第四話 「霞む既成概念」
「どうしたんですか!」
慌てた様子で叫ぶ新庄の声を振り払い、私は喫煙所の扉を開けて走り出した。
目的地は、そう……あの噴水広場だ。
「ダメだ! 行ってはいけない!」
頭では理解しているつもりだったが、どうしてもこの目で確かめたいという衝動が、己の意思とは裏腹に身体を突き動かす。
是か非かと問われれば、間違いなく後者であろう。
午後からの仕事もある。社会人としても恥ずべき行いなのは明白だ。
しかし、あの時の私には、そんなことはどうでも良かった。
私が成す術もなく老婆の目に吸い込まれそうになったのは半年ほど前。
当然、あの身綺麗な女性が老婆に“あの言葉”を語り掛けられたのも……。
と、いうことは、彼女は半年もの間、ずっと“あの場所”に立ち続けていたということなのだろうか?
「でも、どうしてそんな……。」
疑問と不安が入り混じった形容しがたい感情が胸の中を搔きむしる。
ただ、何となく……、”自分の身代わりにしてしまったのではないか?”という疑念が、走り続ける一歩ごとに確信へと変わっていくのを感じていた。
すっかり息も上がり、汗だくで立ち尽くす私の視線の先には、色鮮やかな赤い傘を持つ女性の姿があった。
新庄が言っていた通りの……。
あの時、私の横を通り過ぎ、優しく老婆に語り掛けていた女性が……。
色白を通り越し、透けるような青白い顔色となって……。
「こんなの……あんまりだ……。」
怒りにも似た感情が湧き上がってくる。
あの時、私は関わりを避けようとした。本能的に危険だとも思った。
でも、“面倒くさい”と思っていたのは事実だ。
だが、彼女は違う。
“困っているように見えた”老婆に、親切心から救いの手を差し伸べたであろうだけなのに……。
「ちょっとぉ、勘弁してくださいよぉ~。」
ハッとし振り返ると、悪戯っ子のように笑う新庄がいた。
「なんで、こんな所に……。」
「なに言ってんですか。急に走り出したのはそっちでしょ? あ、居た! ホラ、あの人ですよ!」
新庄は、憧れの芸能人を見つけたように嬉し気に指さしている。
「こんな所にいちゃダメだ。すぐに会社に戻りなさい!」
「自分のこと棚に上げて。午後からは外回りしてたって事で。へへっ、共犯ですよ」
そう言うと、新庄は軽やかな足取りで赤い傘の女性のもとへと歩いていく。
「ダメだ、新庄君! 戻りなさい!」
新庄を追いかけて走り出した私に、女性のキッと射すくめるような視線が向けられた。
身体が重い……。
思うように足が動かず、新庄の背中がどんどんと離れて行ってしまう。
「ダ…メだ……。」
声を絞り出そうとしても、真綿が詰まってしまったかのように上手く言葉にならない。
なんとか止めなければと、懸命に身体を引きずるように2人の元へと近づいていく。
あと少し、もう少しで……。
新庄の背中に指先が届きそうだった。
「今日も持ってるんですね、その傘。」
話しかけてしまった……。
「え、どこかでお会いしたことありましたっけ?」
少し驚いた顔で、赤い傘の女性が受け返す。
「すみません。実はこの前、ここを通りかかったときにお見かけして。」
「あぁ、そうだったんですね」
傍から見れば若者同士の何気ない一幕に見えるのかもしれない。
しかし、これは絶対に阻止しなければならない事象だと私は確信していた。
「シ…ンジョ……ウ…クン……」
喉に絡みついた真綿は、私の唾液を含んで膨張したかのようにますます気道を埋め尽くしていく。
「……お知り合いの方……ですか?」
不安げな顔を浮かべて、赤い傘の女性がこちらを見ている。
「あぁ、会社の先輩で」
「あぁ、そうだったんですね。すみません、失礼なことを言っちゃって。」
あどけない笑みを浮かべる彼女の目は、全く笑っていなかった。
「全然。それよりお昼は食べちゃいました? よかったらご一緒しませんか?」
「ヤ……メ…ロ……。ソ…レ……イジョ……ゲェホォ! ゲェホォ!」
内臓がひっくり返るほどの深い咳が込み上げてきて止まらない。
「えぇ、どうしようかなぁ……」
「良いじゃないですか。それとも、誰かと待ち合わせとかだったりしますか?」
「そうじゃないんですけど……」
ほんの一瞬、笑みを浮かべたままの彼女の目がこちらを見た後、ゆっくりと新庄の目を見つめる。
「ひとつだけ、お願い事をしても良いですか?」
空気が張り詰める。
不思議な静寂が訪れ、雑踏も聞こえない。
“ダメだ、それ以上を聞いてしまったら!”
声にならない言葉を心の中で何度も何度も叫んだ。
しかし、その時は来てしまったのだ。
「私を…探してください……」
「え? どういう意味で……」
何かに憑りつかれたように、新庄の身体から生気が薄れていく。
赤い傘の女性に腕を取られた新庄は、そのまま何も言わずに遠ざかっていってしまう。
「シン…ジョー……クン…ゲェホォ! ゲェホォ! ゲェホォ!」
息を吸い込むことも出来ず、私はその場に崩れ落ちた。
すると、静寂は破られ、鼓膜を打ち破るような雑踏が蘇ってきた。
「大丈夫ですか!」
どこかの誰かが心配して駆けつけてくれた。
「違う……僕じゃなくて……」
浅い呼吸を繰り返しながら、新庄と赤い傘の女性が歩き去った方向を指さした。
しかし、そこに2人の姿はない。
周囲に集まってくれた善意の人たちは、訳が分からない様子で尚も心配をしてくれる。
「救急車、呼びましょうか?」
「いや、それより、さっきここに赤い傘を持った女性と若い男がいたでしょ?」
何のことだか分からないという風に、善意の数人たちが顔を見合わせている。
「今さっきのことですよ! 僕のすぐ近くに!」
私の言動に不信感を抱いたのか、善意の数人たちは薄気味悪いものを見るような目を向けて、関りを避けるように散り散りに立ち去っていく。
「そんな……だって、すぐそこに居たじゃないか……」
あふれかえる人波は、まるで私のことなど見えていないかのように流れ続けていた。
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