庭園の花
幸まる
第一話
※ 本作は『第二王子と水の精霊』の番外編です。
重要なネタバレは含みませんが、本編の『ザクバラ国の子』まで読了後に読んで頂けると、分かり易いかと思います。
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「ご懐妊でございます」
薬師の喜色が滲んだ言葉が響く。
側についていた侍女の、ほっと緩んだような吐息とは反対に、マレリィの視界は徐々に
隣国、ザクバラ国より、このネイクーン王国へマレリィが越してきたのは、昨年の土の季節の半ば頃、18歳になる直前だった。
長く続く両国の争いの、休戦協定の条件の一つとして決まった政略婚だった。
ネイクーン王国の王太子の側妃となる為、マレリィはネイクーン王城へ入り、婚約期間の妃教育を経て、光の季節の終わりに結婚式を挙げた。
それから約半年経った今日。
風の季節の初日。
王族の誕生日には誕生を祝う催事が行われるが、敵国から嫁して、まだ一年足らずのマレリィを同様に祝うことは、貴族院の多くが反対した。
マレリィも盛大な催しを望んでおらず、夕方から宴だけが開かれた今日、宴の途中で気分を悪くした彼女を診察した薬師が下した診断が、懐妊であった。
「おめでとう、マレリィ!」
突然掛けられた声に、マレリィは我に返った。
柔らかな白い手が、寝台の縁に腰掛けたマレリィの両手を包む。
いつの間に側に来たのか、蜂蜜色の長い髪をふわふわと揺らして、王太子の正妃であるエレイシアが隣に腰掛けていた。
宴を抜けて来たそのままのようで、甘やかな浅紅色のドレスは、彼女をより華やかに彩っている。
「体調はどう? すぐに横になった方が良いかしら?」
白い頬は喜びに上気しているが、温かな濃い蜂蜜色の瞳は心配気な色をしている。
マレリィは、エレイシアの視線から逃げるように顔を伏せた。
「申し訳ありません、エレイシア様……」
絞り出した声は小さい。
「何を謝るの。顔を上げてちょうだい」
エレイシアは、マレリィの肩をそっと押し、ようやく見える程度まで上がった顔を覗き込んだ。
「マレリィ、お願い。顔を上げて?」
覗き込む表情は、困ったような笑顔だ。
その柔らかな笑顔と
二人は皇立学園の同級生であり、無二の友であった。
「初めての王太子様の子よ。喜ばしいことだわ」
エレイシアは再びマレリィの手を握る。
『初めての子』
その言葉は更にマレリィの胸を
こんな事になろうとは。
確かに、王太子の側妃となったからには、後継を望まれるのも自然のことなのかもしれない。
しかし、自分はただの側妃ではなく、政略婚で迎えられた、ネイクーン王国からすれば敵国の人間。
おそらく形だけの側妃となるのだろうと覚悟していたのに、婚姻が成立した日の夜、王太子はマレリィを抱いた。
正妃であるエレイシアは当然のようにその事実を受け入れ、以後もマレリィをまるで姉妹のように扱ってくれる。
マレリィは戸惑いながらも、少しずつその現状を受け入れ始めていた。
敵国の人間だと険しい視線を向ける者も確かにいるが、ネイクーン王国は祖国と違って流れる空気が穏やかだ。
もしかしたら、
そんなことすら考え始めていた矢先の懐妊だった。
こんなことを、誰が望んだだろう。
王太子の子は、正妃であるエレイシアが授かるべきだったのに。
マレリィは、優しく温かなエレイシアの手を、握り返すことが出来なかった。
翌朝の大食堂では、王と王妃が揃ってマレリィの懐妊に祝辞を述べた。
彼等も正妃エレイシアの第一子妊娠を期待していたはずだが、マレリィは正式な側妃。
紛れもなく王太子の嫡出子であるし、ザクバラ国とのさらなる関係改善の為に、喜ばしいことでもあったのだろう。
「実際、陛下も王妃様も胸を撫で下ろしているはずよ。もしかしたら、王太子様もね」
居室でお茶を飲みながら、前に座るマレリィに向かって、エレイシアはいたずらっぽく微笑む。
「王太子妃が懐妊しないのは、まさか
「エレイシア様」
あけすけな物言いに、マレリィの侍女頭が軽く
彼女は元々
「ふふふ。あら、本当のことよ。後継についての悩みがひとつ消えたのだから、良かったのよ」
エレイシアは、ほうと息を吐いて、再びお茶を飲んだ。
王太子とエレイシアは、マレリィよりも一年早く婚姻を成している。
それこそ、婚約期間に子が出来ないかと、周りが要らぬ心配をする程に仲睦まじかった二人だ。
婚姻後、毎月吉日を指定されて共寝をしているにも関わらず、一向に子ができないことを、王を始めとする多くの者が案じていた。
マレリィは膝の上の両手をキツく組んだ。
エレイシアはあのように言うが、王達の悩みは、別のところに焦点が合わないだろうか。
マレリィが懐妊すれば、逆に王太子と王太子妃の間に子が出来ない理由が、エレイシアにあるのだと邪推する者が現れないとも限らない。
それは、マレリィにとって、とても怖ろしい想像だった。
王太子とエレイシアの関係性が、自分のせいで変わってしまうことだけは、絶対に避けなければならない。
二人はマレリィにとって、掛け替えのない、誰よりも大切な人なのだ
その日から、マレリィは部屋で塞ぐことが増えた。
エレイシアはマレリィの居室を毎日訪ね、体調を気遣いながら庭園散策やお茶に誘うが、侍女頭越しに断られることが多くなった。
マレリィの
エレイシアはマレリィの心配をしながら、廊下からテラスに出た。
下の内庭園から、甘く柔らかな香りが上がってくる。
ほうとひとつ溜め息を落とすと、側に控えた侍女が堪らず口を開いた。
「エレイシア様がそのようにお心を砕かずともよろしいのでは?」
エレイシアが顔を上げると、眉根を寄せた侍女が続ける。
「そもそもマレリィ妃は、ザクバラのお方です」
エレイシアは、思わず小さくパクと口を開いてしまった。
胸の内で勢いよく渦を巻き始めた感情に、一瞬引き摺られそうになる。
「またマレリィのところへ行っていたのか?」
突然掛けられた声に、我に返り振り向くと、王太子がテラスに出て来るところだった。
明るい銅色の髪は、陽光を弾くと金にも見える。
騎士のような引き締まった体格は、室内で行う執務よりも、剣を握る方が向いていると公言するだけのことはあった。
「王太子様」
「そなたは最近マレリィのことばかりだな」
王太子が
最近のエレイシアは、王太子と会うよりもマレリィの様子を見に行く回数の方がはるかに多い。
「……でも、今は気分が悪く、横になっているようで……」
「会えなかったか」
コクリと頷いたエレイシアの表情が曇っているのを見て、王太子は気遣うように細い肩に手を置いた。
同時に片手を上げて、人を下げる。
「私も昨夜会いに行ったが、随分と塞いでいた。……エレイシア、暫くマレリィはそっとしておいてやった方が良いのではないか?」
「そっと…、とは?」
「少し距離を置き、形だけの側妃としてやった方が、楽なのではないだろうか」
エレイシアはギュッと眉根を寄せた。
普段からフワリとした雰囲気の彼女が、それ程険しい表情をするのは珍しい。
「なぜ今更そんなことを仰るの? マレリィを家族にすると、お約束下さったではありませんか」
王太子は僅かに口籠ったが、小さく溜め息をついてから言った。
「……泣いていたのだ。私とそなたの間に、
エレイシアは目を見張る。
『ザクバラのお方です』
『
エレイシアの胸に、再び感情が渦を巻く。
そうではない。
マレリィを真の側妃にして欲しいと願ったのは、そんな使い古された、お決まり文句を聞く為ではない。
若草色のドレスを強く握りしめるエレイシアの手を、王太子はそっと握る。
しかしエレイシアは、強く輝く蜂蜜色の瞳でしかと彼を見返した。
「……お願いがございます」
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