第14話
サシャの私室は階段のすぐそばにある。駆け下りた勢いのままに部屋に飛び込むと、同じようにルーカに報告を受けたアルベールがベッドのそばに跪いていた。
「アル、師匠は!」
「……ああ、マリー。どういうことなんだろうね、これ」
フランと共にベッドに駆け寄り、マリーは息を飲んだ。
横たわったサシャの体が、黒い靄に呑まれかけていた。
明かりに照らされた苦しげな顔は青白く、汗の粒が無数に浮かんでいる。痛みを堪えるように両手はシーツを握りしめ、時おり呻き声が上がった。
よく見ると鎖骨のあたりに痣のようなものが見て取れた。アルベールはそれに触れ、眉間に皺を寄せた。
「変だな……こんなの、サシャには無かった」
サシャを覆う靄はそこから発生しているようだ。神力で抵抗しているようだが、見る限り状況は芳しくない。
ルーカの説明によると、サシャはいつも通り眠っていたという。しかし突然苦しみ出したかと思うと、次の瞬間には靄が彼女を包み込んでいた。
「魔獣を殺したりしてないのに、どうしてなのかボク分からなくて……!」
「落ち着きなさい。相棒のあなたが狼狽えてどうするの」
振り返ると、トラズが部屋に入ってくるところだった。後ろにはマリーの両親の姿もある。父が医者なので呼ばれたのだろう。
父はサシャの容体を一通り見たが、何が起きているのか分からなかったようだ。普通ではないのは確かだが。
「ア、アル……」
薄らと開いたサシャの眼がアルベールを見つける。なに、と言うように彼はサシャに顔を寄せ、ベッドの上を彷徨っていた手を掴んだ。
アルベールはトラズに剣を取ってくるよう頼む。届けられたそれを抜き、トラズが鍔の石に入ったのを確認すると、剣身から浄化の光が伸びてきた。若緑色の輝きは靄を払うように全身を包み込み、渦を巻く。かすかにサシャの表情が和らいだが、またすぐに唇を噛んで苦しみだしてしまった。
「全く。この間から前例のないこと続きだな」
片手にサシャの手を、片手に剣を握り、アルベールは眉間に皺を寄せた。マリーも剣を取りに戻って浄化を手伝うが、よほど魔力が強いのか、どれだけ神力を注いでも押し返されてしまう。
「……この痣、何かに似てませんか」
頭が二つに裂けた針のような形と、それを中心に左右に伸びる黒い影。裂けた部分は嘴にも見え、今にもけたたましい鳴き声を上げそうだ。
その様はまるで、暗闇から現れる烏だ。
そして烏から連想されるのは例の顔。マリーとアルベールはどちらからともなく、アレクサンダーの名を口にしていた。
「だけど彼は試験前に見てから、俺たちの前に現れてない。マリーも特例で昇格したし、てっきり諦めたからだと思ってたんだけど、甘かったかな」
「でも、仮にあいつの仕業だとして、どうやって呪いを?」
「分からないな。この場にいたら叩きのめしてでも聞き出すんだけど」
念のため診療用のカバンを持ってきていた父は、頭痛に効く薬やら、痛みを和らげる粉やら取り出して悩んでいる。どれを処方すべきか分からないのだろう。母は水差しやその他必要なものを用意し、父の隣でサシャの看病をしてくれた。
二人がかりで浄化しているというのに、一向に進まない。
「私の時は靄が消えたのに……」
「ああ、言ってたね。急に消えたって。てっきり自力で浄化出来た類かと思ってたんだけど、マリーに出来たことをサシャが出来ないはずがないし」
浅く痛々しい呼吸音が断続的に響く。とにかく今は浄化に集中するべきだ。二人は黙り込み、無心で神力を注ぎ続けた。
どれだけの時間そうしていただろう。わずかに魔力が薄まった気もするが、サシャは依然苦しそうだ。
「こんなに弱ってるのを見たの、いつ以来かなあ」
ぽつりとアルベールが呟く。彼とサシャは同郷の幼馴染だ。二つ年上のサシャは幼い頃から男勝りで、近所の子どもたちの姉貴分だったと聞く。
「小さい時に建国伝説を読んでから、アルデラミンに憧れたんだって。この英雄みたいに強くなるって張り切ってた。だけど『女のくせに』って喧嘩を吹っ掛けられる日が何年も続いて、いつの間にか『みんなに慕われる英雄』じゃなくて『みんなに恐れられる悪ガキ』になってた。方向性を間違えたんだよ。でも、それが一変する出来事があった」
「……師匠のお母さまが、亡くなった?」
「そう。サシャに負けた奴が、本人に恨みを返せないからって、彼女の家族に矛先を向けたんだ」
出かけていたサシャは、すでに息絶えた母の亡骸を見つけた時、ひどく動揺していたという。のちに犯人は捕らえられ、脅すだけのつもりで殺すはずじゃなかったと訴えた。サシャは魔獣のように暴れたが、すぐに悄然と崩れ落ち、犯人を一発殴っただけだった。
「お葬式の時、お母さんのお墓の前からずっと動かなかったんだ。自分のせいで――みんなを守れる英雄になるつもりだったのに――ごめんなさいってずっと言ってた。……あれからサシャは変わった。自分の快楽のために力を振るうのを止めて、人助けに使うようになった」
「暴力は振るわないって封じ込めるわけじゃなくて?」
「『今度こそアルデラミンを目指すんだ』って言ってたなあ。過程はどうあれ、培った力に変わりはないからね」
その後すぐにルーカと契約し、瞬く間に下位、上位と駆けあがっていき、自ら団を設立した。彼女をずっとそばで見ていたアルベールも、後を追う形で精霊士となり、〈鹿〉を経て〈獅子〉に入団した。
サシャの手がアルベールのそれを強く握る。槍斧を振るう勇ましい手が、今はひどく弱々しく見えた。
マリーはアルベールの顔を横目で見遣った。彼の瞳は真っ直ぐにサシャを映し、不安に揺れている。
幼い頃から共に過ごした二人の間には、不可視の強い絆がある。マリーがサシャに憧れたように、アルベールも彼女に憧れたのだろう。サシャもまた、アルベールの朗らかさに惹かれているに違いない。
「……ん?」
不意に父が首を傾げた。どうしたのかと尋ねると、「外で何かが光った気が」と位置を指差す。マリーは立ち上がり、じっと目を凝らした。
初めは何も見えなかったが、確かに何かがちかちかと瞬いた。場所はペルレと家を繋ぐ間の道の辺りか。
ちょうど、アレクサンダーと初めて会った時と同じくらいの。
「……まさか」
「何か見えた?」
――瑠璃色の、光が。
見覚えのある色味だ。それはまるで招くように明滅を繰り返す。
恐らく、いるのだろう。〈烏〉の団長の彼が。
そう気付いた途端、ふつふつと怒りがわき上がってきた。サシャに注いでいた神力が一瞬で膨張し、部屋全体を橙色の光で埋め尽くす。
「急にどうしたの、マリー!」
「……すみません。私、ちょっと様子を見てきます」
アレクサンダーがいる、とは言わなかった。もし報告していたら、アルベールは間違いなく飛び出していき、形振り構わず斬りつけるだろう。
精霊士同士の戦闘は許可がない限り禁じられている。もし無暗に攻撃すれば危うい。
「アルは師匠のそばにいてあげてください。大丈夫です、すぐに戻ってきますから」
返答を聞くより早く、マリーは飛び出した。開けっ放しにした扉の向こうから、母の慌てたような声が聞こえてきた。
――あそこにいるのがあいつなら、問い詰めてやる。
――師匠に何をしたのか。どうして私たちを執拗に狙うのか。
怒りのままに走り、光が見えた場所に向かう。
待ち構えていたのは、初めて会った時と同じ出で立ちのアレクサンダーだった。
「良い夜ですね」
アレクサンダーはこちらに背を向け、ペルレを見下ろしていた。マリーは剣を彼につきつけ、吐き捨てるように言った。「師匠に何かしたのはあなたでしょう」
「決めつけはよくありませんよ」
「師匠の首元に痣があったのよ。烏に似た、ね」
彼はゆっくりと振り返る。剣が目先にあるというのに、怯む様子は全くない。どころかマリーが圧された。
これまでアレクサンダーは不気味な笑みを浮かべていることが多かった。しかし今、彼の顔に張り付いているのは、溢れ出る楽しさを必死にかみ殺したような、どこかぎこちない笑みだった。
「何のことでしょう、とはぐらかしたいところですが、時間が惜しい。ええ、そうです。認めましょう」
やれやれと言いたげに肩をすくめ、アレクサンダーはくつくつと笑う。マリーは柄を握り直し、衝動のままに斬りかかりたいのを必死に堪えて唇を噛んだ。
予想に反して彼はあっさりと自分の仕業だと認めた。今すぐにサシャから痣を消せと迫りたいが、焦りは禁物だ。何の見返りもなしに靄を消すとは思えない。
「師匠に何をしたの。師匠は魔獣を殺したりしてないのに!」
「肉に魔力の粒を仕込ませていたんです。魔獣を浄化する時、神力の粒を垂らすでしょう? あれと同じ要領ですよ」
マリーの昇格祝いで出された料理には村の人々から贈られた食材が使われた。そのうちの一つに、アレクサンダーからの〝贈り物〟が仕込まれていたのか。
「誰が口にするかは賭けでしたが、その口ぶりですと団長さんが食したようですね。お加減はいかがですか?」
「ふざけるのも大概にして!」
思わず剣を振るってしまう。だがアレクサンダーは涼しい顔で後ろに飛びのくと、汗もかいていないのにわざとらしくひたいを拭った。
「どれだけ神力を注いでも浄化されないのは、あなたがここから手を加えていたからね? 今すぐ師匠を解放して!」
マリーの絶叫に、アレクサンダーからの答えはない。ただ無言で笑みを返されるだけだ。苛立たしさから奥歯を噛みしめる。
「どうしてそこまでして師匠を――〈獅子〉を狙うの? 七大魔獣の狼を求めることと何の関係があるの?」
「おや、僕の狙いが七大魔獣であることにお気付きでしたか」
「ついさっき『そうかも』って気付いたのよ。けど、今の一言で『やっぱり』って確信した」
答えなさい、と再び剣を突きつける。どうして七大魔獣を求めるのか。そして、なぜ〈獅子〉を狙うのか。
「話しても構いませんが、条件があります」
アレクサンダーが持つ杖の石が、瑠璃色に輝いた。
気のせいだろうか、初めて見た時よりも、光が鈍く凝っている。
「狼の在処を教えなさい」
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