掛け違えるふたり。
こばなし
掛け違えるふたり
いつからか、掛け違えていた。
僕は、彼女が好きだ。こう言い切るのはアレだけど、彼女だって、僕のことを好きだ……と思う。だから尽くすし、たとえ離れていたって幸せを願うはずだ。家事だって、お互いに気をつかって、どちらかに負担がかかり過ぎないように上手くやっている。
それなのに彼女は、彼女の表情は、ちっとも幸せそうでは無かった。
洗濯物をたたんでも、食事を作っていても。どことなく、彼女の表情はくもって見えた。ありがとうの言葉こそあれど、その言葉からは義務感がにじみでていた。仕方なく、言わされているような。そんな風に見えてしょうがない。だから、
「なんで、そんな顔をしているの?」
なんて言葉が、口を突いて出てしまった。
野暮すぎる質問だ。言葉にした瞬間に、「なんで」という言葉に不満がこもってしまった。意図して伝えようとしたつもりは無い。それなのに、気持ちは言葉に乗って、きっと彼女の胸に刺さってしまったのだ。
「ごめんね。ちょっと、考えごと」
僕の最低な問いかけに、表情が崩れないよう、せいいっぱい我慢して彼女は言った。
それからすぐ、
「ちょっと出かけて来る」
と、逃げるように彼女が部屋を出ていっても、追いかけることもしなかった。
あの時の、まるで『君のことが気に食わない』とでも言うかのような問いかけが、彼女の心を傷つけたのは間違いない。加害者である僕が追いかけたところで、きっとまた傷をえぐってしまうだけだから。
***
追いかけてきて欲しかった。
やっぱり、私のことなんて必要ないのかな。
家庭的で、尽くしてくれて、優しい彼。そんな彼が、大好きだ。
いつも気にかけてくれて、家事もこなしてくれて。私の表情を見て、色んな事を察してくれる、彼のことが。
でも、私はきっと、いいパートナーにはなれない。
大好きな彼にあんなに気をつかわせて、家事も沢山やってもらって。無理させてなお、私の顔色をうかがわせてしまう。
なんで、って、言わせちゃった。
小さい頃から、大切な人を支えられる、立派なお嫁さんになるのが夢だった。旦那さんのネクタイを締めてあげたり、シャツにアイロンをかけてあげたり、出かける前にえりを正してあげられるような、そんなお嫁さんに。
だけど、時代はそんな女性像をまるで否定するかのように変わっていった。
きっと彼は、時代に合わせてああいった振る舞いをしてくれている。私が色々と尽くさなくても、なんでも一人でやれるだろう。私が理想としている、『大切な人に献身的に尽くすお嫁さん』なんてものは、きっと彼には必要ない。
だからこそ、私は自分自身の理想に近づけない。
だからこそ、それを是としない私は、彼の隣にいるべきではないのかもしれない。
ここが交際のターニングポイントだなんて思いたくないけれど。
とりあえず、公園で読書でもして、気持ちを落ち着かせてから彼の部屋に戻るとしよう。
……あれ? 無い。
カバンの中を確認して、ふと気づく。
彼の部屋に本を置きっぱなしにしてしまっていることに。
***
彼女が居なくなった部屋の中で、しばらく考えていた。
何が不満だったのだろう、彼女は。
僕の家事に対してだろうか。だとすれば、何か不出来なことがあったのかもしれない。それとも、僕の容姿や性格といった、パーソナルな部分に嫌気がさし始めていた、というのもありえる。
近頃は蛙化現象なんて言葉もある。似たような現象が、彼女にも起きているのだろうか。
いくら考えても分からない。僕は彼女ではないから、彼女の本心を完全に理解することは、できない。が、彼女自身に直接聞くのは、怖い。彼女を否定するかのような聞き方をして、再び心を傷つけてしまうのは避けたい。
じゃあ、どういう風に聞けば、彼女を傷つけずに済むのだろう?
いや、考えているばかりでは、解決しない。ひとまず、彼女を追いかけながら考えよう。
ふと自分の服装を見ると、部屋着のままだ。このまま外出することは
白いシャツの袖に腕を通し、ボタンを留め、スラックスを履く。ベルトをすれば準備完了だ。慌て気味だったからか、なんとなく違和感を覚えるが、まあいい。
その作業の最中、たまたま机の上の見慣れない本に目がいった。
表紙には本のタイトルらしきものが。『多様性の弊害』という題名らしい。僕のものでは無い。だとすれば、彼女の読み物だろう。こういう、専門的な書物を嗜むような知的な部分は、僕が彼女を好きな理由の一つである。
机上の『多様性の弊害』をじっと見つめる。もしかすると、彼女を理解するためのヒントが書いてあるのかもしれない。追いかける前に、さっと目を通しておくのも悪くないかもしれない。
そう思って手を伸ばしたところ、ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。
***
しばらく公園でのんびり過ごし、心を落ち着かせたところで、彼の部屋に戻ってきた。
「ただいま。ごめんね、急に跳び出したりして」
玄関の扉を開き、彼にひとこと告げ、パンプスを脱ぎ、室内用スリッパに履き替える。
「いや、悪かったのは僕だよ。ごめん」
先ほどのことに対しての謝罪だろう。慌ただしく出迎えてくれた彼は、非常に申し訳なさそうな顔をして、私に謝ってきた。謝らないといけないことなんて、彼には無いだろうに。むしろ私の方こそ、身勝手な理想を押し付けているようで申し訳ないくらいだ。
けれど、ここで『べつにいいよ』なんて返答は、角が立つ気がして、飲み込んだ。私の言葉に、内心に秘めた不満がにじみ出て、また彼に気をつかわせるのは不本意だ。「ううん」と首を振り、否定とも気にしてないとも言えないような、曖昧な反応で間を持たせる。
その代わり、彼と一緒にリビングへ移動しながら、質問を投げかける。
「なんか、着替えた?」
というのも、部屋を出る前と今とで、彼の服装が違っているからだ。私が部屋を出る前、彼は部屋着姿であった。いつの間にか外出用の、しっかりめの服に衣装替えしている。
「いや、ちょっとね。ちゃんとしないとなって」
彼はそう言うと、不自然なくらいに姿勢を正した。そんなことしなくても、充分にちゃんとしていると思うけど。それはもう、私が嫌になるくらいには。
……しかし、今の彼をよく見ると、一部分だけちゃんとしていない部分がある。でも、ここは彼の部屋。外ならともかく、ここでとやかく指摘することではないだろう。
それでも、彼の返答の意味は、よく分からなかった。小首をかしげながらなんとなく視線をさまよわせていると、机の上に私が置き忘れていた本を見つけた。『多様性の弊害』。この本は、多様性という言葉が浸透することで、生きづらくなっている人もいる、みたいな内容だ。私のように。
あ、そういうことか。
きっと彼は、この本に目を通したのだろう。旧時代の理想的な女性像に、憧れて育ってきた女性もいる、と。そういった女性にとって、今の時代には、生きづらさを感じる部分がある、と。その部分を読んで、あえて私に、抜けているところを見せつけている。そんなところだろう。
はあ。それは、思いやりなのだろう。けれども、私のために無理にだらしない演技をするのも、何か違う気がするんだけど。
「ふふふ」
それでも彼の一生懸命さにおかしみと、それから愛おしさを感じて、つい、笑みがこぼれてしまった。
「ど、どうしたの?」
演技とは思えない、自然な反応だ。ここまでしてくれるのなら、彼の優しさに応えない訳にはいかない。
「ボタン、掛け違えてるよ」
そう言って私は、彼のシャツのボタンを留め直してあげた。
「あ、ほんとだ……」
ちょっと照れくさそうな反応の彼に、私はなんだか、惚れ直した気分だった。
掛け違えるふたり。 こばなし @anima369
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