いつまでも、ずっと

第12話

 バシャッと水が跳ねる音が響いた。プールではイルカたちがスタッフの笛を合図にジャンプしたりしている。ショーに向けた練習か、ウォーミングアップでも始まったのだろう。さっきまでひとりぼっちだったイルカも今は仲間と一緒に泳いでいる。

 隣から息を吐くような音が聞こえて視線を向けると、松池が「そっか」とプールを見つめながら微笑んでいた。


「やっぱり顔じゃなかった」

「……顔も好き」


 三奈が言うと、瑞穂は声もなく笑って頷いた。そして深く息を吐いて沈黙する。

 イルカが三頭、綺麗に並んで高速でプールを回り始めた。このままジャンプすればさぞ盛大に水が跳ねるだろう。そう思ったが、スタッフの笛を合図に三頭はスピードを落としてしまった。


「もし――」


 ふいに松池が口を開いた。横目で見た彼女の顔は無表情にプールへ向けられている。


「そのとき高知さんがいなかったら、御影さんは今ごろ学校にはいなかったのかな」


 言った彼女の声は暗い何かを含んでいるように聞こえた。三奈は彼女から目を逸らして、少し人が増えてきた観覧席へと視線を向ける。


「そうかもね」


 あのとき、あのクラスで美桜のことを気にしていたのは自分だけ。自分がいたから美桜は今もそばにいてくれる。自分は彼女を守ることができていた。そのはずだ。

 三奈は右手を軽く握ってみる。あのときの美桜の手の温もりを今でも覚えている。離れないように、しっかりと握ってきたあの感触も。


「もし御影さんが学校にいなかったら、サチはわたしのこと好きになってくれたかな」


 松池の言葉は、おそらく答えを求めたものではなかったのだろう。それでも三奈は「それを言うなら」と膝に頬杖をついて松池を見た。


「あの人が現れなければ美桜はわたしを好きになってくれたと思う。あんな奴じゃなくて、わたしのことを」


 だって美桜には自分がいなくてはダメだったのだから。あの人が現れるまでは。


「もし先生がもっと上手くあの人のこと捕まえておけば、今ここでわたしの隣にいるのは美桜だったかもしれない。もし美桜のアパートにわたしが引っ越していれば、美桜があの人を好きになることはなかったかもしれない。もしあのときあの人が大けがしていれば、今ごろあの人は美桜のそばにいなかったかもしれない」


 松池はムッとした顔をして三奈を見てきた。三奈は口角を上げて「大人げない」と笑ってやる。


「え……?」

「もし、とかさ、もう変えられない過去をどうこう言ったところで意味ないでしょ、先生。イライラするだけじゃん」


 すると松池は目を丸くした。そしてすぐに面白そうに声を上げて笑った。思いがけない反応に今度は三奈の方がムッとする。


「なんで笑うわけ?」

「だって今の、なんか御影さんみたいだったから」

「はあ?」


 三奈は眉を寄せる。しかし、松池が笑うことをやめないので三奈もつられて笑ってしまう。しばらく笑い合ってから、三奈は椅子の背にもたれて「で、わかった?」と聞いた。

 彼女は不思議そうに首を傾げる。


「言ってたじゃん。わたしが美桜のこと好きになった理由がわかれば、あの人が美桜のこと好きになった理由もわかるんじゃないかって」

「ああ」


 松池は頷き、そして笑みを残したまま「わからない、かな」と言った。


「なにそれ。完全に話し損じゃん」

「だって高知さんは、なんていうかちょっと性格が変というか、特殊というか。わたしにはあまり理解できない感情だったなって」

「……教師が生徒の個性や感情をけなしていいとでも思ってんの?」


 三奈の言葉に松池は「違う、そうじゃないの」と慌てた様子で言う。


「そうじゃなくて、ね」


 松池は言葉を切ると諦めたように息を吐いた。


「わたしね、友達っていたことがなかったの」


 突然の告白に三奈はどう反応すれば良いのかわからず、ただ無言で松池を見返した。彼女は薄く笑みを浮かべて続ける。


「ずっと一人で生きてきた。高校のときも一人で……。誰もわたしのことを見てくれなかったから高知さんの気持ちはよくわからなくて」

「一人だったんだ?」

「うん」

「友達、作ろうと思わなかったわけ?」

「作りたかったよ。ウソをついてでも誰かと一緒にいたかった。でも、ダメだったの」

「なんで?」


 三奈が首を傾げると、彼女は「だって」と寂しそうな笑みを浮かべた。


「ウソを言う相手すらいなかったんだもん」

「なにそれ。どういう意味?」


 聞くと、彼女は少しだけ顔を俯かせて「待ってるだけだったから」と言った。


「わたしは誰かが来てくれるのをずっと待ってた。本当のわたしを見てくれる誰かを。そして、誰も来なかった。今までずっと」

「……あの人は来てくれたの?」


 三奈の言葉に松池は寂しそうに、しかし愛おしそうに柔らかく笑みを深める。


「うん。サチだけだよ。わたしのことをちゃんと見てくれて、まっすぐにありがとうって笑ってくれたのは、サチだけ――」

「初めてできた友達?」

「そう。そして初めてできた、好きな人」


 ――やっぱり、この人はわたしと同じだ。


 微笑む松池を見ながら三奈は思った。彼女は生まれて初めて見つけたのだ。彼女にとって一番綺麗なモノを。壊したくない大切なモノを。

 それを手に入れたいと思うのは当然のことで、ずっとそばにいたいと思うのも当然のこと。綺麗なモノの一番近くに自分がいたい。そう思うのも当然のことだったはずで、溢れた気持ちに導かれるがまま、がむしゃらに行動を起こしたのも自然なことだったはず。

 けれど、きっとそれではダメだったのだ。


「――欲張りすぎたのかな」


 まるで三奈の心を見透かしたかのように松池は呟いた。

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