頭の中で繰り広げられる狼と熊の闘い

「もう、今年に入って12人です」


 依頼主のご主人は困っている状況を教えてくれた。


 2年ほど前から、この町の近くで意識を失った男性が発見される事件が続いているそうだ。


 全員が瀕死の状態で見つかり、そのほとんどが意識を失ったまま亡くなってしまうという。助かっても、完全に心が壊れてしまっている状態で、状況は何も話せない。どうしてこんな事が起こるのか何があったのか誰にも分からない。


「魔獣⋯⋯」


 先生がつぶやく。


「医者も、魔獣が魔力を限界まで吸い取った結果じゃないかという見立てでした」


 先生が言っていた事を思い出した。人間にも魔力があるそうだ。特別な訓練を受けた人はその力を上手く使って魔術と呼ばれる技を使うことが出来るけれど、ほとんどの人間は使い道が無いので存在を意識していない。


 魔力は体力のようなもので、少しなら食事をしたり眠ると回復する。


 しかし限界まで失った時には、命を落としたり、心に取り返しがつかない痛手を受けてしまう。


「心当たりがある魔獣がいますか?」


 先生の言葉に、主人は険しい顔で首を横に振った。


「いえ、全くありません。⋯⋯町の奥にある山にはウリオンが住んでいると言われていますが、あのウリオンは他の魔獣から町を守ってくれています。遥か昔からあそこに住んでいて、彼の怒りに触れる事をしない限りは、誰も襲われないんです」

「被害者がウリオンの怒りを買った可能性は?」

「彼らのほとんどは旅人か商人です。この町に来てすぐに、ウリオンがいる山に近づかないように言われたはずです。ウリオンの怒りを買うほどの接触があったとは思えません」


 それに、とご主人は何かを恐れるような口調で続ける。


「ウリオンの怒りに触れたなら、確実に命を落とします。ウリオンは魔力を吸うために人を殺めないと聞きます。ウリオンの怒りを買うような振る舞いをした者は、自分の浅はかな行動を悔いる間もなく、一撃で仕留められてしまうはずです」


 先生が安心したように深く息をついた。ウリオンじゃなくて良かった、そう思っているような気がした。


 ご主人と仲良しの商人が先月被害に遭った。彼は命こそ助かったものの、正気を手放してしまい、まともな会話が出来ない状態だという。状況を聞いても役に立つような情報は得られなかったそうだ。


「被害者に共通するのは、いずれも皆、成人男性で一人旅をしていたというくらいです。しかし、そんな人間はこの町に大勢いる。泊った宿も皆違いますし、その前に共通するような行動をしていたとも聞きません」


 被害が出始めたのは2年ほど前だけど、今年に入ってから急に発生件数が増えているという。解決方法が分からず困っていた所に、交流があるビーデ村の村長から『毎年この時期に魔獣学者に来てもらっている』という話を聞いて、先生に依頼する事にしたようだ。


 先生は、今までの被害者の名前や状況をまとめた紙を主人から受け取った。1件ずつ、ご主人の知る限りの内容を教えてもらう。


「この町の近くで、ウリオン以外の魔獣の噂は聞きません。少し離れた森にはギードがいると聞いたことがありますが、被害者が見つかった場所からは離れています」

「ギードって何ですか?」


 先生に小声で聞くと説明してくれた。熊のような大きさの魔獣で、人間を飼うことがある恐ろしい魔獣だという。生命を維持できる程度のわずかな魔力を残して人間を生きながらえさせ、長いこと魔力を吸い続けるらしい。絶対に捕まりたくない。


「魔力を全て吸わないという点では似ているが、ギードは巣に人間を持ち帰って飼う。救助されるような場所に放置しないな」


 先生がご主人と報酬の交渉をしている間、私は狼と熊が戦うところを想像した。頭の中では熊が勝ってしまった。


(でも実際は、ウリオンが守っているからギードはこの町に来ないのよね。じゃあ、狼の方が強いんじゃない?)


 一生懸命に、狼が勝つところを想像する。しばらくすると、先生がご主人にお礼を言って立ち上がった。


(お茶! お菓子!)


 先生も手を付けていない。後ろ髪ひかれる気持ちで、先生の後に続いた。


「先生、あのご主人、悪い人ですか?」


 門から出るなり先生に聞くと、不思議そうな顔をされた。


「いや、そんな悪い人には見えなかったけれど、何か気になったのか?」

「お茶、お菓子! 先生が食べていいって言わなかったので、毒を入れる悪い人かと思いました」

「あー、悪い。魔獣の話に集中してただけだ。食いたかったか」

「美味しそうでした⋯⋯」


 残念だ。でもご主人の前で聞くわけにはいかないし、先生はお仕事の話に集中していたのだから仕方ない。


「そうか、悪かったな。じゃあ町で情報収集しながら、どこかで菓子を買ってやる」

「きゃっほう! 先生、大好きです!」


 先生は店が立ち並ぶ大通りに連れて行ってくれた。夕方の人通りは朝とは比べ物にならないくらいの多さだ。はぐれないように、先生の服の裾をしっかり握った。


「これ全部お店。こんなにたくさん売るものがあるんですね」


 目についたお店について片っ端から何を売っているのか教えてもらう。


「先生! また服ですか。さっきも服のお店でしたよ」


 村には服や靴を売っている店が1軒しかなかった。服と靴の店が分かれている上に、それぞれが何軒もある。


「種類が多いんだよ。女性が好む服、男性が好む服、子供用の服、それぞれの店で置いてあるものが違うんだ。自分の好みに合ったものを選ぶんだ」

「ほう!」


 そういえば、村の裕福な家の女の子は、他の子とは違う服を着ていた。こういう町などで買っていたのだろう。


「菓子も、色んな種類があるぞ」


 先生は何軒かのお店を周って、少しずつお菓子を買ってくれた。


「甘い! お砂糖の塊ですか!」

「それは飴という名前だ。ただの砂糖じゃなくて果物の味がするだろう」

「食べた事がない果物の味です。とっても美味しいです!」


 甘酸っぱい中に、濃厚なねっとりとした甘さも感じる。桃色をしていたから、果物も同じような色をしているのかもしれない。その姿を想像する。


「美味いか、良かったな」


 うっとりと味わう私を見て、先生が目を細めて笑ってくれる。


「あった、ここだ」


 先生は1軒の店の扉を押した。涼し気な鈴の音が響く。


「わあ!」


 壁一面に本が詰まっているお店だった。先生は少し見回すと、隅の方に歩いて行った。


「この辺りかな」


 本を抜き出して中身を確認する。何冊か抜き出しては戻す動作を繰り返す。先生が戻した本の背を見て題名を読んでみた。


『簡単、すぐ覚えられる! 地図帳』

『領土の全て』

『毎日10問計算帳』

『熟語の全て』


「⋯⋯先生?」

「ん? お前に一番必要なものだろう?」


 にやりと笑って先生は本を選ぶ。既に何冊かを腕に抱えている。


(きゃー! 私にお勉強させる気だ!)


 私はそっと離れて違う棚を見に行った。


(何だかの歴史? こっちは恋物語ですって。 えっとこれは⋯⋯)


 こんなにたくさんの本を見るのは初めてだ。私は母に読み書きを習っていた。何冊かの本を使っていたけれど、母の死後に大雨で家の中が水浸しになった時に、紙が破けてインクも流れてしまい読めなくなってしまった。それ以来、本に親しむ機会は無かった。


 先生は本を読めと言って物語と旅の本を1冊ずつくれた。勉強は嫌いだけど、本を読むのは嫌いじゃない。旅の困るところは本をたくさん持ち歩けない事だ。読み終わった本を何度も繰り返し読んでいる。


「中身を理解するのに、ちゃんと勉強が必要だと思わないか?」


 先生が言うことはもっともだ。だけど、勉強が嫌いだという気持ちは自分でもどうしようもない。


(勉強の本より、旅とか物語の方がいいのに)


『魔獣をめぐる物語』


 1冊の本が目に留まった。手に取って中身を見てみる。


「あ、ヒューリエ!」


 先生と出会うきっかけになった魔獣。獣のイタチに似ている。開いたページには、あの時と同じ姿をしたヒューリエの姿があった。ページの右側には文章が書かれている。


「ヒューリエのお話だ!」


 生態や特徴ではなかった。ヒューリエが出てくる短い物語が書かれていた。ぺらぺらとページをめくる。


「これって、ギード?」


 熊のようだと聞いたけど大きさはともかく顔は猫のようで案外可愛らしい。物語を読んでみる。


「何を読んでるんだ?」


 先生が私の手元を覗き込むと嬉しそうに言った。


「懐かしいな! 子供の頃によく読んでいたんだ。ちょっと貸してくれるか?」


 先生がぺらぺらとページを繰る。時折手を止めてほほ笑む。


「これは、図鑑じゃない。想像で描かれている所も多いんだ。それでも、描かれている魔獣が今にも動き出しそうで、物語が心に残って、何度でも読みたくなる本だった」

「想像なんですか?」


 例えば、とギードのページを開く。


「猫みたいな顔をしてるだろう。これが書かれた時代には分かっていなかったんだが、実際には猪に近い顔をしている。この作者は猫のような顔を想像したんだな」

「あんまり怖くないですね」

「ははは。確かにな。だから、ギードについては書かれている物語も、少し愉快な調子になっている」


 この絵は版画という方法を使って描かれているから、描いた人が思ったそのままが表現されているそうだ。普通の絵を本にする場合、その絵を印刷するための石に彫り付ける事になる。その絵を彫る人の腕次第で、元の絵をどのくらい再現できるかが決まる。


 先生の細かい説明は色々と分からなかったけれど、この本の絵が魅力的なのは、画家が思い描いた姿が生き生きと映し出されている事が理由みたいだ。


 先生は『魔獣をめぐる物語』も買ってくれた。私はこの本だけ、自分で大切に抱えた。

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