第6話 脅威③

 エニグマ化、それはメシアにとってそう簡単には起きない出来事のはずだった。軽い切り傷程度であれば、全く問題がないはずだし、実際今までに傷を負った際は何も起こらなかった。

 エニグマ化、それは僅かな時間で完了するはずだった。エニグマとなり理性を失うか、完全に人間のままか、二つに一つのはずだった。まさか、中間の状態があるなどとは夢にも思わなかった。


「えっ……」


 奏衣の指がサッと傷口を撫で、明らかに人間の皮膚ではないその感触が伝わってきたその瞬間、自身がエニグマと化していることを実感し、彼女の顔が青ざめた。

 澪と奏衣の声を聞いた隼人や茜、雄一もそれに気がつき、皆一斉に血の気を失う。奏衣以上に青白い顔をした隼人が彼女の両肩を掴んだ。


「奏衣、大丈夫か? 意識が飛んだり、苦しくなったりしないか?」

「う、うん……」

「じゃあ、それが広がる感覚だったり、急に人を襲いたくなるようになったりは?」

「大丈夫だよ。びっくりしたけど、今のところ他に異常はなさそうかな」

「…………よかった」


 まるで自分がエニグマ化しているかのごとく泣きそうになって安堵する隼人。それを見た奏衣はなぜか自分の気が落ち着くのを感じていた。エニグマ化してしまうかもしれない、そんな不安はもちろん消えないが、自分以上に自分のことを心配してくれる人がいる、それだけで少し満たされたような気分になったのだ。

 他の三人も、ひとまず完全にエニグマになったわけではないとわかり胸を撫で下ろしている。奏衣が完全にエニグマと化し理性を失うということは、ほとんどイコールで奏衣を自分達が討伐しなければならないということと結ばれているのだ。それだけは、なんとしてでも避けたかった。


「…………貴様らは、何も知らんのだな」

「……どういうことだ」

「教えなさい。知っていること、全て」


 ため息と共に呟かれた言葉が、ただでさえ荒立っている隼人たちの神経を逆撫でする。

 ルーラーは、ルーラーである。当たり前かもしれないが、きっと隼人たちの知らないエニグマの謎の多くを知っているのだろう。当然、エニグマについて彼らがあまり知らないのは無理もないのだが、それでも焦りや驚き、不安、怒りは募るものである。

 茜に至っては両の手に持つ小太刀を構え直して今にもルーラーに飛びかかりそうな勢いだった。


 先ほども使用していたこの小太刀は茜の異能、操熱と合わせて使うために作られた武器であり、氷の刃、あるいは炎の刃で敵を攻撃する。さらに、一度切ってしまったところであれば、そこからの操熱がたとえ敵の体内であろうとも格段に消耗が少なくなるのだ。

 手数を重視して彼女の異能を最大限に活かすための武器、それは今激しい敵意と共にルーラーに向けられていた。


「対価無しで教えろというのは些か虫が良すぎる気はしないか?」


 茜の威嚇をあっさりと受け流しながら芝居じみた様子でそう言ったルーラー。だが、その数秒後には一転して首を縦に振った。


「……まあ、ここで出会ったのも何かの縁。取引であれば応じよう、非凡なるメシアたちよ」

「……何だよ? 何が望みだ」


 警戒感は隠すことができず、さりとてその言葉を無視することもできない雄一は強く殺気だった状態でルーラーを見返した。

 並の人間であれば萎縮して動けなくなってしまうであろうその視線にも動じることなく、その化け物は嫌らしく口角を上げる。


「なに、簡単なことだ。メシア共、我の同胞となれ。すれば全てを教えよう。貴様らであれば、喜んでこちら側に迎え入れよう」

「……私たちに、エニグマに堕ちろって言うんですか?」

「堕ちる? 違うな、進化するのだ。素晴らしいぞ、この体は。人間などとは比べ物にならない強靭な体、欲しくはならないか?」


 まさに悪魔の取引。地獄から響いてきたような声で語られたその提案に、頷くものは誰一人としていなかった。


「受けるわけないでしょう、そんな取引!」

「俺は、理性のねぇ獣に堕ちてまで力が欲しいとは思わねぇ!」


 やはり話し合いでの解決は不可能だったか、そう感じた隼人たち。澪や雄一を筆頭に、次々とその交換条件を拒絶して戦闘体制に入った。


「…………そうか、そうだったな。貴様ら人間は」


 失望と怒りが入り混じった顔で隼人たちを見つめるルーラー。


「だが、やはり貴様らの力は惜しい。その能力も、強さも、並のメシアではない。それほどの力があれば我と共にすぐにでもこの地球を支配できるのだ。考え直す時間をやろう」

「……どういう、つもりですか」

「今回は見逃してやる、と言ったのだ。無論、殺しに来るなら応戦はしてやるが、貴様らとて整理の時間が必要なのだろう?」


 明らかに人間を舐め切っている態度にさらなる怒りを覚える五人。まるで、メシアなど、人間などすぐにでも殺せるとでも言いたげな様子だった。 

 しかし、隼人たちにとって現状でルーラーに対する有効打が存在しないことも、情報を持ち帰る必要があることも事実だった。このまま自分達まで死んではさらにメシアの犠牲が増えることになる。そして何より、奏衣の体調が心配だった。直ぐにでも安全圏内にいる医者に診せたかった。

 そんな思いで五人は目配せをし、撤退を決める。


「次会ったときは、必ず殺す」


 普段の彼からは考えられないほど荒々しい隼人の言葉に、フッと余裕の笑みをこぼしたルーラー。顔をニヤリと歪ませて彼を見返した。


「楽しみにしていよう。取引の件も、忘れるなよ」


 その言葉を最後まで聞くことなく、隼人たちは全速力で撤退を開始した。

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