ようこそ取鳥砂丘へ
喫茶店内に客はひとりもいなかった。
あいかわらずニッコニコしているウエイトレスの「お好きなテーブルへどうぞ」という言葉に誘われ、窓越しにアウディが見える席を選んだ。美少女がオーダーを訊いてくるが直視できない。笑顔がまぶしすぎるのだ。ボクはうつむき加減でボソボソッとアイスコーヒーを頼んだ。
彼女はカウンターの中にいる白髪のマスターに向かってオーダーを伝え、テーブルから去ってゆく。ボクは彼女の顔を見られなかった損失を取り戻そうと、ついスタイルの良い後ろ姿を凝視してしまう。歩くたびに揺れる黒髪のポニーテールと腰のくびれ、やや短めのスカートに包まれた丸いお尻からスラリと伸びる二本の真っ白な生足に目を奪われた。
思わず童貞らしいエチエチな妄想に陥るところだったボクはその寸前で、彼女の背中越しに目に映ったポスターが気になった。それはよくある観光地を宣伝するポスターなんだけど、どこかがおかしい。そう、文字が間違っているのだ。
ポスター曰く、『ようこそ取鳥砂丘へ!』
そこは鳥取と書くべきだ。取鳥ではない。
ここは鳥取県、そして観光名所は鳥取砂丘。海に面して広がる日本一の砂丘。どれも小学校で習う知識ではないか。今でもハッキリと覚えている、小学生だったボクは作文で鳥取県を取鳥県と書き間違えたことがある。鳥と取のどちらが先なのか混乱したからだ。悩んだあげくに書いたのが取鳥。それを見た友だちにひどく笑われた。そんな恥ずかしい経験を持つボクだからこそ、絶対に鳥取の文字を間違えるわけがない。
何度見直しても、ポスターの文字は『ようこそ取鳥砂丘へ!』だった。
発見した間違いを誰に告げたらいいのだろうか。
ポスターを作った観光協会? それとも喫茶店の美少女ウエイトレス?
いやダメだ。どちらも余計なお世話だし面倒くさい。あれこれウジウジと考えこんでしまうところがボクのダメなところだと思う。内向的なところは自分でもよくわかっている。でもそれが持って生まれた性格なのだから、どうしようもない。
ただそれでいいのだろうか? この性格を直すためにボクはアウディを買って旅に出たのではないか。萎える心にムチ打ってウエイトレスさんに聞いてみることにした。会話相手に選ぶなら、老人のマスターより美少女の一択だ。ボクは決心を固めた。
「あ、あのすいま……」
「もう砂丘には行かれましたか?」
ボクの一大決心は、ちょうどアイスコーヒーを運んできた美少女ウエイトレスの一言で無残にも打ち砕かれた。
「さ、砂丘ですか? まだっス」
その砂丘の文字が間違ってますとも言い出せず、ボクは肩を落として答えた。
「お客さんはトトリ様の巡礼に来たんじゃないんですか?」
彼女は長いまつげの大きな眼を驚きでさらに大きくする。美しい少女の驚いた表情は、さらに美しい。
「いえ、ボクはあそこに止めてあるアウディで西日本をドライブしていただけで」
トトリ様という言葉に違和感を覚えつつ、ボクは窓の外のクルマを指さした。”女殺し”アイテムをアピールするなら、この瞬間をおいて他にない。
「ああ、あのカッコいい赤いクルマですか」
ウエイトレスさんはテーブルに片手をつき、伸びあがるように体を倒して窓の外を見やった。フリル付エプロンの胸がグッと目の前に近づいて、ボクはドキドキする。ドキドキしながらも、耳は美少女が発した『カッコいい』という言葉をシッカリ捉えていた。これはアウディの”女殺し”属性がいかんなく発揮された効果ではなかろうか? ボクは万軍の援護を得た勢いで語り始めた。
「アウディのコックピットに収まってハンドルを握ると、目前に広がる路面との対話が始まるんですよ。スムーズなエンジン音に包まれながら、ワインディングを疾駆する。それはもう言葉で言い表せない心地よさ。よかったら一度、ボクとドライブでも……」
「子宮回帰願望ですよね? つまりそれって」
言い終わらないうちに、またもやボクの言葉は美少女に叩き落された。しかも想像すらしていなかった子宮という単語で。ボクは口をあんぐりと開けたまま硬直した。
「狭いクルマの中に引きこもって安心するなんて、それは胎内回帰願望ですよ。ママンのお腹に戻ってぬくぬくしたいっていうのと同義。童貞クンにありがちな妄想」
童貞? ねぇ、いま童貞って言った? 美少女ウエイトレスのサクランボのような無垢な口から、次々と不穏な単語が飛び出してくる。正真正銘の童貞であるボクだからこそ、ダイレクトにココロへグッサリ刺さる鋭い刃だった。
それにしても一体全体どうしてバレたんだ?
童貞だってことが。
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