第三話 「逃れ得ぬ記憶」

あれ以来。

私は極力あの噴水広場には近づかないようにしていた。

どんなに土砂降りの日も、明らかな遠回りになったとしても、地下街には下りずに地上の街を歩き、すっかり忘れてしまう日が来てくれることを祈りながら日々を過ごしていた。


幸い身体には何の変調もない。

だが、残念ながら忌まわしい記憶は頭にこびりついて消えてはくれなかった。


「私を…探してください……。」


何の予兆もなく、不意にしわがれた老婆の声が頭の中で再生される。

「私を探すって、どういう意味なんだ……?」

一度考え始めると、それ以外のことは何も考えられなくなる。

仕事のミスも増え、上司から怒られる頻度も格段に上がってしまった。

おかげで社内での立場は悪くなる一方で、居場所にさえ困ってしまう有様だ。


同期や同じ課の社員たちが連れ立って昼食を食べに行くのを尻目に、ひっそりと喫煙所の隅でコンビニで買ってきたパンを齧るのが日課となっていた。


ある日。

いつものように出口のない疑問に思考を絡めとられたまま喫煙所で一人寂しく昼食をとっていた時。

「俺も、良いっすか?」

と、人懐っこい笑みを浮かべた途中採用の新入社員が私のもとへやって来た。

突然 声をかけられて心臓が弾けるほどに驚いたのだが、どうやら彼はこちらの様子など意に介する気など毛頭なかったのか、屈託のない笑顔を浮かべたまま話を続ける。

「なんで、いっつもこんな所で昼メシ食ってるんですか?」

「……いや、特に意味はないけど……」

「あ、すみません。俺、新庄って言います。先月、中途採用で入ったばっかなんですけど」

「ああ、知ってるよ。確か……二課だったよね?」

「そうです! 知っててくれたんですね、良かったぁ。急に変な奴に声かけられてビックリさせちゃったかと思いましたよ。」


どうやら驚ていたことには気づかれていたらしい。

それでも、こうやって笑顔で話しかけられることが久しくなかった私は、救われたような気持になった。

同時に、何となく申し訳のない気持ちが湧き上がってくる。

「それより、君はどうして皆と一緒に行かなかったんだい?」

「あぁ、実は俺も苦手なんですよ、人付き合い……的なことが?」

何とも言えない爽やかな笑顔を浮かべて新庄は笑っている。

何の悪意もなく同じカテゴリーに強制的に同梱されたことにはいささか引っかかったが、人と話をすることに飢えていた私は、取るに足らない日常会話が楽しくて仕方がない。

恐らく一回り近くは歳の離れているであろう新庄と取り留めもなく話し込んでいた。


「え……。」

その時は突然にやってきた。

「だからぁ、あの噴水広場ですよ。地下にあるやつ。知ってるでしょ、さすがに?」

「あ……ああ。」


心臓がドクンとひとつ大きく鳴った。


「あそこにね、すごい奇麗な人がいたんですよ。一昨日だったかなぁ?」


ドクン、ドクン……。


「……へぇ……そうなんだ」

「雨も降ってなかったのに真っ赤な傘を持ってたから、なんか目立ってたっていうか。」


ドクン、ドクン、ドクン……。


「……赤い傘……」

「本当に芸能人かなんかみたいだったんですよねぇ。」


何か言わなければ……。


「ん? どうかしたんですか?」

「いや……、でも意外だな。君みたいな若い人でもお年寄りのことを奇麗だと思うなんて……。」

「何言ってんですか? まぁ、確かに俺よりは年上っぽいかもですけど。でも30そこそこくらいじゃないかなぁ?」


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。


脈がどんどん速くなる。


「あぁ! もしかして若い子が好きなんですか? それにしても、30そこそこの人をお年寄りって、さすがに怒られますよ。」


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……。


脳裏で鼓動が鳴り響く。


「ちょっと待って……。もしかして、その赤い傘をもってた人って……」


急速に血圧が上昇してか、視界が薄っすらと白んでくるのを懸命に堪えながら、あの時、私の横を通り過ぎて老婆に声をかけていた女性の身なりや髪型などを伝えた。


「そうです! その人っす! なんだぁ、見たことあったんですね!」


キャッキャと喜ぶ新庄の言葉は次第に小さくなっていき、覆い被さるように老婆のあの言葉が繰り返し脳に語り掛けてくる。


「私を…探してください……。」

「私を…探しテクダサイ……。」

「ワタシヲ…サガシテクダサイ……。」


















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