第8話

 轟々と燃えていた炎は一瞬で消え、後には黒焦げの木と草の燃えかすが残る。

 一体何事か。雨でも降ったのかとマリーはひたいに張り付く髪を剥がしつつ、混乱する頭で空を見上げた。すっきりとした春の空はどこまでも晴れ、綿に似た白い雲がのんびりと浮かんでいる。雨雲は見つけられない。

 サシャも何が起こったのか理解できていないらしく、髪を乱暴にかき上げながら舌打ちをしていた。

「失礼。眺めているのも悪くなかったのですが、あまりにも無様でしたので」

 くつくつと笑いを含んだ声が降ってくる。聞き覚えのあるそれに、マリーは渋面を浮かべた。

 壁の上に立ち、こちらを見下ろしていたのはアレクサンダーだった。

「どうしてあんたがここに!」

「たまたまですよ。ペルレへ向かう途中、何やら争っている音を聞いたので立ち寄っただけです」

 彼は相変わらず不気味な笑みを作っている。体の芯がぞっと冷えるような感覚がし、マリーは無意識に腕を摩った。一方サシャは牙をむき出しにして威嚇する獣のごとく、嫌忌の眼差しを彼に向けている。

「来なくていいって言ったはずだよなぁ?」

「僕はまだ〈獅子〉の拠点を諦めたわけではありません。それより、今は僕に感謝するべきでは? お二人の窮地を救ったのですから」

「窮地ってほどの窮地でもねえよ。都合よく解釈するな」

「素直ではありませんね」

 やれやれとあからさまにため息をつかれ、サシャのこめかみに青筋が浮かび上がった。

 しかし実際、アレクサンダーの言う通り、自分たちは助けられたのだ。自分たちで何とか出来そうだったとはいえ、手を出した者勝ちだろう。

 悔しいが仕方ない。マリーは歯噛みしつつ、素早く頭を下げて「助かりました!」と吐き捨てるように感謝を述べた。すぐさま元の姿勢に戻ると、サシャは口をあんぐりと開け、アレクサンダーは呆気にとられたように目を丸くし、やがて笑い出した。

「団長さんと違って潔い子ですねえ! この壁を作ったのもあなたでしょう、土精士ノームマリー・ヘルト。どうです、我が団に来れば今よりも成長出来て、活躍も期待されますよ」

「勧誘ありがとう。お断りだわ」

 ふん、と鼻息荒く睨みつけると、最初から期待していなかっただろうに、彼は「残念です」と肩をがっくりと落としてみせた。

 アレクサンダーが杖を振る。瑠璃色に輝いた石から、煌めく水の帯が伸びてきた。鞭のようにしなりながら、水はサシャが縛り上げた魔獣を包み込んだ。ぎょっとする間もなく、水は魔獣ごとぷかりと浮き上がり、アレクサンダーの傍らまで移動する。

「てめえ、何しやがる!」

「浄化だけするつもり……?」

「いえ? 回収しただけです。この魔獣、元は我々の団で飼っていた熊なんですよ」

 ほら、と彼は杖で魔獣の首元を示す。剛毛に埋もれて分かりにくいが、よく見ると首輪のような厳つい鎖が窺えた。

「……てめえ、まさか」

「我々も驚きました。大切に育てていた熊が急に魔獣と化して、しかも逃げ出してしまうなんて。向かった先には未来の拠点がありましたし、潰されては困りますから。元々近いうちに〈獅子〉には尋ねる予定でしたから、魔獣探しもしていたわけです。あなた達のおかげで、どうにか回収できましたよ」

 芝居がかったセリフに、さすがのマリーも感づいた。

 ――こいつ、意図的に魔獣をけしかけたんじゃないの?

〈獅子〉の全員が拠点にいない隙を見計らい、無理やり乗っ取ろうとしたのではないか。もしくは凶暴な魔獣にマリーたちが負傷、最悪の場合は死亡することを狙い、空き物件となった拠点を乗っ取ろうとしたのではないか。

 考えを巡らせている間にも、サシャは激しくアレクサンダーを問い詰める。だが彼はのらりくらりと躱し、「無事でよかったですね」と心にも無さそうなことを言ってのけていた。

「さて。こんな場所で申し訳ありませんが、拠点を頂けませんか? ああ、行き先をお悩みですか。〈烏〉が嫌だというのなら、別のどこかを斡旋しましょう」

「何度言われてもお断りだ、馬鹿野郎。第一、どうしてそこまでペルレにこだわる」

 以前アルベールに「どうして聞かなかったの」と咎められたのを、ちゃんと覚えていたようだ。

 だが、アレクサンダーの答えは到底納得できるものではなかった。

「言う必要性を感じませんね」

「はあ?」

 マリーとサシャが同時に声を上げて抗議したが、彼は同じ文言を繰り返す。

「理由はどうあれ、我々はあそこを求めています。そして、もう一つ……」

 不意にアレクサンダーの視線がマリーを掠めた。ほんの一瞬だけだったのに、彼の目に憎悪の炎が灯っているのがありありと分かるほど、彼の眼は昏かった。輝く星を全て飲み込み、消し去ってしまいそうな深い闇に似ている。

 なぜ睨まれたのか分からず問い詰めようとしたが、瞬きの合間に瞳の昏さは消え去っていた。

「さて、試験に向けて団員の鍛錬もしなければなりませんし、僕はそろそろ帰ります。魔獣の捕獲、感謝していますよ」

「てめえ……」

 まだまだ文句を言い足りないのだろう。歯噛みするサシャの隣で、マリーは「試験……」と呟いた。

 二週間後に行われる精霊士昇格試験は多くの精霊士が挑む。大規模な団となれば見習い精霊士の数も多いようで、アレクサンダーは直々に彼らを指導しているらしい。彼が率いる精鋭たちなのだ。同じ見習いと言っても、マリーとは格が数段も違うのかも知れない。

 と、頭では理解していたのだが。

「ちょっと待ちなさい」

 身を翻し、魔獣を連れて帰ろうとしていたアレクサンダーを呼び止める。

 先ほどの視線の意図も知りたかったが、聞いたところではぐらかされるに決まっている。だから尋ねることはせず、マリーは一つ提案をした。

「私も試験に出るの。その時に〈烏〉の全員を越える成績を収めていたら、〈獅子〉を諦めなさい」

 サシャがぎょっとする気配を感じる。対してアレクサンダーは愉快そうに口の端を歪めていた。

「ほう、面白い提案ですね」

「〈烏〉が何人出るのか知らないけど、〈獅子〉からは私一人だけ。私があんたの可愛い団員たちを打ち負かしたら、私の実力と、私を指導した師匠とアルの腕が確かだって証明になるでしょ?」

 それと、とマリーは剣先で地面を小突くようにして叩いた。

 どん、と音を立て、マリーの傍らから巨大な手に見立てた土の柱が生まれる。手は土とは思えない素早さで動き、アレクサンダーから魔獣を奪い去った。

「いくらあなた達が飼っていた熊だったとしても、私たちが捕獲した以上、浄化まで責任をもって行うのが当然だわ。また逃がさないとも思えないし、この魔獣は〈獅子〉でしばらく預からせてもらう」

「……なるほど。いいでしょう」

 もう少しごねられるかと思ったのだが、意外にもアレクサンダーはすんなりと了承した。いや、よく見ると目元が引きつっている。マリーから強情さを感じ取ったようで、不服ではあるが仕方なく、と言ったところか。

「あなたが我が団員たちに勝利すれば、提案通り〈獅子〉を諦めましょう。では、その逆は? あなたが〈烏〉九十九人を負かしたとしても、残りの一人にでも負けたら?」

「望み通り、〈獅子〉を手に入れればいい」

「おい、何を勝手に言ってやがるマリー!」

「いいでしょう!」

 提案に乗った、とアレクサンダーが高らかに手を叩く。弧を描く唇からは「負けるわけがない」と自信が満ち溢れていた。

「では二週間後。今度は試験会場でお会いしましょう」

 アレクサンダーは嬉々とした笑みを浮かべ、今度こそ去っていった。壁の向こうに彼の姿が消えた後、「えっ、なんでここに君が」とアルベールの戸惑う声が聞こえる。近くまで来ていたのか。

 周囲を囲っていた土壁を元に戻すや否や、マリーはサシャに掴みかかられた。

「お前、なんて提案をしやがる! あんな大口叩いて負けたらどうするつもりだ!」

「す、すみません! でも思い付いちゃったんだから仕方ないじゃないですか!」

 拠点を寄越せと迫ってくるアレクサンダーを毎回怒鳴りかえし、一触即発の状況が生まれることに比べれば、平和的な解決策だろうと思う。しかし負ければ〈獅子〉は奪われるし、マリーは〈烏〉から試験に参加する団員全員に勝たなければならない。圧倒的にマリーが不利だ。

 胸倉を掴まれているせいで距離も取れず、目の前に今にも噛みついてきそうなサシャの顔が迫る。それを救ってくれたのは、ようやく合流できたアルベールだった。

「はいはい、そこまで。さっき〈烏〉の団長くんを見かけたし、彼がらみで何かあったんだろう? 魔獣捕獲も済んだみたいだし、詳しく聞かせてもらうよ」

 ところで、とアルベールはマリーとサシャを交互に見やり、心底不思議そうに首を傾げた。

「なんで二人とも、そんなに水浸しなの? 雨なんて降ってないよね?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る