第3話
精霊士というものを知ったのは、七年前の春、十歳の時だ。
いつもと同じように、ひどく退屈な礼儀作法や歴史の勉強をした後に、母と近くの町に出掛けたあの日。普段と違い、町から帰る途中に寄り道をしていたため、屋敷の門をくぐったのはすっかり夜になった頃だった。
待ちくたびれていた父に、道端で手折って作り上げた花束を差し出して謝った。それを花瓶に活けて、家族で食卓を囲もうとした時だった。
外で悲鳴が上がった。なにごとかと使用人が様子を見に行くと、不審者が突然屋敷に訪れ、居合わせたメイドたちを襲ったというのだ。しかも不審者と当時に、魔獣が何体も出てきた、と。
誰もが慌て、混乱した。使用人たちは魔獣からマリーたちを守ろうと奮闘してくれたが、何人かが凶刃にかかり命を落とした。屋敷から逃げようとした者もいたが、それを見透かしていたかのように、退路すべてに炎が放たれ、馬は殺されていた。
なぜ、どうして。それは今でも分からない。ただ、逃げ惑う中で誰かが聞いていた。
『狼を探し出せ』と。
その報告を受けた途端に父の顔が青ざめ、マリーは「このぬいぐるみのことかな?」と震えたのを覚えている。去年の誕生日プレゼントに、両親からからオオカミのぬいぐるみを貰ったのだ。マリーは自宅で過ごすとき、いつもそれを抱きかかえていた。
子どもっぽいと思ってはいたが、不思議と片時も手放したくなくなる、そんな魅力がぬいぐるみにはあった。
マリーが暮らしていた屋敷は付近の町から離れた森の中にある。どうにか助けを求めに逃げ出せたとしても、往復にかなりの時間がかかる。その間に皆が命を落とす可能性もあった。
マリーは両親と三人で父の部屋に身を潜めていたが、やがて魔獣に見つかった。黒い靄に包まれていて分かりにくいが熊らしい。恐ろしい体長と体格で、尖った爪からは血が滴っていた。しかもひたいには、本来ないはずの奇妙に捻じれた角が生えている。
部屋から出ようと思ったが、扉は熊に塞がれている。窓から飛び降りるのも危険すぎ、部屋の隅で身を固めるしか無い。ここまでか、と父が母を、母がマリーを、マリーがぬいぐるみを抱きしめた時だった。
『こんな真夜中に何事だってんだ』
爆発音がしたと思ったら、窓が外から吹き飛ばされていた。はっとして顔を上げると、今にも三人に襲い掛かろうとしていた熊が、体の左側に炎を浴び、ゆっくりと倒れていくのが見えた。
ぱりぱりとガラスを踏む音がする。恐る恐るそちらに目を向けると、息を飲むほどの美女が槍斧を片手に凄絶な笑みを浮かべていた。部屋は三階だというのに、どうやって上ってきたのだろう。
『よう、あんたがヘルト家当主か?』
『だ、だとしたらなんだ』
美女の問いに答えた父の声は、少しだけ震えている。
『そんな警戒すんなよ。あたしは精霊士のサシャだ』
『精霊士……!』
美女が名乗った途端、母が安堵の吐息を漏らした。今にも泣きそうな声で、助かった、とも言っていた。
『どういう訳か知らねえが、あんたの屋敷の周り魔獣だらけだぞ』
『なっ……』
『安心しな。ある程度は潰しといた。さすがに見過ごせる量じゃ……』
『サシャ! 一匹逃げた!』
窓の外から慌てた声が聞こえる。マリーの目に映ったのは、夜闇の中で翼を振るう、角の生えた鷹だった。傷を負っているのか、時おりふらりと不安定にバランスを崩す。
サシャの背に狙いを定めた鷹は、くちばしを大きく開けて鳴いた。鼓膜が破れそうなほどの大きさだった。マリーは耳を抑えて縮こまったが、目だけはサシャから離さなかった。
『仕留め損ねたか』
面倒くさそうに呟きながら、サシャが肩をすくめる。鷹はもう一度鳴くと、恐ろしい勢いで彼女に向かって突っ込んできた。
『あぶな――』
危ない、とマリーが叫ぶより早く、潰れたような悲鳴を残して鷹が床に転がった。死んではいないようで、瞳にはまだ爛々とした光が灯っている。
一体なにが起こったのか。両親はよく見ていなかったようだが、マリーはしっかりとそれを見ていた。
鷹の姿を見ることも無く、サシャが槍斧を振るったのだ。
その一瞬、槍斧が炎を帯びた。彼女は鷹の角を狂いなく叩き折り、炎に包まれた鷹は勢いを失くしたのだ。
『これで最後だな。あとは……』
ず、と。
床に伏していた熊がゆったりと起き上がった。炎はすでに消え、肉の焦げ臭いにおいがあたりに充満している。
サシャが床を蹴るとほぼ同時に、熊の左腕が前方に伸びる。爪で彼女をかき切ろうとしたようだ。だが、サシャは体を伏せてそれを交わし、槍斧を両手で握ると、下から上に薙いだ。
いつの間にか炎を帯びていた穂先は熊の腕を両断し、本体と切り離されたそれはごとりと音を立てて転がる。ぐおお、と雄叫びが部屋を震わせた。隙を与えることなく、サシャは跳び上がり、角を叩き折った。
くぐもった声を上げて熊の上体が傾いでいき、今度こそ動かなくなった。天井に当たって跳ね返った角が、マリーの目と鼻の先に転がり落ちる。鮮やかな手際に、マリーはほうっと吐息を漏らしていた。
『さすがにあたしとアルだけじゃ運べねえな、この量は。どうすっか……』
『あ、あの!』
マリーは母の腕からするりとすり抜け、サシャに駆け寄った。彼女は「なんだこのガキ」と言いたげに眉をはね上げたが、それに気付かないふりをしながらマリーは声を張り上げた。
『私を、弟子にしてください!』
『……はあ?』
翌朝、朝日に照らされた屋敷の有り様はひどいものだった。壁は焦げて崩れ、窓はほぼすべて割られているし、扉も蝶番が外れて歪んだままぎしりと音を立てて揺れている。汚れ一つなく美しい外観を誇っていた屋敷は、見るも無残に半壊していた。
雲一つない青空が、かえって屋敷の悲惨さを際立たせる。庭には犠牲者が並べられ、ある者は言葉を失くして立ち尽くし、ある者は膝から崩れ落ちて涙を流し、ある者は物言わぬ体に縋りついて絶叫していた。
犠牲者の中にはマリーの愚痴をよく聞いてくれたメイドの姿もあった。顔に目立った傷がないだけに、今にも起きて笑ってくれそうなのが辛かった。
『魔獣がこんな場所で大量発生するなんざ考えにくい。ああいうのは大抵人が多い場所に集中するからな。で、あたしが思うに、あんたらヘルト家は誰かに狙われてる』
全員が死者に別れを告げて落ち着いた頃、サシャが予想を語る。彼女は別の地で魔獣を捕獲して、宿がある町に行く途中で騒ぎに気付いて駆けつけてくれたと後で知った。
『あたしが来たときにその不審者とやらはいなかったが、放った魔獣が戻ってこないと気付いたらすぐにここに来ると思う。一応全員死んだように偽装はしておくけど、生き残ってると知られたら危険だな』
『で、ではどうすれば』
『死んだことにする以上、もうここにはいられねえし身分も名前も偽った方が良い。安心しな。手を突っ込んだ以上、あたしが安全な場所を確保してやる』
結果、父はサシャの提案に乗った。安全な場所とやらは屋敷よりも格段に狭いから、使用人は必要最低限しか連れて行けないと言われた。
そして、
『ガキ……じゃない、お嬢ちゃん。本気であたしの、精霊士の弟子になりたいってのか』
『もちろん!』だって、とマリーは振り返った。『精霊さんもいるし!』
自分の後ろにいるのは、状況を説明してくれと言いたげな青年だ。癖のある黒髪の下で、緋色の瞳がマリーを見下ろしている。
一見すれば普通の人間だが、明らかに違う点があった。地面から浮いている上に、体が全体的に透けているのだ。昨晩どこからともなく現れた彼を見て、サシャが『なんだ、野良精霊か』と言っていたのを、マリーはちゃっかり耳にしていた。
『精霊士は精霊と契約した人がなれるんでしょう? なら、私がこの精霊さんと契約したら、なれるんだよね!』
『……まあ、昨日そう教えたけどな……精霊が見えてる以上は素質もあるわけだし』
『だけどお嬢さん。精霊士っていうのは危険を伴う時もあって』と、サシャの隣に立っていた褐色の肌の男がマリーと同じ目線に屈んで微笑んだ。確かアルベールと呼ばれていたはずだ。
『怪我だってするし、最悪の場合は死んじゃうこともある』
『でもお姉さんもお兄さんも、怪我なんてしてないじゃない』
『サシャも俺も――自分で言うのも恥ずかしいけど――強いからね。そう簡単に怪我なんてしないよ。だけど君は、まだ幼いし、ましてや貴族の娘だ。武器なんて握ったこと、ないだろう? ただ不思議な力を使ってみたいっていうだけなら、』
『誰だって最初はそうじゃない! お姉さんたちだってそうでしょ? 最初は強くなかったでしょ? だったら私も、これから強くなればいいんだもの! それに、魔法を使ってみたいってだけで言ってるんじゃないわ!』
無理を言って困らせているという自覚はあった。けれどマリーは折れたくなかった。マリーに圧倒的な憧れを抱かせるほど、サシャの動作は麗しく鮮烈で、惹きつけられるものがあった。
自分もああなりたいと――ああならなければと、本気で感じたのだ。
アルベールがマリーの両親を見るが、二人は揃って首を横に振る。言い出したら聞かないことは両親が一番よく知っている。もちろん朝を迎えるまでに何度も「馬鹿なことを言うんじゃない」「お前は私たちの宝なんだぞ」と説得はされたが、マリーはそれを突っぱね続けた。最終的に、母が「まあ、この子には……がいますし……」と父に何やら訴え、両親は渋々、精霊士になることを許可してくれた。
しかしサシャもアルベールも、どうするべきかまだ悩んでいるようだった。
――だったら。
『……ねえ、精霊さん』
『えっ、あ。なんだ』
マリーは青年を見上げ、問いかけた。『契約って、どうすれば契約になるの?』
『あ、ああ。俺に名前をくれたら、それが契約になるらし……』
『分かった!』
マリーは勢い良くうなずくと青年の手を取った。透けているのに、不思議と握っている感触はある。
『フラン。あなたの名前は今日からフランだわ!』
風が耳元を
ゆっくりと指を開けると、透明な石がマリーの小さな手に収まっている。それは次第に橙色に輝き、石の中心から伸びた光の帯が、マリーの前で渦を巻いた。渦が解けた時、驚いた顔でマリーを見下ろしていたのは、姿を消したはずのフランだった。
先ほどと違うのは、体のどこも透けていない、ということだ。
マリーは満面の笑みを浮かべ、フランに抱き付こうとし――さすがにはしたないと直前で気が付いて、再び彼の手を取ってサシャを見上げた。
『これで私も精霊士になれたわ。あとはあなたの弟子にしてもらうだけ!』
『……だ、そうだけど』
どうするサシャ、と訊ねられ、彼女はしばらく悩んだ末に、『お嬢ちゃんが握ってるそれは
『精霊士はそれを自分の武器にはめ込んで、戦う時はその中にいる精霊から力を貸してもらう。さっきの色からして、フラン、お前は土属性だな』
『サシャ、もしかして』
『こうなっちまった以上、仕方ないだろ。仮に断っても、どこまでもひっついてきそうだしな、こいつ』
彼女の手がマリーの頭を不器用に撫でる。たおやかそうに見えて、重い槍斧を振るっているためにごつごつとしていた。
『当主。あんたの娘、あたしが責任をもって面倒見て育て上げてやる』
『……ああ、よろしく頼む』
その日、半ば無茶苦茶な手段で、ついでに両親の苦笑いに見守られながら、マリーは見習い精霊士となったのだ。
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