第7話
四月四日 池袋 四神学園大学学生会館プロレス研究会部室 二十一時十三分
四学大の学生会館は不夜城である。日付が変わるまで侃々諤々議論を交えている者や、呑みすぎて終電を逃してしまった者など理由は様々であるが、深夜帯でも多くの人間の出入りがある。部室の鍵は各部の責任者が管理することとなっている。
かくして、プロレス研究会一同は部室へと到着した。
「乾くんと陽子ちゃんは椅子に座って休んでいて。志貴くん、救急箱はある?」
「あまり中身は期待しないでほしいですけど、ありますよ」
龍斗は部室の棚の片隅で埃を被っていた救急箱を持ち出してきた。文化部の活動で怪我をすることなど稀ではあるが、緊急事態に備えて用意しておくのは危機管理の基本だ。久遠は救急箱を開けると、中から消毒液とガーゼ、そして、テープを取り出した。
「陽子ちゃん、傷を見せて」
陽子は抑えていたハンカチをとり、久遠に傷を診せた。
「ふむ……出血の割には深い傷ではないね。これならば、消毒をしてガーゼを貼っておけば、傷跡も残らずにきれいにに治癒するでしょ……消毒をするよ。染みるとは思うけど、我慢していてね」
「なるべく染みないようにお願いするっス……」
陽子は切に訴えたが、久遠は非情に消毒液をばしゃばしゃと滝のように降りかけた。随分と沁みた様子ではあったが、陽子は気丈にもそれに耐えた。傷口を洗い流すと、周囲をティッシュで拭き取り、ガーゼを貼った。
「ありがとうっス……」
「気にしないでいいよ。では、次は乾くんね」
椅子に座り、天を仰いだ格好で脱力していた賢治は、鼻を抑えていたティッシュを外した。鼻血はもう止まっているようで、鼻の下に赤いものがこびりついていた。
「触るわよ。痛いようなら、その時は」
「わかった、やってくれ」
賢治は覚悟を決めた顔で頷いた。久遠は賢治の鼻柱を触りながら、痛みの有無を確認していく。そして、眉間から鼻の頭まで一通り撫でおわる。
「そうね。結果からいえば、鼻骨は折れてはいないわ。ただ、打ちつけたときに打ち身になっているから、しばらく冷やしたほうがいいわね」
「ほら、賢治。タオル濡らしてきた。血を拭くといいよ」
室外に出ていた龍斗が戻ってくる。気を働かせて濡れタオルを作りにいっていたようだ。
「ありがとよ。冷やすんで、冷蔵庫の氷もらうぜ」
部室には小型冷蔵庫が備え付けられている。活動のお供のジュースと氷は常備されている。賢治は冷蔵庫からブロックアイスを取り出して袋に詰め、同じく冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターを使って、簡易的な氷嚢をつくった。
「久遠さん、ありがとうございました。でも、よく傷の具合とかわかりますね?」
一通りの治療が終わったので、龍斗は礼を言って溜め息をついた。
「以前、紛争地帯に迷い込んだときに、難民キャンプの国境なき医師団の施設で下働きをしたことがあってね。そのときに、応急手当を一通り教えてもらったのよ」
すいぶんと物騒な場所で得た知識なものだが、その結果に助けられた。龍斗は、もう一度、深い深い溜め息をついた。
「すまなかったわ。居酒屋であの男の腕の一本でも折っておけば、君たちにこんな怪我を負わせることもなかったのに。私の失策ね」
一番の功労者の久遠はそう言って、三人の前で頭を下げた。
これに慌てたのは、プロレス研の面々だった。
「いや、久遠さんはまったく悪くないですよ!」
「そうっスよ! むしろ、助かったっス!」
「そうだな。久遠さんがいなかったら、今頃、陽子ちゃんあたりは病院行きだぜ」
三人揃えたように、首を横に振る。
「久遠さん!」
そして、龍斗が意を決したように口を開いた。
「僕に拳法を教えて下さい!」
その言葉に、賢治と陽子は思わず目を見開き、顔を見合わせた。「痛い思いはするのもさせるのも嫌、プロレスは観るのが一番面白い」。これは、龍斗の口癖であり、座右の銘だ。そんな龍斗が、プロレスではないが格闘技を教えて欲しいと言い出したのは、完全に虚をついた発言だった。
「へえ。先ほどとは違う言葉だけど、何が君を変節させたのかな?」
興味深そうに、久遠が龍斗の顔をうかがう。
「僕は暴力は嫌いです。だけど、火の粉はどこから降り掛かってくるかわからない。さっきは、賢治はともかくとして陽子ちゃんにまで怪我をさせずにすんだかもしれないんです。僕は怖くて逃げ回ることしか出来なかった。だけど、久遠さんみたいに、しっかりと自信に裏付けられた力があれば、なにか、なにかひとつぐらいはできたと思うんです。それを考えると、悔しくて悔しくてたまらないんです」
普段、ひたすらに穏やかな龍斗が、言葉の端々に強い感情を込めながら一気にまくし立てた。それを受けて、久遠が問いかける。
「私が教えることができる拳法は、実践拳法よ。確かに習得すれば力は得られる。だけど、それは君の嫌いな暴力。力を渇望する心情はわかる……けど、拳を握ったのならば、相手を確実に暴力で倒す。その覚悟は志貴くん、君にはあるかな?」
試すような久遠の言葉。それに対し、龍斗は迷いのない瞳で返した。
「正義なき力は無能なり、力なき正義は無能なり。これからは、この言葉を自分に刻もうと思います」
龍斗は空手のレジェンドの言葉を引用した。その言葉を残した空手家は、世界でも有数の武の達人だった。幾多の戦いをくぐり抜けた彼が残した言葉。それは、今の龍斗の心情を端的に現していた。
久遠はひとつだけ、しかし、大きく頷いた。
「なるほど。己を律する言葉を、君はもう持っているのね――わかった。その覚悟、しかと承知したわ。私が持ち合わせる技を志貴くん、君に伝授するわ」
大きく息を吐き、龍斗は脱力した。先程の言葉を発するために、身に持ったすべての勇気を使い果たしたらしい。
「おう、龍斗。やるならとことんやれよ。途中で投げ出すなよ」
賢治はそういって龍斗の肩を叩いた。言葉ではそう言っているが、その表情から龍斗に全幅の信頼を置いていることはすぐに知れる。
それに対し、陽子は素直だった。
「龍斗先輩、頑張ってください! 応援してるっス! ファイトっス!」
ガッツポーズを作って、龍斗に喝をひとつ入れ、応援した。そんなプロレス研の面々を、久遠は柔和な笑みを浮かべて見遣っている。
「志貴くん、君はいい仲間に恵まれたね。それじゃあ、拳法の修練は明日から行おうと思うけど、いいかな?」
「望むところです……あ。部員の勧誘と、最強トーナメントの冊子の作成はどうしよう」
明日からやる予定だった直近の業務を思い出し、龍斗は困った顔をした。
「いいぜ。それは俺と陽子ちゃんでやっておく。せっかく龍斗、お前さんがやる気を出したんだ。要所要所では手伝ってもらうが、俺らで判断してできる事は、こっちで処理しておくぜ」
助けを出したのは賢治だった。三人しかいない部だから、フットワークは軽い。しかし、ひとり欠ければそれだけ他のメンバーの負担は大きくなる。それは皆、分かっていることだったが、口には出さない。暗黙のうちでの了解があった。
「よし。じゃあ、明日。時間は……そうね、朝の六時にこの学校の中庭に集合ということにしましょう」
「朝六時か。それなら、俺も見物に行けるな」
「あたしも行くっス!」
ふたりも拳法の伝達に興味がある様だった。プロレス研究会という集まりではあるが、異種格闘技戦の観戦ガイドを制作しようとしている事からもわかるように、格闘技全般の観戦に興味を持っている。プロレスのリングに上がるのはレスリング経験者だけではなく、柔道やキックボクシング、相撲、カンフー、果てはスタントマンまで非常に幅広い人材なのだ。
「それじゃ、明日の六時に中庭で。久遠さん、よろしくお願い致します」
「ええ」
明日以降の予定が決まり、久遠とプロレス研の面々も遅くならないうちに部室を閉めて、四学大を後にしたのだった。
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