ウリオンと共に生きる道

 ウリオンは倒れたまま身動きをしない。慎重に近づくと、腹の辺りがかすかに上下している。呼吸をしているようだ。


(具合が悪いの?)


 男性はウリオンの姿に戻る前に、魔力を使い過ぎたというような事を言っていた。ギードやそのほかの魔獣も、人間から魔力を吸うと聞いたことがある。どうやって吸うのかは分からないけれど、ウリオンの魔力が足りないなら私から吸えばいい。


 ウリオンに駆け寄ると鼻先に腕を出した。


「私の魔力を必要なだけ吸って」


 ウリオンは顔をそむけた。吸わない、という意思表示に見える。


 ということは鼻先に手を当てれば魔力を吸えるということだ。


「どうせあなたに救われなければ死んでいたの、必要なだけ吸って!」


 私は無理やりウリオンの鼻に手のひらを押し付けた。温かい息を感じる。


「お願いだから! あなたを失いたくない!」


 叫ぶようにしてウリオンの瞳を見つめて言うと、ウリオンが一瞬目を閉じた。


「あっ」


 視界がぐるりと回った。気が付くと、草のような清涼な香りがする温かなものに包まれていた。しばらく意識を失っていたようだ。身を起こすと、ウリオンがじっと私を見つめていた。私はウリオンの毛皮に包まれて眠っていたようだ。


 ウリオンが立ち上がる。私も立ち上がり、一歩下がってウリオンを見上げた。ウリオンは頭をかがめて、もう一度私の目を覗き込むと、するりと頭を返して立ち去った。


(あの男性は、ウリオンだった)


 姿を見せる事は無かったけれど、ウリオンは祝詞をあげる私を見守っていてくれたのだろう。そして、命を落としかけた私を見つけて助けてくれた。私の祝詞は届いていた。


(それにしても、ウリオンが人間になれるなんて知らなかった)


 ウリオンに限らず、魔獣が人間の姿になるなんて聞いたことがない。地面に散った長衣の切れ端が、夢では無かったと語っている。


(ふふ。衣服を着る習慣がなくて当然よね)


 私は男性の長衣を見た時の不思議そうな顔を思い出して、何度も笑った。


 それからは元の暮らしに戻った。毎日ウリオンに祝詞をあげる。ただそれだけ。町に行くことは止めた。町の人たちが孤児を選んでくれると言っていたのだから、伴侶を見つけに行く必要はない。生活に必要なの物を買いに行く時だけ山を下りればいい。


「ジュリエッタ、いるのか? おい、ジュリエッタ!」


 ある晩、乱暴に扉が叩かれた。そこにいたのは町のごろつきだった。いつも下卑た言葉ばかりかけてくるこの男の名前など、とっくに忘れた。


「何のご用ですか?」

「何の用って。そりゃあ、お前が全然町に来なくなったから、心配して様子を見に来てやったんだよ」


 男は細く開けた扉から首を伸ばして、じろじろと部屋の中を覗き込む。


「私は元気なので、お気遣いなく。ご心配ありがとうございました」


 ぴしゃりと扉を閉めた。しっかりと鍵をかける。


 今までもたまにあった事だ。ジュリエッタが一人で暮らしていると聞いて、無理やり押しかけてくる男がいる。ジュリエッタは窓の鍵もしっかりと閉めた。


 男はしばらく扉を叩いて罵っていたが、やがて諦めて帰ったのか静かになった。


 しかし男はしつこかった。数日おきにやって来ては、家に入り込もうとする。『子供が欲しかったんじゃないのか?』とあからさまな欲望までぶつけてくる。声が聞こえる度に肌が粟立つ。


 私は家の戸締りに、より一層注意を払うようになった。


 ある日、祝詞をあげようと石祠に近づいた時のことだった。ウリオンの石像の陰から男が飛び出してきた。卑しい顔でにやにやと笑いながら、私を地面に引き倒して組み敷く。


「どうだ? あんたの大好きなウリオンの前で子供を授かるんだ。嬉しいだろう?」


 懸命に抵抗したけれど力では敵わない。涙を流し、必死に訴えかけるけれど男は気にも留めない。こんな男に汚されるくらいなら命を絶った方がまし。しかし、舌を噛もうとして思い留まる。


(私はまだ、祝詞を伝承していない!)


 とっさに心を決めた。私の誇りよりも生き延びて祝詞を伝承する事の方が大切だ。抵抗を止めた私に気を良くした男は、下卑た笑みを浮かべて私の服をまくり上げ事に及ぼうとした。


「あんただって寂しかったんだろう?」


 それが、この男の最期の言葉になった。


 月が降ってきた、そう思った瞬間、男は私の上からいなくなり地面に叩きつけられた。そのまま銀色の大きな獣は男の首筋に食らいついた。


(ウリオン!)


 ボキリと鈍い音が響き、男の頭があり得ない方向に垂れる。ウリオンの大きな体がすっと小さくなり人の形を取った。


 あの人は、ゆっくりとこちらを振り向くと、血にまみれた口を腕でぐいっと拭った。


「大丈夫か。怪我はないか」


 私は身を起こし、涙でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭いた。


(会いたかった、会いたかった)


 襲われた事も、男が目の前で死んだことも、どうでも良かった。私はただ彼に会えて嬉しかった。


「会いたかった」


 今度は口に出し、私は立ち上がって駆け寄ると、男性に抱きついた。


「今日の祝詞を、聞かせてくれないか」


 男性はぽつりとつぶやいた。



 ウリオンが語ったところによると、魔獣は大量の魔力を溜めることで、姿形を変えることが出来るそうだ。人間に限らず、他の獣や望めば草木にも変えられる。ただし、その姿の維持にも多くの魔力を必要とする。


「あなたを助ける時、ウリオンの姿では怖がらせると思って、とっさに人間の姿になった。それで数百年溜めてきた魔力を使った」


 もともと、彼は生きる意欲が少なく、必要以上の魔力を得る事を望んでいなかったという。それでも十分に山と町を守る力はあった。


「今まで数百年、ここで山と町を守りながら、代わりに美しい祝詞を聞かせてもらった。生きる事に倦んだ私の魂が安らぐ、かけがえのない時間だった」


 彼は私の頬にそっと手を触れた。


「中でも、あなたの祝詞が一番、私の魂を揺さぶる。だから、あなたの危険を見過ごす事は出来なかった」


 死んだ男の体はギードがいる山の方に投げ込んだ。その後、遺体が見つかったという知らせを聞かないという事は、他の獣に食われたのだろう。


 ウリオンは男を噛み殺すと同時に、男の全ての魔力を吸い取っていた。これは、数百年かけて細々と溜めた魔力よりも多い。2度目で慣れたという事もあり、前回よりも長く人間の姿を保てそうだという。


「もう離れたくない。あなたとずっと一緒にいたい。行かないで」


 そろそろ姿を戻さなければ、というウリオンに縋りついた。


「他にも、あの男のようなあさましい人間は大勢いるの。そういう人間を連れて来れたら、魔力を吸い取って私と過ごしてくれる?」


 ウリオンは静かに首を横に振った。


「それは、人間の世では許されない事ではないのか」

「あなたの世界では許される? 誇り高いと言われるあなたは、あさましい人間の魔力を吸ってでも、私と一緒にいてくれる?」


 彼は『許容できる』と言った。私の為にならと優しく微笑んでくれた。


 私は、人間の心を手放して魔獣と共に生きる道を選んだ。


 犠牲者を用意するのは、それほど難しい事ではない。町に出て『一人だ』『寂しい』そう男に声をかけるだけだ。


 私はウリオンに会いたくなると、祝詞をあげた後に町に下りて、目星をつけた男に『明日の夕方に』と声を掛けた。彼らは、近寄るなと言われたウリオンの巫女に邪な気持ちを持つ事を恥じるのだろう、誰にも言わずにやって来る。


 ギードの森に投げ込めば大抵は見つからなかった。ウリオンは限界まで魔力を吸い取ったが、その場で命を奪わなかった。殺すよりも、最期の数歩を自分で歩かせた方が処分が楽だからだ。広場から投げ込まれた死に切れていない男たちを、ギードが巣に連れ帰っているようだった。


 たまに、そこから自力で歩いて逃げたと思われる男が、町で発見されることがあった。しかし、限界まで魔力を吸い取った人間の予後は悪い。まともな言葉を発する事は出来るはずもなく、実際にそんな事が出来た男はいなかった。


 訪れた全ての男を犠牲にしたわけではない。まれに、本当に私の寂しさを気遣うだけの善良な男もいた。そういう男は丁寧にもてなして町に帰してやった。


 狂い始めたのは、月の物が来ていないと気が付いた時からだ。


「もっと会いたいの。この子の為に、ずっと人の姿でいて欲しいの」


 今まで以上に街で男に声をかけるようになった。劣情を抱いて訪れる男に眠り薬が入った酒を飲ませる。ウリオンへの合図として、想いを込めた祝詞をあげる。いつもと違う祝詞を聞いたウリオンが私の家に姿を現す。


 焦りからか、声を掛ける男を誤るようになった。普通の旅人に見えた子連れの魔獣学者や、気味の悪い若者にまで声を掛けてしまった。特に若者の方は、人型を取ったウリオンと同じような、人間とは異なる空気を感じる。町で声をかけてみたものの、気味が悪いのですぐに後悔し、強く誘わずに別れたはずだったのに、家まで来てしまった。


 彼らは祝詞を聞きたいと言う。欲望丸出しの男たちとは何から何まで違っていて調子が狂った。


 しかも、なぜかウリオンが彼らの前に姿を現した。こんな事、今まで一度も無い。真意を問い質したいけれど、獣の姿のウリオンとは会話が出来ない。


 噛み合わなくなった歯車が空回りし始めてから、私たちの生活が崩壊するまでは、あっという間だった。


 早く会いたい、その想いからいつもより体格の小さな男を誘い込んでしまった。小柄な男は魔力も少ないと思われたが、少しでも多くの魔力が欲しかった私は目をつぶって、いつもの手順でウリオンに魔力を吸わせた。


 恐れた通り魔力が足りず、その日のウリオンは人型を取れなかった。


 焦れて翌日も男を誘い込んだ。祭りで人が増えていて、多くの魔力を得る好機だったこともあるが、普段ならもう少し慎重に期間を開けて犠牲者を呼び込んでいた。


 連続して誘い込んだ事があだとなったのか、魔獣学者と気味の悪い若者の前に私たちの罪は露わになった。


「まさか、祝詞の違いが分かる人がいるとは思わなかったわ」


 ほんの少しだけ歌われたフレイナの祝詞は、何とも魅力的な響きを放った。


 まだ私が汚れの無い心でウリオンを崇めていた時の気持ちを呼び起こす。私はフレイナにねだって全てを歌ってもらった。彼女の無垢な心がこもった歌声はとても美しかった。


 彼を愛することを知らなかったあの時の方が幸せだったかもしれない。涙が溢れ出てきた。


「でも、もう後戻りは出来ない」


 私は命が宿るお腹をそっとなでた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る