第2話
大陸一の領土を誇るシュトラーセ王国の中で、ペルレという村は別名「秘された村」と呼ばれるほど、小ぢんまりとしていた。伝説の英雄の遺骨が納められた教会付近の中央広場こそ開けているものの、家々は盆地の斜面に沿うように隙間なく並んでいる。また周囲の森は鬱蒼と生い茂っており、より村の存在を隠していた。
昔こそ英雄に祈りを捧げる場所としてそれなりに栄えたらしいが、今では利便性も活気もある都市部に若年層が流れつつある。人口四百人に満たない村人たちは、牛や馬を飼い、あるいは畑を耕し、細々と健気に生活を守っていた。
そんな村を自室から青磁色の瞳で眺めながら、マリーは大きく息を吸い込んだ。朝の澄んだ空気で胸が満たされ、清々しい気分になる。そのまま視線を下ろすと、クロッカスが日差しの中で揺られていた。白や紫のそれを見ると、温かな春がやってきたのだと嬉しくなる。
ゆっくりしている暇はない。マリーは窓を開け放ち、肩口で切りそろえた髪を頭の横で一つにくくった。風に煽られ、後ろだけひざ丈の長さまで改造を施した真っ白な
臙脂色のショートパンツの上に帯剣用のベルトを通し、膝上まで覆う編み上げのブーツにゆるみが無いか確認してから、マリーは剣を引き抜いて掲げた。白銀の剣身が自信と活気に満ち溢れた笑顔を映し出す。
――不可視の
言葉に出さず強く思うと、鍔に埋め込まれていた丸く透明な石が橙色の眩い光を放った。光は石の中でしばらく渦を巻いていたが、やがて星が散るような儚さで収まった。それを確認した、次の瞬間。
「せ――――のっ!」
マリーは躊躇うことなく窓から飛び降りた。
自室は三階だ。地面まで七メートルほど高さがある。運が悪ければ死ぬし、良くとも重傷を負う危険性はある高さだ。
鍔の石が再び輝く。直後、ぼご、と音を立てて地面が盛り上がり、まだ空中にあった体を受け止めた。マリーは無駄のない動作で着地し、
「師匠たちは?」
『村の東、民家の屋根だな。魔獣は五体』
問いに、手元からしっとりと深みのある声が返る。了解、と短く答えたマリーは勢いよく駆け出した。
声の言う通り、村東部の民家の屋根に二つの人影が見えた。屋根から屋根へと飛ぶように移動する二人は、黒い靄を纏ったなにかを追っている。
「普通に走ってるんじゃ遅くなっちゃうわね」
どうしたものかと悩んだのはごくわずかな時間だった。迷いなく剣を振り上げると地面が盛り上がり、剣先を前方に振るえばマリーの体を支えて勝手に動き始めた。走るよりも遥かに速く、しかも脚が疲れることも無い。手元から聞こえたため息には気付かないふりをした。
足元が土を踏み固めただけの道から、様々な大きさの石を敷き詰め整備されたそれに変わっていく。マリーは村には入る寸前で土から飛び降りた。さすがに村中でも同じ方法で移動すると、石がぼろぼろと崩れて直すのが面倒くさい。
普段なら乳売りやパン屋が商売をしている時間なのにその姿がないのは、家の中に避難していろと指示が出されているからだ。
間もなく例の民家が見えた。
「遅れてすみません! ただいま到着しました、マリーです!」
そう報告しようとしたマリーだったが、それを遮るように屋根から何かが飛び出し、こちらに向かって落下してきた。空中でじたばたと暴れる全身は黒い靄に覆われて不気味だが、どうやら大きさと耳の形から考えてウサギらしい。
ただ、普通のウサギと異なるのは、ひたいから湾曲した鋭い角が生えている点だ。
マリーは剣を構え、角に狙いを定めた。
短く息を吐き、剣を振りぬく。手ごたえがあった。
ぎゃっと小さな悲鳴のあとに、からん、と軽い音が響いた。マリーの足元に、根元から斬られた角が転がっていた。
「ああ、マリー! 遅かったね!」屋根の上からひょこりと顔が覗き、「それが最後の一体だよ。手際が良くなったね!」
人影は屋根から飛び降りる。着地に合わせて体に風を纏い、落下の衝撃を緩めて現れたのは、朗らかな笑顔がよく似合う褐色の肌の男だった。
名をアルベールと言い、十七歳のマリーより十歳年上の剣の師匠である。夜のように黒い髪は光を浴びて柔らかく艶めき、薄い唇はいつもと変わらない慈愛の笑みの形に整っている。細そうに見えて意外と筋肉がついたしなやかな体は白い民族衣装に覆われ、胸元には緑色をしたアネモネのバッジが輝いていた。
マリーは頭一つ半高い彼を見上げた。凛々しい
「弱点を正確に見抜くのはいいけど、こっちを疎かにする癖はまだ抜けないね」
「あっ」
そこには黒い靄に包まれたままのウサギがいた。ひゅるひゅると音を立てる風によって宙に浮き、気を失ってぐったりとしている。
「地面に叩きつけられたら死んじゃうだろ? そうするとどうなるか、分かるよね」
「す、すみません」
「まだまだ半人前ってことだ」
頭上から別の声が振ってくる。夜明けを告げる小鳥が囀るような女性的な声に反し、口調はぞんざいだ。
「マリー、土」
「えー、ここで使うとあとで石を直すのが面倒……」
「立派に口答えか?」
「いいえっ、そんなつもりは!」
マリーは慌てて剣先を軽く振るう。ぼこっと地面が柱のように盛り上がり、屋根と同じ高さまで昇っていく。そこにいた人物が乗ったのを確認すると、土の柱はするすると降下してきた。焦るあまり予想以上に太い柱を出してしまった。あたりに転々と散らばる石の多さに何とも言えない声が漏れた。
ひらりとマリーの前に飛び降りたのは、金糸のごとき長髪が麗しい美女だ。色とりどりの糸で花の刺繍が施された白いブラウスと胸元で輝く紅色のアネモネのバッジ、真っ赤なボディス、それと同色の膝下丈のスカートは瀟洒な印象を与える。頬は咲き初めた白百合のように汚れなく、紅を刷かなくとも薔薇のように赤い唇は、今にも甘い言葉を囁きそうだ。
が、不機嫌そうな茜色の瞳と、肩に担いだ
美女が左手を高く上げる。そのまま振り下ろされた手は、マリーのひたいに直撃した。
「痛いっ!」
「うるせえ! 一番下っ端のお前が遅刻とはどういう訳だ!」
「だからすみませんって謝ったじゃないですかぁ!」
「ああ、アルにはな! あたしはそんなの聞いてねえ! しかも見えてたぞ、移動方法! 自分の脚で走れ!」
「だってああした方が早く到着できるんですもん!」
「とりあえず落ち着きなよ。サシャも、マリーも」
アルベールに制され、サシャと呼ばれた美女は「ふん」ともう一発マリーのひたいを指先で弾いた。先ほどより威力は落ちているものの、それでも十分痛い。
「遅刻の罰だ。依頼完了報告はお前が行ってこい」
「村長さんのところですか?」
「そうだ。あたしとアルはお前が帰ってくるまでに四匹だけ処理しとく」
言いながら、サシャは背中を親指で示した。背負われていた網には、マリーが仕留めたのと同じウサギが四体、丁寧に詰め込まれている。口の部分を広げると、アルベールが残りの一匹を突っ込んだ。
「さて」
網を背負い直し、サシャは槍斧の柄で地面を軽く叩いた。すると穂先が赤く光り、ぽんぽん、と軽快な音を立てて光の球が打ちあがった。避難解除の合図だ。自宅で騒動が治まるのを待っていた村民たちが、安堵の表情を浮かべて続々と外に出てくる。
「じゃあ、あとはよろしくね、マリー」
サシャとアルベールを見送り、二人の背中が見えなくなったところでマリーはため息をついた。手刀をまともに受けたひたいがまだ痛い。
『怪我はないな』
ほっとしたような声が手元から聞こえる。視線を落とすと、鍔の石が煌々と光っていた。
やがて石から光の帯が伸びてくる。それはマリーの隣でしゅるりと渦を巻き、泡がはじけたような音を立てたかと思うと、癖のある黒髪の青年が出現していた。胸元をくつろげた生成りのシャツとサスペンダー付きの黒い長ズボンは、よく見かける農夫の格好だ。上には紺色のジャケットを羽織っているが、所々が擦り切れてしまっている。
「赤くなってる、大丈夫か?」
青年は緋色の瞳に心配を浮かべ、マリーを気遣ってくれる。肩をすくめて「気にしないで」と答えると、冷たい手で頬を柔らかく引っ張られた。
「そう言う割には涙目だぞ」
「言わないでよ、フランの意地悪!」
くすくすと笑われた仕返しに肘で小突くと、青年――フランは「ごめんごめん」と、たいして悪びれた様子もなく謝ってくる。
「村長さんのところ行かなきゃ。あっちだったっけ?」
「その前に、あれ直さなくていいのか」
意気揚々と歩き出したかったのに肩を掴んで引き留められた。振り返ると、フランが崩れた石を指差している。自分のやること、やったことには責任を持つ。マリーは親元から離れた時に誓った文言を思い出して苦い気分になった。
「俺も手伝ってやるから」
「本当? 助かる!」
憂鬱な面持ちから一転、マリーは向日葵さながらの笑みを浮かべた。
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