第7話
翌日以降、魔獣の出現は減るどころか増える一方だった。
ウサギやネズミなどの小型、狐や犬といった中型の大きさが多く、また数も多い。今のところ大型の魔獣は見かけていないが、これから出て来ないとも限らない。マリーたちの警戒心は日に日に増していった。
またマリーは魔獣捕獲の他、昇格試験に向けての特訓もしなければならなかった。浄化を通して神力の調整を学び、剣の腕の上達も目指す。村人たちからの依頼にも応じなければならないし、文字通り休む間もなく動いた。
『二週間前に比べたら、だいぶ上達したと思うぞ』
「甘やかしてんじゃねえぞ。進歩はしてるが、赤ん坊が二、三歳になっただけなもんだ」
『例えがいまいちだよぅ、サシャ』
「あと赤ちゃんが三歳になるのって結構な成長だと思うんですけど!」
マリーは日光が遮られた薄暗い獣道を歩きながら、手元から褒められ、隣からはそれを否定されて一喜一憂していた。
〈獅子〉拠点の裏にある森の中。マリーは剣を、サシャは槍斧を持ち、どこかに潜んでいると思しき魔獣を捜していた。
今朝、隣町からペルレに向かっていた商人が、森の中で魔獣を見かけたという。動転して大きさや種類はよく覚えていないが、魔獣の特徴である黒い靄を纏っていたのは確からしい。訴えを聞き、マリーとサシャは東から、アルベールは西からの二手に分かれて魔獣の捜索を開始した。
「魔獣がいるのは確かだな、こりゃ」
普段は鳥や小動物の鳴き声が聞こえるのだが、不気味なほどに静まり返っている。彼らも魔獣を警戒し、息を殺しているのだろう。
『あれから、アレクサンダーだったか、来てないな』
「あっ、フランちょっと」
その話題は禁句なのに、と思った時には遅く、サシャは美しい顔を盛大に顰めていた。それでもなお美しいのだからずるい。
「来なくていい、あんな奴」
〈獅子〉乗っ取りを計画していると思しき彼は、初対面以来、姿を見せていない。もしかすると何か計画しているのかも知れず、サシャはそれを気にしてしばらく不機嫌な状態が続いていた。
「……もしもですけど、〈獅子〉が乗っ取られたら、どうなるんですか」
数日間、胸に燻っていた不安を吐露すると、「あり得ねえ」とぶっきら棒に返された。
「だから『もしも』って言ったじゃないですか」
「だから『あり得ねえ』って言っただろうが」
機嫌を損ねたのか、サシャはそれきり答えることなくすたすたと歩いて行ってしまった。いつもと変わらないスカート姿だというのに、こんな獣道を歩いて動きにくくないのだろうか。
数年前に、「どうしてスカートなんですか?」と聞いたことがある。走り回ったりするのだから、パンツの方が動きやすいのにと思ったのだ。サシャは真っ赤な唇を意地悪く歪めて、「スカートなんだから動きにくいだろって油断してる馬鹿をぶっ飛ばすのが楽しいんだよ」と答えたはずだ。
精霊士が相手にするのは大抵魔獣で、魔獣がスカートだからと油断するのか、と疑問を抱いたのは秘密だ。多分、しない。
『あいつが団長だっていう〈
結局、マリーの不安に答えたのはフランだった。
「えー。あんな人の下で団員するの嫌よ」
雰囲気が怪しくて、少し怖かったのをしっかり覚えている。
第一、サシャが作り上げた〈獅子〉を、そしてマリーの現在の居場所を奪おうとしている魂胆が気に食わない。会うなり水をぶっ掛けられたことも相まって、彼の印象は最悪だ。仮に団が吸収されたとしても、一日とかからず離反する自信がある。
こう言っては何だが、〈獅子)は歴史も浅く団員も三人だけ――過去に何人か入団はしたらしいが、サシャの気性に付いていけずに出て行ったという――で、数多くある精霊団の中では断トツで弱小の部類だ。古く大所帯の〈烏〉が本気になれば、一日とかからず壊滅して乗っ取られるだろう。
それをせず、あえて最初に話し合いをしに来たのは余裕な態度を見せつけるためか。
『敵にすると面倒くさくて嫌味な奴かもしれないが、自分の味方につけると心強かったりするんだろ、ああいうの』
「……フランはアレクサンダーの下についた方がいいって思ってるの?」
『まさか』フランはからからと笑って否定した。『仮にお前があいつの下に行きたいって言っても、全力で引き留めて考え直せっていうくらいには嫌いだ』
「おいマリー。こっち来い」
先を行っていたサシャが抑えた声で呼ぶ。彼女は乱立する木の陰に隠れ、何かを窺っていた。マリーは慌てて駆け寄り、それに倣った。
ぐちゃり、と濡れた音が聞こえた。
視線の先は少しだけ開けた場所になっており、その中心に黒い靄をまとった姿があった。
――見つけた。
ずんぐりとした体型と、丸太のような腕。陰に身を隠しながら前に回ると、ひたいから伸びる鋭い角が確認できた。丸みを帯びた耳には一瞬だけ可愛らしさを感じたが、獲物にかぶりつく牙の凶暴さに、マリーは息を飲んだ。
「熊……ですか?」
「ああ。けど、この森に熊なんざいなかったはずだが」
『別のところからここまで来たのか』
魔獣の手元には息絶え、腹を食い破られた女鹿がいた。先ほどから聞こえていた音は食事によって発されていたものだ。
『マリー、どうした?』
「え、ああ、うん……」
指摘されて初めて気が付いた。手が震えている。
七年前、マリーや両親を追い詰めた魔獣は熊だった。寸でのところでサシャが助けに来てくれたことと、彼女に抱いた憧れの印象が強すぎて忘れかけていたが、記憶の奥底に恐怖はこびり付いていたようだ。
あの爪で、牙で、巨体で襲い掛かられたら。マリーの体はいとも簡単に、食い散らかされた鹿と同じ末路を辿るに違いない。
――何を委縮しているの!
マリーは太ももを抓り、ぐっと歯を食いしばった。
七年前とは状況も、自分の強さも違う。
怖さはある。だが、それに立ち向かえるだけの技量は身に着けた。
「あいつはまだあたしたちに気付いてない。手っ取り早く済ませるぞ」
「はい。分かりまし……」
前方を窺ったマリーは目を大きく見開いた。
魔獣を、そして息絶えた女鹿を、じっと見つめる小鹿がいた。
恐らく女鹿の子どもだろう。森ではぐれ、ようやく見つけたと思ったら物言わぬ屍になっていた。しかも母の体は凶悪な爪と牙に引き裂かれ、血みどろになっている。
魔獣はゆったりと顔を上げた。二匹の視線が真っ向からかち合う。新たな獲物を見つけたとばかりに魔獣が低い唸り声をあげ――
「っ……!」
マリーは剣を振り上げた。どうっと音を立てて地面が盛り上がり、魔獣を取り囲む壁が出来上がった。
「おい、マリー!」
もうもうと舞い上がった土煙にむせていたサシャから厳しい声が飛んでくる。
「すみません、でも黙って見てられなくて!」
小鹿は驚いたように地面を蹴って去っていった。華奢で愛らしい姿が目の前で変貌する様を見ずに済み、マリーは少しだけほっとする。
安心するにはまだ早い。二人は急いで壁から距離を取った。こちらに気付いていなかった魔獣に存在を知らせてしまった上に、食事と狩りの邪魔をしたのだ。次の標的はマリーたちに変わっていることだろう。
「くそっ。しょうがねえ。さっさと仕留めるぞ!」
サシャの槍斧に赤々とした炎が灯る。それとほぼ同時に、魔獣の眼がこちらを捉えた。
「えっ、ちょっと待ってください師匠。こんな森の中で炎は……!」
マリーの制止も空しく、サシャが槍斧を振るった。穂先に纏わりついていた炎の塊は真っ直ぐに魔獣まで飛んでいき、巨体を包み込んだ。熱さに悶える魔獣が腕を振り乱すたび、周囲の木や草花に火種が燃え移る。
「あーもう……!」
このままでは辺りに燃え広がってしまう。魔獣もどこに逃げ出すか分からない。マリーは剣を地面に突き立て、これまでの修行――細々と神力を維持してきた――とは反対に、ありったけの神力をフランに注ぎ込んだ。
『そんな一気に俺に寄越して、枯渇しないのか!』
「分からない。けど、今はとにかく分厚くて、大きな壁を作って囲わないと!」
ばきっと破裂音がする。それに続いてめきめきと豪快な音を立てて地面が盛り上がり、マリーとサシャ、魔獣を囲う土壁が出来上がった。これまでにも何度か作ったことのある手慣れた技だが、ここまで大きいものは初めてかも知れない。
自分の手際に感心している場合ではなかった。サシャはすでに駆け出し、魔獣を仕留めんとしている。マリーは援護すべく、剣先で地面を引っかき、バラバラと土を舞い上げた。土の欠片はそのまま浮き続け、礫として固まり、剣を薙ぐのに合わせて魔獣に向かって飛んでいく。
神力を細かく使うことによって習得した新技だ。少ない神力でもそれなりの攻撃力を与える方法として、サシャの助言を受けながら何とか形に出来た唯一の技。
礫は真っ直ぐに飛んでいき、魔獣の顔面を集中的に攻撃した。魔獣は煩わしそうに顔を振り、腕を上げて顔を守る。だが絶え間なく注がれる礫の一つが目に直撃したようで、くぐもった声を上げた。
「よしっ、上手くいったわフラン!」
『……ああ、そりゃ良かったな……』
「なに? 不満でもあった?」
『いや、そうじゃなくて……今は俺よりも、魔獣を気にした方が……』
微妙に呻いているのが気になったが、彼の言う通りだ。恐らく神力の枯渇を気に掛けているだけだろうと勝手に結論付けた。
立ち上がって腕を振るう魔獣に対し、サシャは槍斧を握っているとは思えない軽快さで縦横無尽に駆けまわり翻弄する。ただ翻弄するだけでなく、ひたいの角を叩き折る機会を探っているのだろう。
魔獣の弱点は魔力吸収の器官である角だ。それを折ればひとまず魔力を求めようとしなくなり、動きが鈍くなる。その隙をついて気絶させ、動けないように縛るなりしてから拠点に戻り、浄化するのが常だ。誤っても殺してはならない。
マリーは礫を何十個か空中に浮かせたまま駆け出した。新たな獲物を見つけ、魔獣の眼がぎらりと輝く。潰れたのは右目だけだったようだ。
鋭い爪を備えた手がマリーに伸ばされる。身を低くし、地面を滑って攻撃を避け、背後を取った。勢いのまま、剣を薙いで後ろ足を切り付ける。が、思っていたよりも皮膚が分厚く、しかも黒い靄に邪魔をされた。決定的な一撃にはなっていない。
「だったら……!」
手段を変えるだけだ。マリーは柄を両手で支え、勢いよく突いた。ぞぶ、と皮膚と脂肪を断つ感覚が生々しく手に伝わってくる。しかし怯むことなく剣を押し進め、一息に引き抜いた。魔獣が轟音に似た悲鳴を上げる。
ぐらりと巨体が傾いだ。マリーは慌てて背後から逃げ、前方に回った。潰されては困る。
「よくやったマリー!」
サシャの手放しの賞賛が聞こえて顔を上げると、彼女は地面から高く跳び上がっていた。
魔獣はぐらつきながらも、目の前に現れた女を排除しようと腕を伸ばす。だが、そうはさせるか、とマリーは待機させていた礫を二つの大きな塊にまとめ、両腕にそれぞれぶつけて弾いてやった。無防備になったひたいの角がサシャの前に晒される。
にい、と艶やかな唇が弧を描いた。サシャが躊躇いなく槍斧を振るう。ばきん、と耳障りな音を立て、角が見事にへし折れた。
見惚れていてはいけない。マリーは剣先で地面を軽く叩いた。途端、ぼこっと音を立てて足元が柱のごとく盛り上がる。即座にその上から退くと、柱は魔獣の顎を直撃して止まった。
「やった……?」
『分からん』
マリーもサシャも動きを止め、魔獣の動向を見張る。やがて魔獣は、マリーの柱が効いたのか白目を剥き、かすかな呻き声を残して倒れ、気絶した。
「よし、完了」
疲れた様子もなく、サシャが槍斧を担いで魔獣に近づく。マリーも恐る恐る近づき、改めて大きさに唖然とした。七年前に屋敷で見たものより一回りくらい大きいのではないだろうか。
『それにしても凄かったよマリー! ボクびっくりしちゃった!』
槍斧の口金にはめ込まれた石がちかちかと光り、ルーカから絶賛が贈られてマリーは素直に照れた。
『神力の調節が格段に上手くなってるよ。あんなに大きい壁作ってから、こーんな小さい石の欠片操っちゃうんだもん』
「まあ確かに、あれは上出来だったな」
サシャが腰に巻いていた縄を解き、手際よく魔獣を縛り上げていく。手伝おうと脚を踏み出したマリーだったが、パチパチと弾ける音を聞き、ハッと顔を上げた。
「師匠! 消火! 消火しないと!」
「あ?」
魔獣捕獲に気を取られてすっかり忘れていた。サシャが放った炎を魔獣が振り払い、周辺の木や草花に燃え移ったのだった。
初めは指の先ほどの小さな火種だったものが、いつの間にか無事だった木々まで巻き込み、赤々と燃え盛っていた。マリーが念のため土壁で囲っていたから良かったものの、手を打っていなければ今頃もっと燃え広がっていたかもしれない。
「消火つったってなあ。あたしじゃあ消せねえし」
サシャが操れるのはあくまで「自分が直接生み出した炎」に限る。現在、木々を燃やしているそれは二次的なものであり、サシャの力は及ばないのだ。そのことを思い出し、マリーは頭を抱えた。
「放っとけば消えるだろ」
「消えると思いますか、あれが!」
仮に消えるとしても時間めちゃくちゃかかると思いますし、それより先に私たちが丸焦げ、もしくは煙に巻かれて息絶えると思うんですけど! マリーの訴えに、サシャは面倒くさそうに唇をへの字に曲げてから「それもそうか」と納得してくれた。
「しかし、消すったって、どうやって」
「私が土を蓋みたいにして被せれば、多分なんとか……」
そのために一度マリーたちは壁の中から出なければいけないのだが、必然的に壁に穴が出来る。その合間から飛び出した火の粉が無事な木に燃え移ったらと考えると恐ろしい。しかし、それ以外手段がないのも確かだった。森のどこかにいるであろうアルベールに助けを求めるという手もあったが、彼は
「私たちが通れる分だけ穴を開けますから、素早く出て……!」
マリーが剣を振ろうとした、その時だった。
ばしゃっ! と盛大な音を立て、大量の水が大地を濡らした。
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