第10話
四月十四日 板橋 蒼天寮 十七時四十六分
池袋から埼京線で一駅、板橋に龍斗が部屋を借りている下宿、蒼天寮はある。一同は池袋の久遠の友人の家で荷物を受けとり、電車で移動してきた。プロレス研究会のふたりも頻繁に龍斗の下宿には足を運んでいたので、迷うことなく道を進んでいく。
「乾くんと志貴くんはとても仲が良いんだね」
同じ部活に所属しているからといって、自宅の鍵を預けるほどの仲が育まれることはなかなかないだろう。
「あいつとは一年の春のオリエンテーション合宿の時に知り合ってね。最初はあんまし気が合いそうになかったんだ。だけど、夜にあいつがプロレス雑誌を読んでるのを見てさ。それから夜を徹してのプロレストーク。それで意気投合したんだ。それから一緒にプロレス研究会に入って、行動を共にしてるんだ。あいつとはプロレス観が似ててね、すげぇ気が合うんだ」
一口にプロレス好きといっても、いろいろとある。ガチンコの勝負としてプロレスを観る者、ショーと割りきって観戦する者、レスラーの生き様に共感する者。同じプロレス好きでも、試合を観戦するスタンスは千差万別なのだ。賢治と龍斗は奇遇にもそのスタンスが似通っていた。リングの内外で起こる様々な事象を客観的な立場から面白がる、というスタンスである。龍斗はルチャ・リブレの空中技が好きだし、賢治はインディペンデント系団体のケレン味を好む。しかし、そのスタンスは共通しているのだった。ちなみに、陽子はひたすらにメジャー団体のレベルの高いプロレスを信奉している。
「かいちょーと賢治先輩はゴールデン☆ラヴァーズなんスよねぇ」
陽子がジュニアヘビー級の名タッグチームの名を出して、くすくすと笑った。
「ば、馬鹿野郎。別に愛し合ったりはしてねぇよ!」
そのタッグ名は知っているが、秘められた真意を敏感に感じ取った賢治は憮然とした。陽子は笑いながら前を歩き、一棟の集合住居の前で足を止めた。
なかなかに立派な門構えで、敷地内に入るととちょっとした庭があり、その奥に建物がある。どこもかしこも古風ではあるが、手入れが行き届いていて、さほど古めかしさは感じさせない。
「賢治くんに陽子ちゃんじゃない。どうしたの?」
そこの庭先のベンチで、キセルを吹かしている女性がいる。だぼっとした服を着ているが、妙に色気のある女性だった。
「おっす、紗蘭さん。ちょっとわけありで、この人をしばらく蒼天寮に泊めてやってほしいんだけど、大丈夫?」
紗蘭と呼ばれた女性は、賢治の言葉を受けると久遠を一瞥し、答えた。
「そうねぇ…あたしから一本とったら、というのはどうかな?」
藪から棒に、紗蘭はそうい言い、キセルを灰皿代わりの桃の空き缶にカン! と打ち灰を落とす。そして、雑誌を丸めたものを片手に、久遠の前に立った。
「あちゃぁ、こういう展開かぁ!」
「紗蘭さんのそういうところ、忘れてたッス!」
賢治と陽子は「しまった!」という顔をして、紗蘭と久遠を交互に見遣った。
「これは……どういうことなのかな?」
久遠もいきなり仕合を申し込まれたカタチになって、少しばかりの動揺が見える。賢治はため息を一つつくと、説明を始めた。
「この人は、この蒼天寮の大家の霞紗蘭さん。いまじゃ、こうやって日がな一日、のんびりとしている自由人だけど、昔はこのあたりではちょっと知られた武術道場、求道館で鍛えてた腕っぷしの持ち主なんだ。今じゃ丸くなったもんだけど、昔は俺とか陽子ちゃん相手にじゃれてたもんさ」
「紗蘭さぁん、いくらなんでも無謀ッスよぉ。久遠さん、めちゃくちゃ強いんですから。怪我じゃすまないかもしれないッスよぉ」
「ふふふ……で、久遠さん? どうする、戦るの? 戦らないの?」
丸めた雑誌をぽんぽんと手の中で弄びながら、紗蘭はにんまりと笑みを浮かべている。
「タダ……だ!」
思案していた久遠の口から意外な言葉が紡がれた。
「ん?」
「私が勝ったら、宿泊は無料にしてもらおうか!」
そして、久遠もまた、にぃとした笑みを浮かべていた。
「く、久遠さん? 本気で戦る気なんですか? 腕に覚えはあるとは言っても、相手は下宿の大家ですぜ?」
賢治が慌て、久遠に訊く。
「普通ならこんな野試合はうけないのだけどね……この御仁、かなりできるわ。相手にとって不足はなし……こうやって相対しているだけで、鳥肌が立つぐらいね」
久遠は腕をまくってみせた。確かに、その二の腕が鳥肌立っている。
「それじゃ、決まりってことでいいわね」
「ええ」
久遠と紗蘭は相対し、各々の得意とする構えを取った。
四月十四日 板橋 蒼天寮 十八時五分
「って、なんで久遠さんと紗蘭さんが!?」
久遠と紗蘭が構え合っているところに、龍斗が合流する。当然、こういう事になっているとは思いもせず、面食らった顔をしている。
「かくかくしかじかで……というわけなんだ」
賢治は龍斗に経緯をざっくり説明した。
「むむ……そんなことになってたなんて……」
「とはいえ、お互いに合意のことだ。俺たちゃ、見守るしかねぇ」
「動くッスよ!」
龍斗が事情を飲み込むよりもはやく、場は動き出していた。
先んじて動いたのは久遠だった。まずは挨拶がわり……といった風で久遠に向けて突きを入れる。それに対した紗蘭の動きは見事の一言に尽きた。丸めた雑誌で久遠の拳の軌道をわずかに逸らすと、そのまま体の内側に身を入れて、久遠の喉元に雑誌を突きつけた。久遠は少し慌てた様子で後ろにステップをとり、間合いをとる。
「ふふ、やるじゃなぁい? でも、こんなもんじゃないんでしょう?」
「くっ……」
驚いたことに、あの剛腕無双の久遠が気圧されている。額に薄っすらと汗が滲んでいた。
「うへぇ、マジかぁ。紗蘭さん、あんなにできる人だったなんて」
プロレス研の三人は、いきなり目の前で繰り広げられる、高次元の戦いに釘付けになっていた。
「これは……本気を出さざるを得ないみたいだね」
額の汗を拭うと、久遠は腰を低く落とした構えを取った。
「ふふふ。空気が変わったわね。ここからが本気モードってところかしら? それじゃ、次はあたしからいかせてもらうわよぉ!」
その言葉を言い終えるか言い終えないか、その刹那。紗蘭は一瞬のうちに久遠との間合いを詰めていた。素早いとかそういう類の動作ではなく、さっ、というごく自然な動きで間合いが詰まる。
「はっ!」
紗蘭の手にした雑誌が久遠の腹めがけて突き入れられる。これが刀剣であれば一撃必殺間違いなしであろう、鋭い突きだった。
「そうやすやすと、とられるわけにはいかないわ!」
先程よりも何段階かギアが上がった様子の久遠は、雑誌での突きを一瞬のうちに真横からはたき、軌道を変え、勢いで身を半回転。そのままの勢いで裏拳を紗蘭目掛けてはなった。切れ味鋭い裏拳が飛び、紗蘭の髪の毛に触れるか触れないかのところで寸止めされる。
わずか、十秒足らずの攻防だった。
「ふぅ、これは一本ね。いいわよ、久遠ちゃん、好きなだけこの蒼天寮に滞在してちょうだいな」
双方一触だけの仕合ではあったが、紗蘭は充分に満足したらしい。丸めた雑誌で肩をぽんぽんと叩きながら、再びベンチに腰をおろし、キセルを吹かしはじめる。
「久遠さん!」
龍斗が声を掛けると、久遠は大きく息を吐いて戦闘体勢から抜けた。
「ふぅ、久しぶりにこんな攻防をしたね。霞さん……あなた、それほどの業をどこで? 町道場の稽古で身につくようなものとは……」
「ふふん、ナイショ。私は謎多きオンナ……」
久遠の疑問もよそに、紗蘭は完全に韜晦を決め込んでいる。だが、この仕合で勝利を収めた――正確に言えば五分の戦いではあったわけだが、久遠は蒼天寮へ無期限滞在の許可を得ることとなった。それだけは確からしい。
「大家さんはあんな感じですけども……改めてよろしくおねがいしますね、久遠さん」
一戦交え、息を整えている久遠に、龍斗はふかぶかと頭を下げたのだった。
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