第12話

四月二十日 板橋 蒼天寮 七時二五分


「教授、もう手詰まりですか?」

「うぬぬ、待った――は効かないのだよな。さて、どうしたものか」

 蒼天寮の共有スペースの万年こたつで、大学生と思わしきふたりの女性が差し向かってなにか盤面を睨んでいる。その盤面には八一のマス目があって、上には五角形の駒が置かれている。端的にいえば、将棋を指しているのだった。

「またやってる。教授、早苗さん、毎日よく飽きませんね」

 朝のシャワーを浴び、髪の毛をタオルで乾かしながら、そこを通りかかった龍斗は思わず声をかけていた。このふたり、ここ数日のところ毎日この時間に盤面を睨み合っている。

「おや、志貴くん。君が最近のトレーニングに飽きぬよう、我々もこれには飽きが来ぬというものさ」

 教授――そう呼ばれた女性は薄く笑みを浮かべると、したり顔で龍斗に返した。教授は白衣を私服として着用している。髪の毛は金髪に脱色されているものの、根本が黒くなっているプリン状態で、化粧っ気もあまりないので不健康極まりないような印象を受ける。

「男性――一部女性も混じりますが、拳で語り合う――そういうふうに絆を深めることがあるのは知っていますが……わたくしには理解できませんわね」

 はふぅ、と小さく吐息を漏らしたのは早苗と呼ばれた女性の方。白衣の教授とは対象的に、黒系の――よく見れば、どこぞの国の軍用コートを羽織っている。教授がマッドサイエンティストであるとするのならば、早苗は女性軍人――さらにいえば、軍師とでもいうような雰囲気をまとっていた。そんな奇抜な組み合わせの女性たちであったが、双方ともに顔立ちはなかなかに整っていた。大家の紗蘭と賓客の久遠をのぞけば、この蒼天寮には現在三名しか入寮者はいない。

龍斗、教授、早苗、その三名だ。みな、同じ四学大に通う大学三年生で、賢治も巻き込んで、面構えは悪くはないのに残念なひとたちという集団としてひとくくりにされる事も多い。

「ふたりが毎朝の将棋を初めてもう一ヶ月になりますが、そもそもなんで将棋を?」

 龍斗は純粋な興味心で尋ねた。それに答えたのは女軍師――早苗のほうだった。

「教授が、急に『戦略を学びたい』なんて言いだしましてね。教授はわたくしのところの戦略盤の使用を所望していたのですけども、素人がいきなりあれに手を付けるのは分不相応というものですわ。ですから、わたくしに将棋で勝ったら、という条件をつけましたの。そういうわけで、毎朝一局という運びになったのですわ」

 早苗が龍斗に説明している間、盤面を睨んでいた教授だったが、不意に口を開いた。

「最近、未確認飛行物体の目撃情報が増えている。出どころも米軍や自衛隊など、それなりに信用ができる筋からな」

「まさか、宇宙人が地球に攻めてくるかもしれないから、戦略を学びたいと? はっはぁ、教授の考えることは相変わらず飛んでるなぁ。いやぁ、感服しました」

「まぁ、さすがに、今日明日にでも宇宙戦争が始まるとは、私も思っていないさ。未確認飛行物体とて、それがイコール宇宙人の乗り物……つまりはエイリアンクラフトであるとはいえないことも、重々承知している。だがまぁ、なんというかな。きっかけはなんであれ、新しいことに挑戦するのも悪くはないかな、と」

「つまりは暇だから新しいことを始めたかったということですかね」

 軽い調子で龍斗は手を打った。教授はそれに気を悪くした様子もなく、盤面に視線をやっている。

「君が急に武術を学び始めたのにも似ているというものさ、王手」

「そんな風に言っては、志貴さんがお気の毒というものですわ……え?」

「王手だ」

「おお。おめでとうございます、教授!」

 龍斗は歴史的な場面に立ち会ったような気分になった。というのも、早苗は大学のタクティカル同好会というサークルに所属し、こと、戦略においては右に出るものなしと言われているような才女であるからだ。さきほど彼女が言った「戦略盤」というのは、このタクティカル研の所持する備品だったりする。ちなみに、教授は物理部、科学部、民俗学研究会に顔を出しつつ、自らはオカルト研究会という怪しげなサークルを運営していることで知られている才女だったりする。

「うむ。予想よりもだいぶかかってしまったが、第一目標は達成……というべきかな。ときに、志貴くん」

「あ、はい。なんでしょう」

 唐突に話を振られ、龍斗は間の抜けた返事をしてしまった。将棋盤を片付けながら、教授は立ち上がる。

「毎日の応援の礼……というほどのものでもないが、きみにひとつ稽古をつけてやろうと思う。どうだい、受けるかい?」

 思いがけぬ申し出に、龍斗は少々面食らった。だが、今は少しでも強くなりたい時分、教授の自信アリ気な様子からして、彼女の稽古を受けることは何かしらのプラスになるであろうことは予測ができた。

「あ、はい。ではお願いします」

 龍斗はそういって、腰を折ったのだった。


「では、講義を始めよう。なに、時間は取らせない。手早くやろう」

 龍斗たちは蒼天寮の中庭に繰り出した。物見遊山の早苗と、いつの間にか一団に加わっていた紗蘭、そして久遠を含めての民族大移動だ。

「で、教授はなにを僕に?」

「言葉で説明することもできるが、まずは実践してみよう。志貴くん、好きなように私に打ち込んできたまえ」

「打ち込んで……って、パンチやらキックやらそんな感じで?」

「そのとおり。ここ最近のきみの修練は私も聞き及んでいる。全力できたまえ」

 龍斗は困惑した。この最近で格闘の技はいくつも習得している自分が、自信ありげとはいえ、文化系の最たるもののような教授に打ち込んでいいのだろうか、と。困った龍斗は、紗蘭の顔を伺った。すると、紗蘭そして久遠までも「やってやれ!」というようなしたり顔を浮かべている。

「ええい、どうなっても知りませんよ!」

 龍斗は覚悟を決め、えいや! と教授に向けて正拳を放った。だが、どうしたものか。教授はその攻撃を完全に見きったかのように、ふわりと白衣をはためかせて難なくその拳を回避してみせた。

「どうした、そんなものかい?」

「……こなくそ!」

 頭に血が上った……というほどのものではなかったが、挑発めいたものを投げかけられて、龍斗は少し熱くなった。そこから、コンビネーションを折り交えながら、身につけた技をひとつづつ試していく。しかし、教授はそれをすべて回避していった。龍斗は白衣の裾布にすら触れることは叶わなかった。

「はぁ、なんだ……まるで当たらない。僕の打撃、完全に読んでいるんですか?」

 白衣の襟首を正しながら、教授はたおやかに一礼し、笑みを浮かべた。

「読んでいる、というのはある意味で正しい」

「単調だったかな、そんなに」

「いや、志貴くん。きみの打撃には瞠目させられたよ。格闘を始めてまだわずかな者とは思えぬほどにな」

「じゃあ、なんで一発も当たらなかったんですかね」

「それは志貴さん、あなたが地球の上に生きているモノだからですわ」

 ベンチに座って龍斗と教授の稽古を眺めていた早苗が楽しげにいった。

「こら、早苗くん。問題の解を外野の君に言われては、私の立つ瀬がないではないか」

「ふふ、将棋の意趣返しですわ」

「まるで話がわからんのですが」

 息を整えた龍斗は、教授に目を遣った。彼女は息ひとつ乱していない。

「つまりは、だ。この地球上で動くということは、ひとしく、重力や慣性の影響を受けるということになる。そして、拳をひとつ繰り出すのにも、それに応じた予備動作がある。それらすべてを総合的に判断していけば、相手の次の動きを予想することは不可能ではない、そういうことさ」

 つまり、教授は龍斗と対峙しながら、彼の動作、呼吸、そして物理法則を加味した演算を脳内で行い、そのすべてを回避した――そういうことらしい。

「うへぇ、マジですか。そんなことが可能なんですね……」

「こういうのもあれだが、まだ『考えて』技を出しているきみの動きを考察するのは容易かった。これが霞さんや三郷さんなどを相手にすると、話が変わってくる」

「というと?」

「ふふ、興が過ぎて霞さんに同じ条件で賭けを持ちかけたことがあってね」

 ああ、と紗蘭は両の手を打った。

「あのときね。たしか、十四発目までは教授は捌けたけど、十五発目であたしの一撃がとらえたんだったわよね」

「そう。あのときの私は、この世界のすべてを見きったと過信している小娘でしかなかった。自分の脳の処理の追いつかない連撃を受けては、なすすべもなかったのさ。そして、先日……三郷さんにも吹っかけたのだが、まだまだ、私の脳内演算は未熟だと思い知らされたよ」

「久遠さんともやったんですか」

 龍斗の知らないところで、そんなことも行われていたらしい。久遠を見やれば、苦笑めいたものを口元に浮かべている。

「霞さんとの賭けから時間も経って、私も成長したかな……とは思ったのだがね。私の反応速度に勝る一撃、アレは見事だったよ」

「はえぇ……とんでもない話ですね」

 龍斗はもはや感心することしかできない。

「そうだね、わりととんでもない話をしているという自覚はあるが……今回の講義、志貴くんの闘技の修練に活かせるものもあるのではないかな?」

 龍斗は一瞬の思案の後に、ひとつ頷いた、

「動作はよく見れば次が予測できる、相手に予測させないためには、とにかく手数……もしくは、相手を上回るスピード……そういうことですかね?」

「うむ。満点ではないが、そういう認識で間違いはない。ともあれ、きみの修練が実を結ぶことを祈っている。それでは、この時間はここまでにしようか。一時限目の開始時刻が近い」

 時計を見れば、大学の講義の始まる時間が間近に迫っていた。のんびりとお茶の用意を始めた紗蘭と久遠に見送られ、三人は大学への道を急いだ。

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