第15話
「……え?」
「とぼけないでいただきたい。七年前、ヘルト家の屋敷に向かった時は狼の魔力の残滓があるだけだった。それと同じものを今、あなたから感じるんですよ」
『なっ……』
そんな馬鹿な、とフランが石の中で息を飲んでいた。
初めは冗談か、マリーに揺さぶりをかけているのだと思った。だが違う。アレクサンダーの瞳にすでに笑みは無く、怒りに似た暗い感情が宿っている。
彼は確信を抱いているのだ。マリーが狼をどこかに隠したと。
「さあ、早く教えなさい。でなければ、あなたの師匠はずっと苦しみますよ。もしかすると間もなく魔力に侵されて魔獣と化すかも知れませんね」
「私は、そんな」
狼の居場所なんて知るわけがない。そう言いかけたが、寸前で口を噤んだ。
正直に伝えたところで彼が納得するとは思えない。むしろ吐くまで徹底的に痛めつけられそうな気もする。そして仮にマリーが答えたとしても、アレクサンダーが二つともの理由について語るとも思えない。
――だったら。
「教えるわけがないでしょう。まずはそっちから話すべきじゃない?」
知っていると見せかける。今はそれが一番いいだろうと考えた。
アレクサンダーは確実に良からぬ理由で狼を求めている。それを聞き出すためにも。
「……交渉決裂ですね」
残念です、と彼が杖で地面を叩いた時だった。
突然ぐにゃりと土が緩んだ。かと思うと、マリーを取り囲むように水の柱が吹き上がる。
水に四方を塞がれ、逃げ場がない。咄嗟に頭上を振り仰ぎ、ほとんど無意識で自分の足元に土の柱を出現させた。そのまま体を弾くようにして脱出した直後、水の柱は先ほどまでマリーがいた場所を洪水のごとき水量で埋め尽くした。
どうやら精霊士同士の争いが禁止だとか、お構いなしらしい。
着地した途端、間髪いれずに、間欠泉のように水の柱がマリーに向かってくる。後退して躱しつつ、土を操って水に蓋をした。ただ逃げるだけでなく、マリーも地面を揺らしたり土の礫を仕向けたりと応戦したが、どれも容易く避けられてしまう。
「いくら魔獣を送り込んでも、ことごとく捕えて浄化されてしまって、面目丸つぶれでしたよ。やはり試験で直接手を下すべきでした」
アレクサンダーの周囲で水が鞭のようにしなり、マリーを襲う。ただの水のはずなのに、凶悪な牙を剥きだしにした蛇に見えた。食らいつかれる間際に土壁を出して身を守り、激突した水は弾けて消える。
「人は誰しも魔力を持つものです。試験の魔獣はそれを求めて受験者を襲う。だから邪魔が入らないように、狼の魔力が漂うあなただけを仕留められるように手を回したのに、全てが無駄でした」
「『鼻』から入った精霊士や辺りの審査員が倒れていたのも、あなたの仕業だったってわけ」
「そうですとも。ヘルト家がどこに姿を晦ませたのか行方が知れない中、あなたを見つけたんでよ? 試験では毎年、少数とはいえ危険地帯で行方不明になる者もいます。それに紛れて、あなたを死なない程度に弱らせてから連れ帰り、狼を取り返すつもりでした。けれど、新型の魔獣すらあなたは退けてしまった。全く、計算外です」
新型の魔獣とは、半鷲半獅子のあれのことか。あれすらアレクサンダーが仕向けたものだったとは。
水の鞭を防いでいるうちに、徐々に後ずさっていく。距離を詰めるようにアレクサンダーが歩き出した。このまま後退を続けていると家にいる両親たちに危険が及ぶ。防戦一方ではいられないと、マリーは見よう見まねで土の鞭を作り出した。水ほどしなやかではないし、ごつごつとしていて不恰好ではあるが何とかなった。すぐさまアレクサンダーに鞭を振るう傍らで、マリーは走り出した。
次々と振るわれる水を断つように斬り、時に足元を掬おうと地面を這うそれを跳んで避け、アレクサンダーに接近する。彼は斬りつけられるのを予想して杖で体を庇ったが、マリーは隙が出来ていた腹に正面から肘を叩きこんだ。
感触が弱い。咄嗟に水で防御したらしい。しかし所詮は水だ。瞬く間にそれは弾け、アレクサンダーは腹をさすりながら後ろに飛びのいた。
「あれは――狼は元々、我々ナイト家の所有物です。だから返せと言っているのが分かりませんか」
「返して、あなたは狼をどうするつもりなの? 教えてくれたら、狼が今どこにいるのか話してあげてもいい。どういうわけか知らないけど、あなた、狼を取り戻そうと躍起になってるみたいだし?」
ぎり、と奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
答えがないまま、アレクサンダーが再び水の鞭を振るう。相性としてはマリーの方が優勢ではあるが、手数も手際もあちらが上だ。マリーは土の盾を左手に構えて身を守り、一旦距離を取って攻撃の隙を見計らう。先ほどよりも鞭の数が増えている。ばしばしと盾に当たっては弾ける音を聞きながら奴の様子を窺い、マリーは瞠目した。
アレクサンダーの隣で、巨大な水の柱が渦を巻いている。滝のごとき轟音を立てて回転していたが、次第に別の形を取り始めた。強靭な四肢と三角の耳、波打つ体躯はマリーの背より大きい。全身に纏う瑠璃色の光は鈍く、呼気のように口から漏れる靄は魔力のそれだ。
『水の狼?』とフランが石の中から叫んだ。
「術を応用するとああいうのも作れるのね……」
『感心してる場合か!』
水の狼はアレクサンダーの杖に合わせて力強く地面を蹴り、一瞬で距離を詰めてきた。さすがに盾一枚では防げない。ただ突っ立っていたのでは、洪水に巻き込まれるのと同じように呑みこまれるだろう。マリーは土を大きく盛り上げて巨大な壁を作り、狼の進行方向から回避したが、それは易々と壁を飛び越え、瞬時にマリーを追いかけてきた。
「どうして〈獅子〉を狙うのか? あなたは勘違いしておられるようですが、僕が真に欲しているのはペルレです」
狼を巧みに操りつつ、アレクサンダーが嗤う。
「魔獣生成や維持には大量の魔力が必要になる。魔力は負の感情より生まれます。憎悪や恨み、嫉妬や恐怖……長らく魔力を吸収していないであろう狼に捧げるには莫大な量が要る」
そう、ちょうどペルレの人口と同じくらいの。
アレクサンダーの背後にはペルレがある。深夜のため家々に明かりは灯っていない。住民の大半は眠りについているはずだ。
「しかし、ただ痛めつけるだけでは純度が低く、採れる量も少ないと学びました。より純度の高い魔力を得るには、相応に苦しんでいなければ。例えば信用していた相手に裏切られた時なんて、どれほど純度の高い魔力が生まれるでしょうか?」
狼の前脚がマリーを叩き潰そうと伸ばされ、咄嗟に土の鞭で横から殴りつける。形を失くした水を頭から被り、全身がずぶ濡れになったが気にしている暇はない。距離を取っている間に、狼の前脚は復活していた。
「ペルレの地に新たに根付く
「くっ……!」
魔獣と違い、元が水なだけに狼に弱点がほぼない。マリーは逃げ回りながら壁や柱を作って応戦するしかない。狼を操るアレクサンダーに直接手を下すことが出来ればいいのだが、近づこうにも狼に阻まれる。
彼に出来るのなら自分にも、と何度か動物を形成してみようとはした。しかし思っていた以上に集中力がいる。今の状況では精々柱と壁が限界だ。
出張っていたところに爪先が引っかかり、前のめりに転倒してしまう。受け身を取って転がったマリーの頭上で狼の顎がばしゃりと音を立てた。危うく取り込まれるところだったと冷や汗をかいて、ふと案が浮かんだ。
『おいマリー、何を考えてる?』
追い詰められていた顔色から一転、唇がにいっと弧を描いたのをフランは見ていたらしい。嫌な予感がする、と引きつった声が続いた。
フランの問いに答えないまま、マリーは立ち上がって駆け出した。アレクサンダーに向かって。
術者を守ろうと狼も身を翻し、行く手に立ちふさがって大口を開ける。しかし減速することなく、むしろ勢いを増しながらマリーはその中に飛び込んでいった。
内部は思っていたよりも穏やかだったが、水に混じって漂う魔力が煩わしい。アレクサンダーは「悪・水属性」なのだろう。出来るだけ水を飲んでしまわないよう気を付けながら素早く泳ぎ、マリーはアレクサンダー目がけて体外に飛び出した。
まさか泳いでくるとは思っていなかったのだろう。彼が防御するより早く、マリーはアレクサンダーの肩を突き刺すつもりで腕を引いた。
しかし、
「!」
急に体がガチリと固まった。中途半端な体勢のまま、マリーは地面に激突した。何が起こったのか分からずに呆然としていると、頭上から押し殺した笑いが注がれる。
「まさか突っ切ってまで来るとは思いもしませんでした。けれど、ここまでです」
鼻の痛みに呻きながら、無様に伸ばされたままの腕に目を向ける。
「氷……!」
腕だけでなく、体全体が凍り付いている。顔以外、濡れていた部分が全て。
アレクサンダーが水ばかりを使っていたのと、身近に水精士がいなかったのもあって気が付かなかった。
水の術を応用すれば氷になると、どうして思いもしなかったのだろう。
歯噛みするマリーの手から剣を弾き飛ばし、アレクサンダーがしゃがみ込む。葉脈のように地表を這った水が次々とマリーに絡みつき、軋んだ音を立てて凍っていく。目線だけでアレクサンダーを睨むと、彼の瞳の奥底で、この時を待ちわびたと言わんばかりの愉楽が踊っていた。
剣が手元になければ術は使えない。フランは石から出てこちらに駆け寄ろうとしているようだったが、アレクサンダーが作り出した水の壁と狼に阻まれているらしい。
「狼の居場所なんて、絶対に教えないわよ」
「構いませんよ、別に」ぐっと顎の下に杖が差し込まれ、無理やり上を向かされる。白い喉には尖った氷を突きつけられた。「〈獅子〉には今、あなたのご両親も居られるのでしょう? 知っていますよ。ならばあなたを人質に問い詰めるだけのこと」
「! それはっ」
父は確実に狼の居場所を知っている。マリーを助けるためならば教えてしまうかも知れない。
絶対にアレクサンダーに七大魔獣を渡してはいけない。それだけは分かる。
屈してはいけない。屈するわけにはいかない。無理やりにでも立ち上がろうとしたが、氷の束縛は思っていた以上に強固だ。
「なぜ七大魔獣を求めるのかと聞きましたね。いいでしょう、答えて差し上げます」
ぷつ、と氷の先端が皮膚に食い込んだ。
「国を取り返すためです」
「……どういうこと?」
「建国神話はご存知でしょうか。僕の先祖は七大魔獣を生み出し、処刑された男です」
シュトラーセ王国が出来て間もない頃、王である兄の土地を羨んだ弟がいた。一度は敗れた弟は研究を重ね、七大魔獣を生み出したものの、最期は処刑された。神力の特訓をした時に、フランが読んでくれた歴史の話だ。
アレクサンダーの言葉が事実であれば、彼らは王族の傍系ということになる。
「兄弟は初めから仲が悪かったわけではありません。が、飢饉や疫病が発生し、弟の国は追い詰められていった。そこで隣国の兄は愛ゆえに手を差し伸べたのですが、弟はそれを拒み、逆に兄の国を蹂躙せんと戦いを挑んだ」
恐らく弟は屈辱的だったのだろう。聡明で父の信頼も厚く、誰からも愛される兄。かたや自分はあらゆる点で兄に劣り、それでも父の教えに従って必死に国を守ってきた。けれど光の神と闇の神は、なお弟に試練を与える。懸命に民を導こうとしていた弟は、兄に哀れみを向けられたことで自尊心を傷つけられたのだとアレクサンダーは力説する。
「けど、神話には『土地を巡って』としか」
「あれは本人たちが書いたものではなく、周囲の人間が物語調に記したものですよ。真実は多少異なります」
とはいえ、弟の敗北と言う部分に変わりはない。食料も無く疲弊していた弟の軍に勝ち目は無かった。弟の国はシュトラーセに併合され、現在も領土の一部に名を残しているという。
「愛による庇護を説いた兄と、力による支配を訴えた弟。両者の考えは真逆でした。けれど弟が七大魔獣を生み出して再び戦いを挑んだ後、弟は処刑された」
おかしいと思いませんか、とアレクサンダーは吐き捨てるように続ける。
「愛を説いたくせに、最後は弟やその配下を力で排除したんですよ。そのくせ、彼の家族には恵みをと中途半端な愛を与えた。その結果が僕たちです」
弟は悪属性最高の精霊士として恐れられていたが、それは彼の子孫たちも同様だった。兄は残された彼らに魔力を使うことを禁じ、反旗を翻されないようにと活動も制限した。代わりに爵位やその他諸々を与えたらしいが、不満が燻らないわけがなかった。
アレクサンダーを初めとするナイト家は弟を神祖とし、何年も、何百年も、再び彼の国を蘇らせ、今度こそは憎きシュトラーセを我が手にと悲願を抱いてきた。普段は善良な精霊士あるいは国民の皮を被り、その水面下で着々と準備を進めてきた。
「それで七大魔獣を再び従えて、反乱を起こそうって?」
「ええ、その通り。狼以外の魔獣は処分されましたが、間もなく生成が始まります。それに先駆け、原初の魔獣とも言える狼を再び我らの手に……」
「……馬鹿じゃないの?」
恍惚と蕩けた表情で語っていたアレクサンダーを遮り、マリーは鼻を鳴らした。
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