第二話
翌日の午後、マレリィの居室を訪れた王太子は、室外へ出たがらない彼女を、
連れて行かれたのは、謁見の間の控室だ。
王太子は謁見の間に繋がる扉を薄く開き、マレリィを誘う。
連れて来られた理由も分からないままに、マレリィは扉の側に寄った。
隙間から見た広間には、この王城で働く侍従や侍女達の殆どが集められていた。
よく見れば、給仕や下働きの者も後ろに多くいる。
上段には、白いドレスを着たエレイシアが一人立ち、彼等に向かって何かを語りかけていた。
「ザクバラ国を
エレイシアの口から出た言葉が耳を打ち、マレリィは息を呑んだ。
無意識に肩掛けをギュウと握る。
「隣国ザクバラとは長年の因縁があり、誰もがそれぞれに、あの国に思うところがあるでしょう」
続く言葉に、マレリィが目を閉じて
休戦になったからといって、両国の間にあるわだかまりや嫌悪の念が消えるものではない。
「しかし、マレリィ妃は、“ザクバラ国”ではありません」
マレリィは
エレイシアは、くっと顎を上げた。
「彼女は確かにザクバラ国で生まれ育った者ですが、彼女自身が“ザクバラ国”ではありません。貴方がたには、それをよく理解して欲しいのです」
エレイシアはゆっくりと、謁見の間に集う様々な役職の者達を見た。
「
エレイシアの言葉に、この場の者達は息を呑む。
王族の、しかも次代の王妃であるエレイシアが、黙って従うべき立場の者に乞うている。
「それが、自分自身の、ひいてはネイクーン王国の未来を変えるものだと、私は信じます」
演説を締め括り、
「エレイシアは昨日、
後宮と王城に勤める者達を管理する長は、王妃だ。
「…………なぜですか?」
いつの間にか顔を上げて、扉の向こうを凝視していたいたマレリィが、細い声で尋ねた。
次代の王妃だとはいえ、若年のエレイシアが、単独で王城に勤める者達に突然意識改革を促すなど、下手をすれば多くの者の反感を買うことにもなる。
見えないところでの彼等の繋がりは強い。
王太子が隣に立ち、そっとマレリィの背を
「そなたが真にネイクーン王家の一員なのだと、周知したかったのだ。……エレイシアは、そなたを“真の家族”だと思っているのだな」
王太子を見上げた、彼女の漆黒の瞳がゆるゆると潤んだ。
「まあ、マレリィ!」
控えの間に戻って来たエレイシアが、マレリィに気付いて駆け寄る。
「今日は体調は良いの?」
すぐに体調を気遣うエレイシアを前にして、マレリィの瞳から涙が零れ落ちた。
「王太子様、ひどいではありませんか。内緒にして欲しいとお願いしたのに。……ああ、泣かないで、マレリィ」
寄り添う二人の女性を前に、王太子は微笑んで大きく肩を竦めた。
内庭園に下りて、二人は長椅子に腰掛けていた。
暫く泣き続けていたマレリィは、ようやく止まった涙の跡を、侍女から渡された冷えた布で押さえる。
たくさん流した涙と共に、最近の苦しかった胸のつかえも流れたように、呼吸が楽に思えた。
「すっきりしたかしら?」
隣に座るエレイシアが、柔らかく笑んで顔を覗くので、マレリィはようやく口を開いた。
「……ありがとうございます、エレイシア様。私の為に、あのようなことまで……」
有り難い気持ちと共に、申し訳ない気持ちも湧いた。
しかし、エレイシアは僅かに困ったような顔で首を振る。
「貴女の為だけではないわ。ええ、むしろ、自分の為にしたことなの」
「ご自分の為に?」
「そうよ。私は王妃となることを、随分前に覚悟していたつもりだったわ。でも、王妃として如何なるものを目指すのか、それは定まっていなかった。……マレリィは覚えていている? 皇国に留学していた頃、貴女は私に、涙ながらに胸の内を明かしてくれたわね……」
フルブレスカ魔法皇国の従属国は、成人前の四年間、王族や高位貴族の子息子女の留学が義務付けられている。
マレリィとエレイシアは、同学年の同班で学んだ。
敵国として刷り込まれた
しかし、共に過ごせば過ごすほど、彼女の人柄にマレリィは惹かれ、そして混乱した。
ネイクーン王国という国が、本当に祖国で教えられた通りの凶悪な国であるのか、分からなくなったのだ。
ある時、マレリィは堪らずに心の内を吐き出した。
『
エレイシアは微笑んで、マレリィの両手を己の両手で包む。
「中央で純粋にザクバラ国の教育を受けてきたはずの貴女が、私達と出会ってその信念に疑問を持った。……私はね、あの時、ネイクーン王国の王妃となる己が目指すべきものを教えられた気がしたの」
王太子に添い、ネイクーン王国を導く。
その導く先はどのようなものだろう。
漠然としていたものを、マレリィは教えてくれた。
「決して消すことが出来ないと思える遺恨も、人と人の努力で、僅かにでもその形を変えていけるかもしれない……。私は、王太子様と共に、ザクバラ国との関係改善を目指したい、そう思っているの」
マレリィは目を見開いた。
思わず小さく呟く。
「……簡単なことではありません」
しかし、エレイシアは笑みを深めた。
「ええ、そうね。でも、それだからといって諦める必要があるかしら? 勿論、王太子様の代で大きく変わるものでもないかもしれない。それでも、そういう大望を芯にして国を導くことが、私達の目指す先へ繋がると信じたいの」
エレイシアの美しい笑みに、マレリィは言葉を失くしてただその顔を見つめる。
『両国に争わない未来はないのか』
それはマレリィとエレイシア、そして王太子が、皇国で両国の過去を洗い出し、未来を模索していた時に思い続けていたことだ。
しかし、成人して祖国に戻れば、とてつもなく遠く儚い夢だと思えたもの。
エレイシアは顔を上げ、周囲に咲く花々を眺める。
「ねえ、マレリィ。私はこの庭園の花のようになりたいの」
つられてマレリィもその視線を辿る。
長椅子の周りには、白い大輪の花が咲き誇り、甘く温かでいて、力強い香りが漂う。
風の季節だというのに、まるで温室のように、ここだけ温かいような心地だった。
「この花々は、見頃を過ぎれば枯れて落ちる。だからといって、精一杯今を咲き誇ることをやめたりはしないわ」
エレイシアは立ち上がり、垣根に近付くと白い花弁を指で撫でた。
「私も、ネイクーン王国の一輪の花で在りたい。いつか役目を終えて枯れゆくまで、この時代に精一杯力を尽くしたいの。そして誇らしく、次の花に場を託す。そういう者で在りたい。そういう生涯を生きたいわ」
エレイシアは振り返り、マレリィに向き直る。
「マレリィ、貴女は私の大切な人よ。だからどうか、“ザクバラ国の人間”ではなく、マレリィという一人の人間として、これからも私の側にいてちょうだい。……政略婚で仕方なく
お願い、とエレイシアが握った手を、その日マレリィは、初めて両手で握り返した。
謁見の間で力強く語りかけ、今ここで大望を宣言した彼女の手が、細かく震える程に、緊張で冷たかったからだ。
彼女を側で支える一人で在りたい。
マレリィはその時、初めて強く願った。
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