第9話

 三奈は教室の戸をしばらくぼんやりと眺める。彼女がいなくなったところで教室の様子は何も変わらない。まるで最初から御影美桜という生徒はいなかったかのようだ。それは三奈の周囲においても変わらない。

 御影美桜は、いてもいなくても変わらない存在。

 それなのにどうして彼女の姿を目で追ってしまうのだろう。

 彼女の困った顔や焦った顔が見たいからだろうか。考えてから違うと思う。三奈には人が困っている姿を見て悦に浸るような趣味はない。かといって、助けたいという正義感など微塵も持ち合わせてはいない。それなのに気がつけば美桜のことを見てしまっている。クラスの誰も、彼女のことなど気にしていないのに。

 三奈は深くため息を吐くと席を立った。


「三奈? どした?」

「あー、ちょっと気分悪いから保健室」

「はい、ウソ。サボりでしょ、絶対」

「うっさい」


 言いながら三奈は教室の戸を開ける。すると担任が「おい、高知」と強い口調で言った。


「まだ授業中だぞ。どこへ行く気だ」


 三奈は反射的に担任のことを睨んでいた。美桜が出て行ったことにも気づかない人間が、さも生徒のことをちゃんと見ているといった顔をしていることが気に入らない。三奈は舌打ちをして「どこって、保健室ですけど」と口を開いた。


「ダメなんですか? 気分が悪くても我慢して教室にいろって?」

「いや、そういうことならちゃんと先生に言ってから――」

「いま言ったからいいですよね」


 三奈は戸に手をかけると「ああ、そういえば先生」と嘲笑を浮かべて担任に視線を向けた。


「さっき出て行った子も保健室なんで、何か記録つけるならそうつけといてくださいね」


 すると担任は眉を寄せて「誰のことだ?」と教室内を見渡した。生徒たちはそれぞれのグループに分かれていて自席にはいないのでわからないのだろう。彼は怪訝そうな顔を三奈に向ける。


「担任なのに、どの生徒がいないのかわからないとかありえないでしょ」


 クスクスと誰かが笑う。しかし、三奈が振り返るとその笑い声も消えた。


「ちょっと三奈、顔が怖いって。つか誰のこと言ってんの?」


 友人の一人が言う。三奈は彼女に視線を向けて「さあね」と答えると、担任を再び睨んでから教室を出た。

 後ろ手に戸を閉めた途端、教室には再びざわつきが戻る。三奈は廊下をゆっくり歩きながら胸に手をあてて苛立ちを鎮めていた。

 どうしてこんなに苛立つのかわからない。何に対して苛立っているのかもわからない。そして理由のわからない苛立ちは、どんなに鎮めようとしても鎮まってくれない。

 三奈は苛つく気持ちを抱えたまま、誰もいない廊下を歩いて保健室に向かう。どうせ彼女も保健室に避難しているのだろう。そう思った瞬間、三奈は「は?」と声を上げて立ち止まった。


「なんであの子の後を追いかけるみたいなこと……」


 思わず呟く。そして額に手をあてた。どうしたのだろう。まったく自分の行動が理解できない。さっきだってそうだ。どうして教室であんなことを言ってしまったのだろう。

 ただ適当なことを言って出てくれば良かっただけ。別に彼女の存在を思い出してもらいたかったわけでもない。そんなことをしても、自分には何も得なんてないのだから。


「あの子のことなんて、どうでも――」


 そのときふいに、教室を出て行く寂しそうな背中が脳裏に蘇ってきた。三奈は髪を掻き上げながら息を吐く。そして再び保健室へ向かって歩き出した。

 きっと彼女が出て行く瞬間を見てしまったのがいけないのだ。あんな姿を見れば誰だって気になってしまうはず。自分が彼女の後を追いかけているのは自然なこと。

 そう自分に言い聞かせて三奈は保健室の前に立つ。そして、その戸にぶら下がった掛札を見て眉を寄せた。


「留守……」


 掛札には大きくそう書かれていた。そしてその下には用があれば職員室まで、とある。ためしに保健室の戸に手をかけてみるが、鍵が閉まっていて開かない。


「保健室にはいない、か」


 それでは、もうどこに彼女がいるのかわからない。彼女のことを何も知らないのだから探しようもない。

 三奈は自然とため息を吐いて「何やってんだろ、わたしは」と呟きながら廊下を戻り始めた。このまま教室に戻ろうかとも思ったが、せめてこの授業が終わるまではどこかで時間を潰したい。しかし廊下を彷徨っていれば、うっかり教師に見つかってしまうかもしれない。それは面倒だ。

 三奈は窓の向こうに視線を向ける。中庭はどうだろうかと思ったが、こうして廊下から丸見えなのでダメだろう。となると残るは……。

 三奈は階段の前で立ち止まると、上階を見上げた。


「屋上、開いてたりしないかな」


 そんなことを呟きながら階段を上がる。たしか、この階段を登り切れば屋上へ続くドアがあったはずだ。開いていなくとも、その付近なら誰かが来ることもなさそうだ。そこで時間を潰せば良い。

 そう思いながら階段を上がり続ける。そして屋上のドアが見えてきた頃、三奈は「え……」と足を止めた。

 階段を上がりきった先、ドアへと続く狭いスペース。そこに女子生徒が一人座っていたのだ。彼女はドアに背をつけ、天井を仰ぐようにして目を閉じていた。疲れたように手足を投げ出して座る彼女は、御影美桜に違いなかった。


「――なんでいるの」


 呟いた三奈の声に、彼女はゆっくり目を開ける。そして信じられないものを見たような顔で「高知さん……」と呟いた。

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