第17話
東の夜空が徐々に朝を迎え始めている。太陽の欠片が山の頭から覗き、空の色を深い藍色から橙色に塗り替えていく。やがてペルレにも朝日が降り注ぎ、山の影に沈んでいた村はまるで浮かび上がるように淡く輝いた。
マリーは家の屋根に座り、隣に腰かけるフランと共にその光景を眺めていた。膝の上には、狼のぬいぐるみがちょこんと座っている。
太陽が姿を完全に現したころ、アルベールとルーカの絶叫に似た笑い声と、トラズの男らしい泣き声が聞こえてきた。サシャ! と何度も名前を呼んでいるから、彼女が目を覚ましたのだろう。
「無事みたいだな」
「そうでなきゃ困るわ」
やれやれと首を振ったマリーの顔に、じんわりと安堵が広がっていく。
昨晩、急いで家に戻ったマリーは、事情の説明もそこそこに、サシャの肌を剣で撫でた。緋色の剣身はサシャの全身を覆っていた靄を残らず吸い取り、鎖骨の間にあった痣も消えた。長時間耐え忍んでいた彼女は疲労が溜まっていたのか、アルベールの手を握りしめたまま深い眠りに落ちてしまったが、ひとまず体内にあった魔力は全て除去できたようだった。
マリーが戦っている様子や、狼が出現した場面は全て両親が――「いいぞマリー!」とか「狼が、狼が出てきた!」とか喜んだり泣いたりしながら――見ていたという。アルベールも両親から状況を説明されていたらしく、魔力の除去と合わせて問い質された。
予想通り、両親は狼に会っていた。マリーが生まれた、その日に。
「私はアルデラミンと『己が認めた者にのみ力を貸す』『己が認めた者の忠実な武器になる』と誓いを交わしていた。だが彼が死んで以降、彼ほど力強く、理想高き者は現れなかった。しばらくはアルデラミンの子だからとたわむれに力を貸していたが、やがてそれにも飽きた。ゆえに私は姿を消した」
いつか彼と同じ気高き人物が、この世に生を受けるまで。
淡々と語る声は、ぬいぐるみから聞こえている。
「ずっと当主の影に潜んでたって、お父さまが言ってたわね」
「どうしてそんな芸当が出来るのか不思議なんだが」
「私とて元は普通の狼だった。だが、あまりにも多くの魔力を注がれ過ぎ、いつしかその実体は精霊と大差ないものに変化していた。精霊たちは石に変化するだろう。私は単に、石ではなく影に変化していたというだけだ」
そんなこと今はどうでもいい、とぬいぐるみがため息をついた。
両親からプレゼントに貰い、大事にしてきたぬいぐるみには今、狼が入り込んでいる。こうなることを予期して、両親はこれを贈ってくれたのだろうが、可愛らしい見た目に反し、声は野蛮なので違和感が激しい。いずれ慣れると思いたいものだ。
「影に潜んで幾年が過ぎ、ついに待ち望んだ人物が現れた」
「それが、私……」
「そう。アルデラミンと同じ、型にとらわれない自由な力強さがあり、己の弱さを恥じ、常に高みを目指す高潔さがある――そう信じたから、私はお主の影に身を移した」
赤子だったマリーを見て、よくそこまで見抜けたものだと素直に感心してしまう。
「だが、お主はまだ『芽』だった。成長の兆しはあるが、なかなか花開かない。
「……神力が少ない?」
「マリーの神力は馬鹿みたいに多いって、いつだったかサシャが言ってたぞ」
「尽きる前に私が霊力を与えていただけだ」
なにを今さら、と言いたげにぬいぐるみ――狼が顔を上げる。朝日に照らされた瞳は、作り物なのに不思議な生気に溢れていた。
ああっ、とマリーは頭を抱えてうずくまりたかった。膝に狼がいるのでそれが出来ず、ふかふかの毛並みに顔を埋めるしかない。
「そんな、そんなことって……!」
絶叫するマリーと違い、フランは納得したように目を丸くしていた。「マリーから魔力を感じたのは、それが原因か!」
「魔力を感じた? え? どういうこと?」
マリーから力を貰うたび、時々魔力が混じっていたとフランに教えられ、マリーはまた絶叫した。言い出せずにいたのは、
「じゃ、じゃあ怪我が治ってたのは?」
「霊力を注ぐことで体の治癒能力を飛躍させたまでの話」
「なんでもありだな……」
これまで使っていた神力の大半が狼からのものだと知り、マリーは自信を失くした。それを察したのか、狼は不器用に前脚を動かしてマリーのひたいをぽんぽんと叩く。
「安心しろ。『アルデラミンに比べれば』と言ったはずだ。一般的な精霊士の中では多い部類だろう」
「慰めをどうもありがとう……」
「そういえば狼、一つ気になっていることがある」フランはマリーの膝から狼を抱え上げた。なんだ、と言いたげに小首を傾げる姿が小憎らしい。「『今の私は半端者』って言っていたよな。あれはどういう意味だ?」
「私は魔獣ではあるが、宿す霊力は完全な魔力ではない。神力も混じっているからな」
なにせ私の体内には、アルデラミンに宿された神力の粒がある。
どこか誇らしげに、狼は胸を張った。
「かつて私はただ暴れ回るだけの知性のない魔獣だった。だがアルデラミンに浄化される寸前、何を思ったか奴は私にこう言った」
――お前、俺に飼われてみる気は無いか?
マリーはアルデラミンの肖像画を思い出す。恐らく彼は豪胆な笑みを浮かべ、狼の目を覗き込みながら言ったのではないかと、なぜかそう思った。
「奴は私に神力を埋めたが完全な浄化はせず、いつしか私は魔力と神力、二つを宿す体になっていた」
「そんなこと可能なの?」
「私という成功例があるのだから、不可能ではなかったのだろう」
魔力は戦いで吸収でき、神力はアルデラミンから供給される。また、魔力を自身の体内で神力に変換し、力尽きかけた主に提供するという技さえ習得した。にわかには信じがたいが、実際にマリーはそれで助けてもらっているのだから納得するしかない。
神力を宿したことで狼は知性を手に入れ、アルデラミンから半ば無理やり言葉の練習までさせられた、と面倒くさそうに語った。魔獣なんだから言葉くらい喋れるだろう、と迫ってきたというのだから、アルデラミンという男は相当に無茶苦茶だったのだろう。行動も、思考も。
結果的に狼は人間の言葉を喋っているのだから、試みは成功したと言っても問題はなさそうだが。
「……生きていた時のフランを傷つけたのは、アレクサンダー――ナイト家だって考えていいのかな」
マリーはフランから狼を受け取り、緩く抱きしめながら呟いた。フランは膝を立て、山の向こうに目を向けながら「そうかもな」と寂しげに答える。
戦っていた最中、アレクサンダーが言っていた。「ただ痛めつけるだけでは純度が低く、採れる量も少ないと学びました」と。
学んだ――いつ?
人身売買で手に入れた人々を痛めつけて、魔力を採集していた時に。
マリーはフランの肩にもたれ掛かった。フランは優しげな眼差しでマリーを見つめ、切なげに微笑んだ。
「新型の魔獣がどうこうとも言ってたから、あいつらは俺たちみたいな奴から吸い上げた魔力を利用してたんだろうな。昔も、今も」
「……そんなこと、もうさせない」
「おーい」と下から声がかかる。アルベールだった。隣には、どことなくバツが悪そうな顔のサシャもいる。
二人の手は、しっかりと結ばれていた。
下に降りておいで、と言われてマリーが立ち上がると、フランは剣の石に入り込んだ。目覚めたサシャに、事の顛末を説明しなければ。そしてナイト家の企みも。二人の力を借りれば、ナイト家の野望を潰すことも不可能ではないだろう。
「その時は狼にも手伝ってもらうからね」
「……それは構わないが、一つ言いたいことがある」
狼は器用にマリーの肩に座り、ふん、と鼻を鳴らした。
「狼、狼と呼ぶが、私にも名前はある」
「名前? アルデラミンに付けてもらったの?」
ああ、と狼は自慢げにうなずいた。「ツォルンという。いつまでも『憤怒の狼』では味気ないだろうと」
ツォルン、とマリーはフランと共に復唱した。軽やかで良い響きだ。
「そういえば、なんで『憤怒の狼』?」
「他の魔獣と違って、絶えず暴れ回っていたからだろう。怒り狂っているかのように」
「……今もそんな風に暴れ回りたいって思うことは?」
「ない」とツォルンはきっぱりと答えた。
「理由なき怒りは疲れる上に、体も心も壊すと学んだゆえ」
しかし、とツォルンは――ぬいぐるみなのだから表情の変化はないのだが――不敵に笑った。
「お主が暴れ回りたい時には力を貸す。いくらでも」
「……加減はしてほしいなあ」
マリーは剣を引き抜き、屋根から飛び降りた。剣を振るって足場を作ってみたが、想像していたよりも遥かに大きく武骨で、まるで劇場の舞台のような足場が出来てしまった。弾みでサシャとアルベールが転倒しかけ、サシャから盛大に睨まれてしまった。
力を貰いすぎるとこんな風になっちゃう、とマリーは言外に訴えたのだが、傍らからは「阿呆」と呆れられた。
「私はあくまで力を与えるだけだ。それをどのように出力するかはお主次第」
「そんなぁ!」
着地した途端、サシャに殴られそうだ。そちらの想像は当たっていた。
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