おとなしく従っていれば、少なくとも金が手に入る。サンドバッグにされることもない。

 今日、車に衝突されかけた。けれど死ななかった。

 死なないように立ち回るしかない。


 食べ終わった容器をコンビニのゴミ箱に捨てる。スマートフォンを見ると、バイト先から留守電が何回もはいっていた。どうせ店長からの小言だろう。

 チキンがもたらした高揚は一気に消え去り、うんざりしながら夜道に再び躍り出る。


 ふと、訳もなく走りたい気分になった。

 もやもやとした気持ちを置き去りにしたい。

 心の渇望に従い、俺は走り始める。

 歩幅は徐々に広く、ペースは次第にあがっていく。

 ほとんど全速力で、闇に堕ちた街を駆けていく。

 息切れしながら、叫ぶ。


「うわああああああああ!」


 このクソったれなことばかりな世界から、抜け出したいと願いながら。

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