第13話
「俺はマリーみたいに上流階級の人間じゃなかった。貧乏な農夫の家に生まれて、家族は皆、流行り病で死んだ。俺は救貧院に行ったけど、最終的には環境のひどさが嫌になって逃げだして、あちこちを放浪した」
各地の貧困街を渡り歩き、生きるために仲間たちと共に盗みを働いたとフランは言う。とてもそんな人生を送ったようには見えなくて、マリーは少なからず驚いていた。
「殺したり、とかは」
「そこまでの度胸は無かったな」
その後、やがてフランは生きることに疲れた。今さらまともに働くすべも分からず、手を汚すことでしか暮らせない。そんな自分に嫌気がさした。
「もう、どうにでもなれと思った。路上でくたばってもいいくらいに。そんな時に、突然攫われた」
「……は?」
「真っ黒な馬車が目の間に停まったと思ったら、降りてきた奴らに目隠しされるわ、縛られるわ……多分、俺みたいな底辺の人間が他にも乗ってた。生きる気力もない奴らの気配が充満してたから」
恐らく人身売買だったのだろうが、誰も逃げ出そうとせず、為すがままになっていた。フランも例外なく。
しばらく揺られ、何度か馬車を乗り換えさせられて辿り着いた場所は黴臭かった。拉致された者たちは荷物を運ぶように次々と引き摺り下ろされ、氷のように冷たく硬い部屋に放り込まれた。
「次の瞬間、鞭を振る音と潰れたみたいな悲鳴が聞こえた。何度も、何度も。鞭だけじゃなくて殴ったり、斬りつけたりもしたんだろうな。血の匂いもするようになった」
「……フランが連れて行かれたのって、どこなの?」
「場所も目的も、謎なままだ。奴らが誰だったのかも。知る必要もないと思ってたし……段々俺の番が近づいてきて、殴られて蹴られて、布きれみたいに扱われた。どうにでもなれとは思ってたけど、訳も分からないまま暴行されるのは、さすがに『どうして』と泣きたくなったのを覚えてる」
フランと同じ考えの者は少なからず――いや、大多数だったようだ。死にたくないと誰かが嗚咽した。助けてくれと懇願する者もいた。
結局のところ、連れてこられたのは生きる気力がないくせに、死ぬ勇気もないような者ばかりだった。
何者かによる暴行は続き、一人、また一人と泣き、血と恨みを吐きながら死んでいった。
「フランも、その時に?」
「いや、俺は逃げ出した」
叩かれ、斬りつけられているうちに、腕や脚を縛っていた縄が擦り切れ、運よく緩んでいた。何者かは集団だったようだが、暴行は一人ずつ交代制で行っていた。交代の瞬間を見計らい、フランは逃亡を実行したという。
しかし傷がひどく、瞼は腫れあがって視界を塞いでいた。全身の痛みは思い出したくないほどで、あらゆる場所に身を隠し、隙を突きつづけ、逃げきれたのは奇跡というほかない。
当時の痛みを思い出したのだろう。マリーを抱きしめる腕が強張った。
「ただ、何日も食事なんてしてなかったからな。怪我も重なって、ついに見知らぬ土地で力尽きて、ここで死ぬんだと思った。……だけど、助けてくれた人がいた。医者を呼んでくれて、俺は病院に運ばれた。結局、次の日だったか、もう一日あとに死んだんだけど」
「そんな……」
かける言葉が見つからない。助かったと思った矢先に命を失い、どれほど苦しかっただろう。
マリーに出来たのは、無言のまま慰めるようにしてフランの背を撫でることだけだった。くすぐったかったのか、彼の肩がわずかに震え、マリーの首筋に顔を摺り寄せる。何となく子犬のようだと思った。
「いいんだよ。死んだとはいえ、精霊として戻ってくることが出来た。おかげでお礼も言えるしな」
「お礼? 倒れてたフランを助けてくれた人に?」
マリーの相棒になる前に恩人のもとに行ったのだろう。いや、だとしたら「言えた」と言うはずでは。混乱している間に、マリーはフランの腕から解放されていた。
かと思いきや、今度は優しく押し倒される。ベッドが軽やかにマリーを受け止め、とくりと心臓が跳ねた気がした。
「マリーなんだよ」
はっとして見上げた彼の瞳は、ロウソクの淡い光に濡れて宝石のように艶めいていた。
「俺を助けたのは、マリーだ」
「…………えっ、私?」
覚えていないかと視線で訊ねられ、マリーはぽかんと口を開ける。
フランと初めて会ったのは七年前のあの夜が初めてのはずだ。その時すでに彼は精霊だった。しかし当時、フランの顔や姿に見覚えは無かった。
見知らぬ土地で力尽き、そこで助けられたとフランは言う。必死に記憶を辿っていくうち、マリーの脳裏にちらりと蘇ったものがあった。
屋敷が襲われた例の日の、お昼過ぎ。
「お母さまと町に出掛けた帰りに、綺麗な花が咲いているのを見つけて、馬車を下りて……たまたま人が倒れているのに、気が付いて」
お土産に花束を作ろうと色鮮やかな花を手折っていると、汗臭さと血生臭さが混じったような異臭が鼻をついた。ドレスをたくし上げて興味本位で草をかき分けながら進んだ先で見つけたのは、ぴくりとも動かない人間だった。
衣服はほとんど破られ、肌は元の色を探すのが難しいほど痣や傷で埋め尽くされていた。力なく伸ばした手に爪は無く、正常な向きの指は一本たりともない。とんでもないものを見つけてしまったと驚いたマリーは、持っていた花を取り落し、つい叫んでしまった。
「だけど、その人が呻いたから生きているって分かって、大丈夫かって思いっきり傷跡を撫でたような……」
「病気かも知れないから離れなさいって怒鳴る母親に『このまま放っておくなんて無理よ!』って怒鳴り返したのは?」
「……覚えてる」
初めは屋敷に連れ帰ろうとしたが、さすがに母親に止められて、じゃあ医者を呼んでと頼み込んだのだ。幸い近くの町に医者が居り、無事に怪我人を搬送できたのだ。どうなったか後日様子を見に行こう、その時にお土産の花束を渡そうと決めていたが、屋敷が何者かに襲われた。騒動の中で、マリーは道端で見つけた誰かのことをすっかり忘れてしまったのだ。
右手で彼の頬に触れる。医者が来るまでに、少しでも顔を綺麗にしてやろうとハンカチで拭った場所だ。あの時は裂傷と腫れでひどい有様だったが、今は陶器のように滑らかだ。
「助からなかったのね……」
「命はな。だけど心は助かった。理由も分からないまま暴行されて、恨みながら死ぬよりよっぽど良い最期だった。放っておくことも出来たのに、医者を呼んで介抱してくれたから」
フランは今にも泣きそうに微笑んだ。マリーもそれにつられて笑っていた。
「好きだ」
彼の大きな掌が、頬を撫でていたマリーの手に重ねられる。
「磨き抜かれた真珠みたいな肌も、空から取り出したみたいな瞳も。
かあっと頬が熱くなるのを感じる。気恥ずかしくて目を逸らしたいのに、フランの眼差しはマリーを捉えて離さない。
彼はマリーの手を取り、指先に啄むような口づけを落とした。触れられた箇所から、全身にぴりぴりと甘い痺れが奔る。
「相棒だと思ってた奴に言われても困るって顔してるな」
「ち、違う。そんなんじゃ……」
今にも口から飛び出してしまいそうなほど、心臓が激しく脈打っている。
フランの気持ちに答えなければ――私も好きだと言いたいのに、これが現実なのか受け止めきれなくて、うまく言葉を紡げない。酸欠の魚のように口を何度も開閉させ、ようやく出せた一言は掠れていた。
「い、いつから?」
いつから私のことを好きだったの、と言うつもりだったのに初めしか言えなかった。
「さあ。気が付いたら。初めは手のかかる小娘だと思ってたのが、いつの間にか愛おしくて堪らなくなった」
「……なんで、ずっと言わなかったの?」
「本当は言うつもりじゃなった。拒否されたらと考えたら怖かったし、お前を余計なことで煩わせるわけにはいかないと自制してた」
だけど、とフランが目を伏せた。
「試験で危ない目に遭っただろう。もし一歩間違えたら死んでた。もしそうなってたら……俺は間違いなく、伝えておけばよかったと後悔するところだった」
「それで、今?」
「黙ったまま言葉を腐らせるよりはいいだろ」
包まれたままだった手が離される。それきり彼は黙ってしまった。
マリーが答えるのを待っているのだ。
言葉が見つからない。何から伝えればいいか分からないのだ。
「……私が精霊士になったのは、独り立ちしたかったからなの」
フランの目を見ていられなくなって、マリーは両腕で顔を覆った。
「手のかかる小娘だって言ったよね。実際その通りだった。着替えも入浴も、自分一人じゃ何もできない。弱くて誰かに守ってもらわなきゃいけない自分が嫌だった」
蝶よ花よと育てられる中で、幼いマリーに芽生えたのは情けなさだった。一般的な令嬢は庇護されるべき存在だという常識が、窮屈で堪らなくなった。物語を読むときも、真っ先に憧れたのはか弱く美しい姫ではなく、剣と盾で姫を守る騎士だった。
「自分だけじゃなく、家族の身も守れる強さが欲しかった。だけど、当然お父さまには反対されるだろうし、どうすればいいのか分からなくて……そんな中で師匠とフランに会って、『これなら強くなれるかも』って思った」
ごめんなさい、と口の端から零れた謝罪は、ぎこちなく震えていた。
「私、自分の目的のためにあなたを利用した。精霊士になれば否が応でもお父さまたちは反対できないって思って、あなたの意思も聞かずに私のものにしたわ」
「泣くなよ」
フランがマリーの腕をそっと剥がす。指摘されて初めて、自分が泣いていると気が付いた。彼の指が頬を伝う雫を掬い上げていく。その手つきがあまりにも優しくて、涙が一層溢れだす。
かつて精霊士になった理由を、サシャに憧れたからだと言った。嘘ではない。しかし、それが全てではなかった。
例の夜では使用人たちが犠牲となった。彼らの遺体に別れを告げていた時、自分がサシャのように強烈な力を持っていたら守れたのに、と心の内で何度謝ったことか。
「人の手を借りて高みを目指すのは罪じゃない」
おずおずと顔を上げると、マリーの戸惑い気味の視線と、フランの慈しみに満ちた視線とが交わり合った。
「お前は多分、自分一人で強くならなきゃいけないと思ってたんじゃないのか」
「……うん」
けれど志に反して、自分は精霊であるフランを利用して強くなった。
「物は言いようだ。マリーは今、俺を利用したって言ったな。けど俺は、そんな風に思ってない」
利用ではなく、互いに手を取り合っている。フランはまるで子どもに言い聞かせるようにゆっくりと言葉を選んでいた。
「それに俺たちは二人で一つなんだ。そうだろ?」
「……そうね。そうよね」
気が付けば涙は止まり、マリーの唇は薄らと笑みを描いていた。
契約を交わした以上、フランはマリーがいなければ存在できないし、マリーは彼の力を借りなければ戦えない。まさしく二人で一つだと今さら実感した。
ずっと抱えていた後ろめたさと罪悪感が軽くなり、霧散するように消えていく。マリーはフランに手を伸ばして「ありがとう」と涙声で囁くように言い、彼の襟を掴んで思い切り引き寄せた。
「えっ」
何か言おうとしていたフランの唇を、自分のそれで塞いだ。
「フランの気持ちに対する、私の答え」
息継ぎの合間に素早く告げる。間近で覗き込んだ彼の目に、どことなく満足げな自分の顔が映っていた。
初めは目を瞠ったまま固まっていたフランも、段々状況を飲みこめてきたらしい。マリーの傍らに突いたままだった両手が背中に回される。何度も口づけを交わすうちに思考が蕩け、あやふやになっていった。
頭を押さえられて口づけが深くなり、あえかな声が零れ落ちる。自分のものとは思えない甘いそれに、頭が沸騰しそうになった。
ずいぶん大胆なことをしてしまったと恥ずかしくなったのは、彼に体を預けきった頃だった。乱れた呼吸を整えていると、頭を優しく撫でられる。
「まさか受け入れてもらえるとは思ってなかった」
「私ね、初めて会った時、あなたに一目惚れしたのよ」
ああ、なんて嬉しいのだろう。
愛しい人の視界には、今、自分しか映っていない。自分の視界にも、愛しい彼の穏やかな顔が映るばかり。
「フランと一緒。断られたらどうしようって考えて、傷つきたくなくて、ずっと言えなかった。私もずっと、あなたが好きだった」
驚いたようにフランは一瞬目を丸くしたあと、ふっと溶けるような笑みを浮かべた。
ベッドの傍らに置いてあった燭台を取り、フランが明かりを吹き消した。マリーの頬やひたい、首筋にキスの雨を降らせたあと、彼は安堵の息をついた。
「本当に、本当に良かった。もし試験で〈烏〉に負けてたら今頃……」
「きっとアレクサンダーも驚いてるでしょうね。勝つつもりでいたのに、昇格できたのは私だけ――あれ?」
ふと何かが引っかかった。どうしたのかと訊ねてくるフランをよそに、マリーは顔を顰めて腕を組んだ。
いつのことだろう。その時は特に疑問を抱かなかったが、よくよく考えたら違和感がある。けれど何が胸につっかえているのか分からない。
――この壁を作ったのもあなたでしょう、
「――――あぁっ!」
「いっ……!」
気付いたと同時に跳ね起き、フランの顎に顔がぶつかった。しばらく二人とも痛みに呻いていたが、先に復活したのはマリーだった。
「熊魔獣を捕獲した時、あの人、私のこと『マリー・ヘルト』って呼んでた!」
「アレクサンダーが? それがどうした」
「分からない? ヘルト家は公にはあの晩に全滅したことになってるのよ!」
そもそも初めて会った時も、向こうは名乗ったが、マリーは名乗っていない。仮に告げるとしても偽名を伝えていた。
「どうしてアレクサンダーは、私を『マリー・ヘルト』だって知ってるの?」
「……確かに」
まさか、と二人の声が重なった。
「屋敷を襲ったのは、アレクサンダー……ナイト家なの?」
「仮にそうだとして、なんで奴らは襲ってきたんだ」
マリーは祝いの席で父に聞いた、狼についてと、それを狙う者たちの可能性を説明した。
「お父さまは狼を見たことがあるみたいだった。聞こうとしたんだけど、気を失っちゃって」
「今からでも聞きに……」
「マリー! マリー!」
ばんばんと窓ガラスが外から叩かれる。何事かと揃って目を向けると、大粒の涙を零して泣きじゃくるルーカが浮かんでいた。慌ててフランが窓を開けると、彼女は下の階を指差しながら途切れ途切れに訴えた。
「サシャが、サシャが呪われちゃった……!」
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