第10話 女になった友達の初登校
朝日奈あさひと初めて会ったのは、小学校の入学式だった。
当時は朝日奈という苗字じゃなかったあいつとは、五十音順の関係で席が隣だったことをきっかけに仲良くなって、よく遊ぶようになった。
今も昔も、友達になるきっかけって、案外そんなもんだよな。
ドッジボールやら、サッカーやら、子供が好む遊びをよくした記憶がある。
小学校高学年に上がる時に家庭の事情で引っ越してしまいそれっきりだったが、今度は高校の入学式で再会した。
馬が合うとでも言うのか。
もう何年も会っていなかったのが嘘みたいに、俺たちは直ぐに昔みたいな関係性を取り戻した。
本当は小中とずっと一緒に居たんじゃないかと錯覚するほどだった。
そのあさひが今、女になって俺の隣にいる。
嘘みたいな冗談だが、嘘でも冗談でもない。
男子制服に身を包んだ女の子。
それが今のあさひだった。
「やばい。めっちゃ緊張する」
「大丈夫だ。俺もしてる」
月曜日の朝だった。
俺とあさひは一緒に学校に向かっていた。
普段は一人で始業ギリギリを狙って登校している俺だったが、今日に限ってはそうもいかない。
何せあさひが女になってから初めての登校日だ。
俺の家よりもあさひの家の方が学校に近いので、俺があさひの家に寄る形で帯同していた。
それに伴って時間も普段より一時間以上早い。
早めに行って担任の先生に話を通しておこう、という考えだった。
何も言わずにいつもの席に座って注目を浴びるよりは、先に話をしておいた方がスムーズだろう、色々と。
「普通に心折れそう。今から帰ろうかな」
「俺も帰って寝てえ」
顔色の悪いあさひだった。
たぶん俺も似たような顔をしているだろう。
日曜日、というか昨日。
俺は朝からバイトで、あさひとは会っていない。
合間合間にメッセージのやり取りをしている中で、緊張で寝付けないからとあさひから電話がかかってきたのが、22時過ぎのことだった。
それから、気づけば朝の6時になっていた。
徹夜したというわけではなく、途中でどちらからともなく寝落ちしてしまったようだが、それでも間違いなく二人とも睡眠不足だった。
ちんたらちんたらとゾンビのような足取りで通学路を歩いていると、やがて長い坂の上にハイスクールラビリンスが見えてくる。
朝早くに登校しているとはいえ、他の生徒の姿もちらほらと見える。
が、幸い俺たちと同じクラスの生徒はいないようだった。
校門を抜けて、桜を散らした木々のアーチをくぐり、校舎に入った。
靴を上履きに履き替えて、
「やっぱりちょっと緩いな」
「新しく買うのも勿体無いし中敷で調整すれば?」
「そうしようかな」
なんて話しながら職員室へと向かう。
校内には朝の清涼感が満ちていた。
グラウンドの方から聞こえてくる運動部の掛け声と、たまにすれ違う入学したての下級生のフレッシュな「おはようございます」が、睡眠を欲している体を叩き起こすようだった。
「着いちゃった……」
「着いちゃったな」
職員室の前で、胸に手を当てて深呼吸をするあさひ。
制服の襟元から覗くワイシャツの起伏が上下する様子を横目で捉える俺。
男子制服を着込んだ巨乳美少女、どこか倒錯的な魅力があって直視できない。
「……よし。行くか」
「うん」
あさひの返事を聞いて、俺は職員室のドアをノックした。
「失礼しまーす。2-Aの志賀でーす。三浦先生いますかー」
居た。
5Sの怪しいデスクで書類仕事をしている茶髪の女性教諭を見つけて、俺はあさひを連れてそちらに向かった。
「おはざいまーす、三浦先生。今ちょっとお時間いいすか?」
「おはようございます、志賀さん。今日は珍しく早い登校ですね。そちらの女生徒は……」
脳内生徒ライブラリーに載っていなかったのか、あさひを見て少し困惑した様子の先生だった。
やはり一目見るだけじゃ、あさひだとは分からないようだ。
「そのことでちょっとご相談がありまして。どっか個室でいいすか」
「え、ええ。かまいませんが……」
あさひは落ち着かない様子で服の裾を触っていた。
恥ずかしがり屋の女の子がもじもじしているようにしか見えない。
三浦先生に連れられて、職員室から直通の生徒指導室に入る。
「それで、相談というのは?」
もちろん、あさひのことだ。
実は――と、俺は土曜日に起きたことを語り始めた。
思いのほか、話はスムーズに進んだ。
「突発性性転換症ですか……。先生も話は聞いたことありましたけど、まさか自分の担任する生徒が発症するとは……」
事情を説明してあさひの診断結果が書かれた書類を見せれば、先生は戸惑ってこそいたものの、簡単に話を飲み込んでくれた。
さらには、大変でしたね……と同情した様子で、あさひへの気遣いも忘れない。
「でも、はい。事情はわかりました。事前に話に来てくれてよかったです。本当はその日か、昨日のうちに電話でご連絡いただきたかったですけど、それどころじゃありませんでしたよね」
「そうですね、すみません……」
後ろめたそうなあさひだった。
そこまで頭が回らなかった――訳ではない。
あくまで、これは俺の憶測だが、事前に話して保護者と連絡を取られることを危惧して、あさひは今日まで学校に連絡をしていなかったのだ。
もちろん、心理的に話しづらかった、というのもあるだろう。
現状、俺以外の人間に自分の状況を話したというようなことは聞いていなかった。
「とりあえず、どうしましょう。今日は普通に授業を受けられますか? 難しいようなら、保健室登校という形にすることも出来ますが……」
「それは……」
あさひは考え込むように俯いて、少しの間押し黙った。
保健室登校というのは、ある種の救済措置のようなものだ。
体調不良などを理由に教室で授業を受けるのが難しい状態にある生徒が、保健室に登校することで、出席日数の損失を防ぎ、授業復帰への足がかりとする。
そういう制度。
三浦先生は返答を急かさず、じっとあさひのことを見つめて待ってくれている。
あさひは顔を上げると、なぜか一度俺を見てから、先生の目を真っ直ぐ見返した。
「授業は、普通に受けたいです。ただ体に変化があっただけで、体調が悪いわけでもないので。今まで通り、普通に」
「……そうですか、分かりました」
三浦先生は首肯して、事前に考えていたであろう提案をした。
「でしたら、朝のホームルームで朝日奈さんの症状について、先生からクラスのみんなにご報告しても大丈夫ですか? 生徒たちも戸惑ってしまうと思うので……」
まあ、そうだろうなと思った。
急に性別が変わったクラスメイトのことを説明もなしに、ふーん朝比奈さんちんぽないのね〜と察して流せるほどこの症状は一般的じゃない。
まず間違いなく、あの女誰だよと思われるだろう。
「そう、ですね。僕としてもそうしていただけると助かります」
「分かりました。では、このあと朝のHRの時に一緒に教室に行きましょう。あと困ることと言えば、お手洗いですかね。先生方には私から話を通しておくので、不便かもしれませんが、職員用のトイレを使用してください。男性用でも女性用でも構いません。使いやすい方を使ってください」
「はい」
「あと体育の授業はどうしましょう。体に不調はないんですよね?」
「はい。大丈夫です」
「でしたらしばらくは、今の体に慣れるための簡単な運動にしましょうか。別メニューを組んでいただけるように私から頼んでおきます。着替えの際は保健室を利用してください」
俺は完全に蚊帳の外で、如才なく問題点を潰していく三浦先生に感心していた。
二十代後半くらいの若い先生で、なんとなく普段はぽややんとしている印象があったのだが、今は全然そんな印象はない。
先生じゃなくて三浦教諭と呼んだほうがいいかもしれない。
……しかしこれ、俺が聞いてて良い内容だったのだろうか。
いやまあ最初は俺から色々と説明した手前、はいさよならと退室するタイミングがなかったんだが。
別に出てけとも言われなかったし。
「あと一つ。朝日奈さんの事情は私からクラスのみんなに説明しますが、正直、どんな反応をされるか、私にもよく分かりません」
「はい」
「もしかしたら、朝日奈さんの心が傷つくようなことを言う人も居るかもしれません。その時は一人で抱え込まず、私や他の先生に相談してください。きっと力になりますから」
いい先生だな、と素直に俺は思った。
口では何とでも言える――という捻くれた考え方をしがちな俺から見ても、それは感情のこもった真摯なセリフのように感じた。
「まあ朝日奈さんには、こんなに親身になってくれる良いお友達がここに居ますから、きっと大丈夫だと思いますけどね」
「あはは。僕もそう思います」
外行用の一人称と笑い方で肯定して俺を見るあさひ。
こういう大人の絡み方、苦手なんだよな……。
褒められ慣れていないということなんだろうが、なんというか、それだけでなく、いたたまれない気持ちになる。
友達が大変な状況で、他に頼れる人が居ないっていうなら、このくらい普通にするだろ。
俺が特別に親身って訳じゃないと思う。
普通のことをしているだけで褒められるというのは、何だか座りが悪い。
「他にも何か困ったことがあったらなんでも相談してくださいね。志賀さんほど頼りにならないかもしれませんが」
「はい、ありがとうございます」
三浦先生は冗談めかして笑うと、手を叩いて立ち上がった。
「さて。とりあえずはこんなところですかね。戸籍の関係などは、今度親御さんも含めて三者面談という形で、改めてお話しさせてください」
「……はい」
どうにか今のところは保護者と連絡を取り合うような状況にはならなかったが、それも長くは続かなさそうだった。
遅かれ早かれ、あさひの現状は親の耳にも伝わることになるだろう。
そもそも簡単に隠し通せるようなことじゃないしな。
電話でもかかって来たら、出た瞬間アウトだし。
「では先生はまだ朝の仕事が片付いてないので、朝日奈さんはここで時間になるまで待っててください。志賀さんは先に教室行ってますか?」
「や、早く行っても暇なんでここで時間潰してからいつも通りぎりぎりに行きます」
「予鈴5分前には教室にいるようにしなきゃダメですよ」
「気をつけまーす」
めっ、と委員長タイプのロリキャラみたいな叱り方をして、28歳独身女性教諭はデスクに戻って行った。
生徒指導室に俺とあさひだけが残される。
「はー……」
息を吐くあさひ。
そういえば、俺と病院の人以外に打ち明けるのは、これが初めてだったんだよな。
さぞかし緊張していたことだろうが、これからのことを考えると今のはまだほんの序の口と言わざるを得ない。
一対一、見ようによっては二対一だったのに対して、朝礼でクラスみんなに報告するとなると一対三十以上だ。
それに、先生に話すのと同級生に話すのとじゃ、感覚がまるで違う。
社会人と学生では、受け取り手の許容量にも差があるだろう。
「……あー、やっぱ保健室登校にすりゃよかったかなあ」
「心変わりはやいな」
「いやだってさ、これからみんなの前で『朝日奈です、朝起きたら女になってました。コンゴトモヨロシク』って言うんだろ。普通にキツいって」
「まあ、な。でもそうと分かってたなら、それこそ最初から保健室登校にすればよかったんじゃないか?」
それは……とあさひは伺うように俺を上目で見やった。
「……今まで通り、普通に学生生活したかったんだよ。成績と内申点落としたくないし。それに、誰かさんだってだる絡みする相手が居なくなったら困るだろ」
「あー困る。困るな。めっちゃ困る」
だろ? と何故かちょっと得意げなあさひだった。
俺は決してあさひの他に友達がいない訳ではないが、クラス内で固定的なグループに所属している訳でもない。
入学当初、部活や趣味が同じ者たちが集まってせっせと城砦がごときコミュニティを築いている間に、俺は
懐古厨は今に取り残される定めであり、実際にそうなって、結局、あさひと行動を共にすることが多くなった。
一年も同じ牢獄で生活していれば、多少は交流が広がったが、しかしどうにも俺は大人数で行動することが苦手で、一人、二人くらいを相手にするのが性に合っているようだった。
誰とでもそこそこ話すが、あくまでそこそこ止まり。
放課後や休日に遊ぶような、仲が良いと臆面もなく言えるような相手は、今でもクラスにあさひしかいない。
休み時間に自席を離れて積極的に話しかけにいける相手も、またあさひだけなのだった。
「オレが保健室登校を選ばなかったのは慎也のせいだからな」
「はいはい俺のせい俺のせい」
こいつ俺の責任にするの好きだな……。
別に良いけど。
「……だからその、さ。本当に、教室でも今まで通り接してくれよ? 変に距離とったりしたら酷いからな」
照れくさそうに恥ずかしそうに気まずそうに。
窓の方を見てそわそわしながら言うあさひに、俺は横腹を綿毛で撫でられるようなこそばゆさを感じた。
「ん。ああ、おう。肝に銘じておく」
「……よし」
あさひの不安が少しでも取り除けるなら、いつでもどこでも積極的に話しかける所存だが……こうも直裁的に言われると、いつも通りを意識し過ぎて逆にいつもと違う接し方をしてしまいそうだ。
あさひが女になってから、いつも通り、普段通りということの難しさを嫌というほど実感している。
そうしようと思えば思うほどに、ぎこちなくなっていくような気がした。
俺も、あさひも。
……それから、あさひの緊張をほぐすようなウィットに富んだウェッティな濡れ濡れの会話をして、始業の時間を待った。
というのは俺の見栄で、実際はぽつりぽつりと会話があるくらいだった。
というか、朝からそんな猥談はしたくない。
誰々はこういう反応をするだろう、こう思うだろう。
そんな毒にも薬にもならない――いや、あさひからしたらどちらにもなり得る話をした。
「そろそろだな」
「うん」
「俺、先行ってるけど」
「うん。大丈夫」
「緊張しすぎて噛みみゃくりゃにゃいようにや」
「噛んでるのはお前なんだよなあ」
「わざとだ」
むしろこっちの方が言いづらかった。
最後の「や」は「な」と言おうとして、普通に噛んだし。
「知ってる。早く行かないと遅刻になっちゃうぞ」
「はいはい」
俺は自分のリュックを背負って、あさひのリュックを肩に担いだ。
おっっも。
ちゃんと教科書持ち帰るタイプの人間のカバンの重さだ。
テスト前でもあるまいに。
流石は5教科7科目650点以上のtier1キャラと言ったところか。
俺もバカな方ではないが(後輩の受験勉強を手伝える程度には)、あさひの成績を前にするとだいぶ霞んでしまう。
カスみたいな成績だ。
霞みたいな成績だった。
「荷物持ってってくれんの?」
「重いからやっぱやめた」
「ええ……」
冗談だ。
「知ってる。さんきゅ、助かる」
「おん。じゃ、なんだ、頑張れよ」
「うん」
ウィットに富んだ、どころか他に言うことも思いつかず、それだけ言って、俺は生徒指導室を後にした。
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