第16話

五月二十七日 板橋 路上 六時五十八分


 蒼天寮から徒歩五分の場所に、マルちゃんという食品を扱う二十四時間営業のスーパーマーケットがある。安売りの割に鮮度も良く、品揃えも豊富なので、龍斗はいつも利用している。

「大根とキャベツと……味噌も買っておくかな」

 出掛けに確認した冷蔵庫の中身を思い返しながら、何を購入するかを決めていく。少しうわの空になりながら、閑静な住宅街を龍斗は歩いていた。が、その静寂は突然の叫声によって破られた。

「ひったくりーッ!」

 女性の叫びに、龍斗は一気に現実に引き戻された。声のした方に視線を向けると、二十代と思しき女性が倒れていて、その先を帽子にマスクの男がセカンドバッグを片手に走り去っていくところだった。

「このッ、待てッ!!」

 龍斗は本能的にひったくり犯を追跡し始めていた。ここ二ヶ月、拳法の訓練で基礎体力を強化しているので、息切れをすることもなく追跡できる。だが、足力はあまり重視していなかったため、ひったくり犯との距離が詰まらない。

「くそッ、もっと走り込みしておけば良かった!」

 二百メートルほど追跡を続けながら、少し後悔する。走りながらでは電話もできないので、通報もままならない。さらに五十メートルほど追いかけたところで、ひったくり犯の目先に人影が居ることに気がつく。

「そいつ! ひったくりです! 通報をお願いします!」

 猛ダッシュしてはいるが、息はさほど切れていないので、精一杯に声を飛ばす。「捕まえてくれ」と言わなかったのは、その人影は線が細く、髪の毛をポニーテールにしている――つまりは、女性である可能性が高かったからだ。龍斗の声にその女性の肩がぴくんと震える。振り向いた彼女の顔に、龍斗は一瞬の驚きを禁じ得なかった。

 藤山凪。

 SGWEの女子マネージャーだった。なぜ、こんな日曜の早朝に板橋を歩いているのかは分からなかったが、とにかく彼女だった。

「志貴さん!?」

 そして、凪もまた驚きを隠さなかった。しかし、状況を一瞬で判断した彼女は、ひったくり犯の進行方向の前に立つ。

「藤山ちゃん、危ないよ!」

 SGWEに所属してはいるが、彼女は女子マネージャーでしかない。ひったくり相手に何かできるとは思えない。

「へっ、邪魔だよ!」

 ひったくり犯は凪の真横をすり抜けるようにして走っていく。そのまま、逃亡は成功するかと思われた。

が。

「逃しません!」

凪の腕が伸びる。龍斗には男の背に凪の指が触れただけに見えた。しかし、不思議な事に男は吸い寄せられるように凪のもとに引き寄せられ、そのまま背中からアスファルトに叩きつけられた。背中をしたたかに打ち付けた男は、そのまま意識を失った。

「藤山ちゃん、大丈夫!?」

 その一部始終を目撃した龍斗は信じられないものを見た思いで、凪に声をかけた。とうの凪は何事もなかったかのように涼しい顔で男を見下ろしている。

「志貴先輩。こんなところでこんな時間に、奇遇ですね。私は大丈夫ですよ。被害者の方は?」

 バッグをひったくられた女性も追いつき、男の横に転がっていたバッグを回収する。凪に投げられ伸びていた男は龍斗の通報でやってきた警官に捕縛され、悪態を吐きながら交番に連行されていった。被害者の女性も龍斗と凪にしきりに礼を繰り返した後に、去っていく。

「いやぁ、ほんと奇遇。それに、藤山ちゃんがあんな投げ技を使えるなんて思いもしなかったよ」

「私もSGWEの一員ですからね。投げ技は得意なんです」

 得意とはいったものだが、それにしては投げる前の男の動き妙だった。それについて、龍斗は好奇心を抑えることはできなかった。

「犯人が藤山ちゃんに吸い寄せられたみたいに見えたけど……超能力?」

「あはは、違いますよ」

 凪は龍斗の疑問を一笑に付した。

「私、指の力が強いんです。相手の体の何処かに軽く引っかかれば、そのまま引き寄せて投げられるんですよ」

「へえ」

 龍斗は純粋に感心した。凪にそのような才覚があったのは初耳だったし、そこまでの技量を身につけるまで熱心にトレーニングしているのも知らなかった。もしかすると、久我山は凪のこの才能を見抜いて熱烈なアタックをかけたのでは? とも少し思えたが、久我山の株が上がってしまうので頭の中からその考えを速やかに消し去ることにする。

「藤山ちゃんはなんでこんなところに? 僕は下宿がこの近くなんだけど」

「私はプロレスの練習に。この近所にリングの設置してある道場があるんですよ」

「学校では練習しないの?」

「私は才能があまりないので、学校での練習だけでは足りなくて」

 指一本で大の男を引き寄せて投げることが出来る能力は充分な才覚だとは思われるが、本人の中ではそれは才能には含まれないようだ。

 そんな言葉を紡ぐ凪の瞳には一点の曇りもなかった。それだけ現状が充実していて、プロレスの修練に打ち込む「今」という時間が満ち足りているということだ。彼女を前に、龍斗は自分を鑑みる。

自分を、仲間を守るために拳法を久遠に師事した。だが、久我山の策略で統一祭への出場が決まってからは最初の目的を忘れて、鍛錬をしていなかったか。トーナメントの試合で無様な事にならないような付け焼き刃を身につける事に終始していなかったか? と問われたら、龍斗は曖昧な笑みを浮かべることしかできないだろう。

「藤山ちゃんのその真っ直ぐさ、すごく良いと思うよ」

「え、そうですか?」

 龍斗が思わずかけたその一言に、凪は少し当惑したような表情を浮かべつつも、たおやかに微笑んで見せた。その笑みで、龍斗は思い出した。去年の新歓の時期、プロレス研に入るのを止めて、SGWEにいくことを決めた凪は、この笑みを浮かべながら「私は強くなりたいので」と龍斗に告げたのだ。その時の凪は、恐らく龍斗が久遠に拳法を師事することを願い出た時の心境と同じようなものを心の中に抱えていたのだろう。

「強くなりたい……か」

「なんですか?」

「いや、なんでもないさ。と、少し時間が経っちゃったね。藤山ちゃんは練習に遅れないように早く行ったほうが良い。僕も買い物に行くからさ」

「はい、志貴さんもお気をつけて。それでは」

 凪は言い残して、小走りで走り去っていった。それを見送った龍斗はスーパーに足を向けた。その後、買い物を予定通りに済ませ、蒼天寮に帰って久遠にご機嫌な朝食を振る舞った。

 そして、久遠に一ヶ月の鍛錬で統一祭トーナメントを最良に、最後まで戦い抜く方法を教えてほしいと、改めて願い出たのだった。

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