第6話

 四月四日 池袋 サンシャイン通り・路上 二十時三十二分


「今日は楽しい思いをさせてもらったわ。メールアドレスは先程教えたとおりだから、また機会があれば呑みましょう。日本には――もうしばらくは留まっているから」

 居酒屋を出て、春の夜。プロレス研と久遠は路上で立ち話をしていた。

「久遠さん、財布を落としたって言ってましたけど、交通費とか泊まるところとか大丈夫っスか?」

 見た目に反して気を回すのが上手い陽子は久遠を気遣った。

「池袋の知人の家に泊めてもらっているので、問題ないわ。財布を落としたと言っても、札入れの一つを落としただけで全財産を失くしたわけではないから、大丈夫よ」

 財布を落としたという話だったが、その日に使う分を入れた札入れを落としただけの話だったらしい。財布を分けるのは、海外旅行をする際には推奨される方法である。

「飲み物を買ってくるから、少し待っていて」

 久遠は呑んだ後で水分を欲したらしく、小銭入れを取り出しながら近場の自販機に向かっていった。


 全員酔っていたところに隙が生まれていた。

「ってぇ!?」

 どがっ、と賢治の背中に蹴りが叩きこまれた。賢治は地面に顔面を打ちつけ、動けない様子であった。

「おうおうおう、てめぇら。楽しくご歓談かぁ? さっきの妙な女はいないようだが……まぁ、今はいい」

 先ほどの酔っぱらいのオヤジが、居酒屋の外で待ち伏せていたのだ。オヤジの横にはおそらくはその手の輩と思われる男たちがバットや角材を手にして待ち構えている。どうやらこの酔っぱらいのオヤジ、そのスジの者であったらしい。

「くっ、そ、そんなに人数を集めて、ど、どうしようってのさ!」

 龍斗は精一杯の勇気を振り絞り、震える声を懸命に張った。

「オレをコケにしてくれた落とし前をつけてもらうのさ。オイッ、おまえら! やっちまえ!」

 オヤジの号令で、男たちが動いた。角材やバットといった凶器が一斉に龍斗めがけて振り降ろされる。

「うわっ!」

 しかし、龍斗は意外にも俊敏な動きを見せてそれを回避する。男たちは手にした凶器が空を切ったのを見て、一瞬、唖然とした表情を見せる。しかし、そこは喧嘩慣れしているであろう連中のこと、追撃の手を緩めることはなく、龍斗を追い立てる。

「うわわっ!」

 体操で鍛えた俊敏さで凶器を既のところでかわしていった龍斗だったが、右足に重心が強くかかった瞬間、バランスを崩して転倒してしまう。

「へっ、学生の分際で手こずらせやがってよ!」

 太い腕に入れ墨をいれたいかにもな男が、龍斗に向けて角材を振り下ろそうとする。

「貴様ら、何をしている!」

 そこに、自販機にいっていた久遠が戻ってきた。久遠は一瞬のうちに状況を把握すると、手にしていた未開封のコーラの缶を角材男目掛けてぶん投げた。350mlのコーラはそのまま質量兵器と化し、角材男の額にぶち当たった。

 崩れ落ちる角材男。

「あの女だ! あいつからやっちまえ!」

 久遠さえ倒してしまえば、あとはどうとでも料理できると踏んだのであろう。男たちは久遠目掛けて突っかかっていく。

「まったく……善良な一般市民に凶器が向けられるとはね。日本も治安が悪くなったわね」

 久遠は忌々しげにつぶやくと、腰を落として独特な、特徴のある型をとった。龍斗にはそれがどのような拳法のものなのかは判別は出来なかった。だが、その久遠の勇姿に一瞬で心を奪われた。

「喰らえやぁ!」

 男たちは容赦なく久遠に向けて凶器を振り下ろしていく。だが、それに対した久遠の動きは見事の一言に尽きた。

 振り下ろされたすべての凶器を、ゆらりと揺らぐような動きで、全てかわしきってみせたのだ。長物を振り下ろしてしまえば、当然、大きなスキができる。

「君らは少し反省するといいよ!」

 久遠の周囲をとりまいていた男たちが、一瞬動きを止めたかと思うと、久遠を中心に花が開くかのように後ろに倒れた。多勢に無勢もどこへやら、久遠は一瞬のうちに男たちに攻撃を仕掛け、打ち倒したのだ。


「きゃぁっ!」

 久遠が龍斗の前で大立ち回りを演じた直後、少しはなれたところで陽子の悲鳴が上がった。

「「陽子ちゃん!」」

 龍斗と久遠は一瞬顔を見合わせると、その悲鳴のもとにかけていった。

「うぅ……」

 そこで、二の腕を抑えてうずくまる陽子の姿があった。腕を抑える指の間からわずかに赤いものが溢れ出していた。

「陽子ちゃん、大丈夫ッ!?」

「へ、平気っス……」

 陽子は心配させまいと、気丈に振る舞った。しかし、腕を斬りつけられるというショッキングな出来事の後では、顔色も蒼白に近く、身体も震えている。

 陽子を斬りつけたのは、言うまでもなく先程のオヤジだった。仲間がやられるのを見て頭にさらに血が上ったオヤジは一線を超えた。ナイフを取り出し、一番弱そうな陽子に向けて振るったのだ。オヤジもそのスジのものとはいえ、所詮は素人。一撃で致命傷を与えることはなかったのは不幸中の幸いか。

「また邪魔をするか、このアマがァッ!」

 オヤジは久遠を威嚇した。だが、その程度で怯むような久遠ではない。オヤジを前にして、腰を落として構えをとる。

「仕方のない人。いいわ、私が相手よ――志貴くんは乾くんと陽子ちゃんを頼んだよ」

 陽子は腕を斬りつけられ、賢治も鼻を押さえて動けないでいる。久遠は龍斗に声を飛ばし、オヤジを見据えた。その刺すような眼力にオヤジは恐怖を感じ、一瞬たじろぐ。だが、己が感じてしまった恐怖を認めたくないのか、小さく首を左右に降ると、ナイフを腰だめにして一気に突っ込んできた。

「死ねやぁ!」

 それに反応した久遠の動きは見事だった。腕を伸ばしてカウンター気味にオヤジの頭を掴む。オヤジの頭を起点として、そのまま跳躍。上空で百八十度回転して後方に着地すると、オヤジの背中に強烈な肘打を叩き込んだ。

 その一撃でカタはついた。

 オヤジは激しく咳き込みながら、地に倒れる。強い打撃を受け、呼吸ができなくなっているようだ。

「あんた」

 久遠がオヤジを引き起こす。

「私に死ねと言ったね? そのうえで、刃物を振るった」

 オヤジは恐怖に引きつった表情で久遠の表情を見遣る。そのオヤジの顔を久遠は冷たい視線で突き刺した。

「それは、明確な『殺意』があったということだよ。他人を殺そうというのならば、自分がそうされても文句はないね?」

 久遠は腕を振り上げた。オヤジはがたがたと震え始め、顔面蒼白だ。

「久遠さん!」

 腕を斬りつけられた陽子と、顔面を地面に打ちつけた賢治の具合を見ていた龍斗は、思わず叫んだ。

「軽率な殺意は身を滅ぼすということを噛み締め、あの世へと渡るといいッ!」

「ひいぃッ」

 久遠は腕を振り下ろし――オヤジの頭をぱこんと一撃、軽く打った。その軽い一打を喰らい、オヤジは泡を吹いて昏倒した。肉体的ダメージというよりは、精神が耐えられえなくなったらしい。

 久遠の完全KO勝ちだった。遠巻きに様子を伺っていたギャラリーから、拍手と喝采が巻き起こる。

「志貴くん、ふたりの具合は?」

 一仕事終えた久遠が、龍斗のそばへ寄った。

「あたしは大丈夫っスー……」

 陽子の傷はそう深くなかったらしく、傷口をハンカチで抑えながらも殊勝に答えた。だが、他人に刃物で斬りつけられるというショッキングな体験からだろう、顔色は良くない。

「俺も大丈夫だ。てて……」

 顔面を強打した賢治も、鼻をティッシュで抑えつつだが無事であった。しかし、ティッシュが赤く染まっているところをみると、鼻血がまだ止まっていないようだ。

「と言った具合ですが……」

「手当はしたほうが良さそうね。それに、この場に留まるのは得策ではないわね」

 久遠は少し憂いた顔を見せた。

「なぜです?」

「あれだけ派手に立ち回ったから、通報はされていると考えたほうがいいわ。私。官憲は苦手なのよ。退散するとしましょう」

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