【9】信長とドラゴン
美濃と尾張の
南下する木曾川の西岸も美濃国であり、つまり美濃は北と西から包み込むように尾張と接するかたちだ。
空からは、その有り様が一望できる。
とはいえ人間である信長の目には、夜の地表は月に照らされたところで影の濃淡としか見えていないだろうとヴァルデュギートは思ったけど──
「なるほど神獣の視点とは、かようなものか」
ヴァルデュギートの背の上で、信長は言った。
「天から
『そんなによく地上が見えてるの? サブローって夜目が利くヒト?』
たずねるヴァルデュギートに、信長の声音は笑みを含む。
「地の上からは見慣れた我が尾張よ。
『そっか。ボクが見る景色は、いつもだいたい空からだからね。地上から見た景色と比べることってないや』
ヴァルデュギートは感心して言う。
『人間はドラゴンより寿命は短いし、力も魔力も弱いけど、人間はドラゴンには作れないものを生み出すことがあるよね。日ノ本のお酒だってそうだよ。あんなに美味しいお酒を飲んだのは初めて』
「ヴァルは、よほど酒が気に入ったようであるな」
『うん。だからボクは、人間は嫌いじゃないよ。それにいまは、もっと人間を知りたいと思ってる』
人間を──いや、本当のことを言えば信長を、だ。
龍を畏れない人間。
これまで龍の存在を知らず、しかし僅かな手がかりからそれを的確に理解し、なお貪欲に龍について学ぼうとする人間。
ヴァルデュギートにとっても、信長と話すことは興味深い。
もっと彼と話してみたい。
そのために、いまは彼の敵を打ち払わなければ。
津島湊は、木曾川が海へ至る途中の東側、尾張領内にあった。
正確にいうと、幾筋かに枝分かれした木曾川の支流の一つ、天王川の東岸一帯を船着場として整備したのが津島湊である。
その先で天王川は西から来た木曾川の本流と再度交わり、さらに
そこから下って河口に至れば、海港でもある
桑名と津島の間は川底が浅いため、海船がそのまま遡航することはない。
しかし海ほど波が荒れないので、平底の大型の川船が行き来して、一度に多くの人と荷を運ぶ。
津島で荷は小舟や駄馬に積み替えられて、美濃、尾張両国の各地へ運ばれて行く。
もちろんその逆もあり、濃尾両国の各地から小舟や駄馬で津島へ集められた荷が、大型船で桑名へ運ばれる。
それを補完するかたちで濃尾両国に跨がる交通結節点となっているのが、津島であった。
その賑わいは夜でも衰えず、町家の軒先に吊るされた提灯や、窓からこぼれる灯火が明々と市中を照らす。
それは夜空の上からでも、はっきりとわかった。
信長にもよく見えているだろう。
そして──そのやや上流側で敵軍に囲まれ、炎に呑まれつつあるのが、勝幡城であった。
『あの城だね。まずは火を消すよ』
ヴァルデュギートが言って、信長は
「
『ボクは
「ならば存分にその術を示せ」
『任せて』
ヴァルデュギートは、グイッと首を持ち上げて天を仰いだ。
首のつけ根に跨がっていた信長は、体勢を崩しかけて、その首に抱きつく。
「……ふむ、手綱がないのは不便である」
『馬じゃないから手綱を着ける気はないよ。そうして抱きついていてくれればいいじゃないか。ちょっと
「……であるか」
『いくよ』
ヴァルデュギートは、すーっと息を吸い込む様子をみせ。
そして、
『GRRRRRRRRRRRRRRRR……!!』
カッと大きく開けた口腔から稲妻が走り、宙天を蒼白く染めた。
地上の兵士たちが騒ぎ出す。敵も味方も。
戦いに夢中になっていた彼らは、ヴァルデュギートの咆哮を耳にして思わず空を見上げ、金色の龍の姿に気づいたのだ。
蒼白く変じた空に、じわりと煙のようなものが生じた。
それが渦巻き、雲を形づくった。
ばちばちと稲光を放つ、雷雲だ。
そして──
ドオオオオオッ……と、巨大な桶をひっくり返したかの如く、豪雨が降り出した。
燃え盛る城を狙い打つように。
城を囲む水堀に浮かんだ敵軍の舟も、それに巻き込まれた。
何艘かの小舟が転覆し、
信長が低く押し殺した声音で言った。
「あれは津島の
『裏切り者がいるってこと? 何か事情があるかもしれないから、あとで問い詰めたらいいよ。まずは敵を追い散らすね。舟の上を飛び回るよ』
「……うむ」
ヴァルデュギートは、グンッと高度を下げて、櫓を立てた舟の上を
敵の兵士たちが悲鳴を上げ、慌てた何人かが櫓から落ちた。
堀に落ちた者は運がいいほうで、水夫役の味方を巻き添えにして櫓の真下に落ちた者もいた。
敵の舟から矢と鉄砲が、まばらに放たれる。
それを嘲るように──当人にそのつもりはないが──ヴァルデュギートは、敵兵たちの頭上を再び飛び越えて行く。
『GYYYYYYYYYY……!』
ヴァルデュギートは咆えた。
今度は威嚇である。
だが龍の存在を知らなかった人間たちには、直接攻撃されたに等しい効果があった。
舟が城から離れ始めた。
だが命令に従った行動ではなく、恐慌に陥ってのことなので、方向も速さもバラバラだ。
たちまち舟同士がぶつかり合い、幾人もの兵が川に落ち、転覆する舟も出る。
櫓を立てた舟同士も衝突して、双方の櫓が倒壊し、その上にいた者や水夫役の兵たちが巻き込まれた。
ヴァルデュギートは見て見ぬフリをした。
人間を一人も傷つけずに追い払うなんて無理なことだった。
直接には攻撃していないのだと、自分に言い聞かせた。
信長が言った。
「城の東を見よ。敵の本陣であろう」
城から少し離れた川岸に、篝火を焚いて兵士たちが集まる陣所があった。
ヴァルデュギートは信長が望むところを察した。
『あそこにいる敵の大将を追い払えば、みんな逃げて行くね』
「うむ。やるがよい」
『うん。早く終わらせて、城にいる人を助けよう』
ヴァルデュギートは敵の陣所を目がけて急降下した。
矢が何本も飛んで来た。
だが、飛翔する龍が
『GYYYYYYYYYY……!』
ヴァルデュギートは咆哮した。
床几から立ち上がった敵の大将らしい男が、恐怖と驚愕に顔を強ばらせて、ヴァルデュギートを見上げた。
ヴァルデュギートは彼の頭上を飛び越えた。
陣所にいた兵卒たち、あるいはより上等な甲冑を身に着けた侍たちが、我先にと逃げ出した。
川岸にいた舟も上流を目指して逃げ始め、乗り遅れた者が
城を囲んでいた小舟も転覆を免れたものは堀から川へ逃れたが、櫓を立てた舟は放棄された。
二艘を繋げたかたちなので水夫同士が息を合わせなければ操船できないが、皆が恐慌状態ではそれが難しい。
乗っていた者たちは堀に飛び込み、運がよければ味方の小舟に引き上げられる。
味方の助けを得られなかった者は岸を目指して懸命に泳ぐが、溺れて水に沈む者もいた。
その頃には魔法で呼び起こされた雨は
だが、すでに多くの建物が焼け落ち、黒焦げの柱や壁を残すばかりとなっていた。
生き残った兵士が十数人、城の中庭に姿が見えた。
信長が言った。
「儂を城に降ろせ」
『わかった』
ヴァルデュギートは飛翔速度を落とし、ゆっくりと羽ばたきながら、城に舞い降りるかたちをとった。
味方の兵士を驚かさないためである。
兵士たちも、金色の鳳凰のような『それ』が敵の軍勢を追い払ったことは理解していた。
何より『それ』の上に、人間が跨っていることに彼らは気づいた。
だから逃げることはせず、しかし『それ』が何者であるかはわからず、困惑に口をつぐんだまま見守った。
ヴァルデュギートが静かに地上に降り立つと、それに跨る信長に、若い侍が一人、駆け寄って来た。
「……殿! その鳳凰が如きモノは、いったい……?」
「ドラゴンである。名をヴァルデュギートと申して、我が
信長はヴァルデュギートの首を撫でた。
愛馬にするのと同じようにである。
つまりは馬同然に扱われているのだけど、撫でられるのは心地よかったので、ヴァルデュギートは黙って目を細める。
信長は侍に告げた。
「よくぞ城を守り通した、
「は……!」
平三郎は、その場に片膝をついて、
「父は城内の各所に上がった火を消そうと兵たちとともに駆け回っておりましたが、櫓が崩れるのに巻き込まれ……!」
「……であるか」
信長は、うなずいた。
「井ノ口での敗戦に続き、ここで
『なあに?』
ヴァルデュギートが答える声を聞き、平三郎は目を丸くする。
「
「鳳凰ではなくドラゴンと申して、かように猛々しき姿なれど、いかにもヴァルは女子である」
『まあね』
「さればヴァルよ」
信長は告げた。
「美濃方の舟を追い、上流から参る小平太、小藤太らと行き逢うところを挟み撃ちして、とことんまで脅しつけてやろうぞ。二度と再び尾張へ攻め入ろうなどと
『わかった。やるときは徹底的にやらないとだね。何度も戦いになるのは、ボクも遠慮したい』
「うむ」
信長はうなずき、平三郎に告げた。
「池田勝三郎が服部小平太、小藤太ら我が旗本の槍足軽衆とともに木曾川を下って参る。美濃勢をヴァルとともに挟み撃ちにいたしたのちは、槍足軽衆をこの城へ入れるゆえ、ともに勝幡の守りを固めよ」
「は……承知いたしました!」
「参るぞ、ヴァル」
『うん』
信長を乗せたヴァルデュギートは、ふわりと宙へ飛び上がると、北へ向かって飛び去った。
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