言いなり
三鹿ショート
言いなり
近所に住んでいる人間と挨拶を交わすことはあるものの、余計な言葉を発することはない。
何故なら、そのように命令されていたからだ。
家に戻ってきた私をその肥えた男性は一瞥すると、部屋に戻るように告げた。
私は首肯を返し、部屋に向かう。
これで、私は翌日の朝まで家を出ることができなくなった。
***
その男性と出会ったのは、仕事から帰る途中のことである。
常のように自宅に向かっていると、物陰から男性が顔を出し、馴れ馴れしく肩を組んできた。
知り合いでも無い男性が何故このような行為に及んでいるのかと疑問に思っていると、男性は私の両親の写真を見せながら、
「私の命令に従わなければ、きみの両親はこの世を去ることになるだろう」
突然の言葉に、私は状況を理解することができなかった。
だが、自宅の中に置いていたはずの母親の私物を男性が衣嚢から取り出したために、私は男性が本気なのだと悟った。
私に対して何を求めるのかと問うたところ、男性は共に生活することを望んだ。
何故かと再び問いを発するが、男性はそれ以上答えることはなく、私を自宅に案内した。
用意された部屋には、布団以外は何も存在していなかった。
そこで、男性はこれからの私の生活について伝えてきた。
私がこの家で生活を続ける限り、私の両親に手を出すことはない。
しかし、私がこの一件を他者に話すことや、他者と余計な会話をすることを禁じた。
私を支配下に置くことの理由を知りたかったのだが、男性は何も語らず、私の部屋を後にした。
もしかすると、私の肉体を目的としているのではないかと震えたが、男性は私に対して指一本も触れることはなかった。
その代わりとして、男性は私に対して、自身の娘と身体を重ねることを望んだ。
下着姿で現われた彼女が虚ろな目をしていることから、おそらく私よりも酷いことをされているのだろう。
彼女を私の部屋に連れてくると、男性は即座に部屋を後にするため、私は彼女と身体を重ねることなく、慰め続けた。
当初は表情を変化させることはなく、言葉を発することもなかったが、同じ時間を共にしていくうちに、やがて変化を見せるようになった。
そして、私はとうとう男性の目的を知ることになった。
彼女いわく、男性は娘のことを案じているらしい。
他者と関わることが無い生活を続けている娘は、父親である自分が先にこの世を去った場合に、一人で生き続けることができるのだろうかと心配になったようだ。
そこで、私を利用することにしたらしい。
私が責任感の強い人間だと知った男性は、娘と関係を持たせ、その身に新たな生命が宿れば、私が彼女のことを支え続けてくれるに違いないと信じたようだった。
確かに、私は己の行為によって生ずる結果に対して、責任を持つようにしている。
私と関係を持った女性が私の子どもを宿せば、もちろんその女性とその子どもの生活を支えようと思っている。
娘を案ずる父親は立派だが、私の両親を人質にしたことは、許すことができない。
素直に相談してくれていれば、私は力になることを決めていただろう。
私は部屋を飛び出し、男性の向かって告げた。
「彼女のことは任せてほしい。裏切ることはないと約束しよう。ゆえに、私を家に戻してほしい」
男性は眉を顰めながら、私を見た。
視線がわずかにずれた理由は、おそらく彼女の姿を目にしているためだろう。
彼女が首肯を返したところを見ると、男性は私の両親の写真を破り、自宅に戻ることを許してくれた。
私は、彼女の手を掴みながら、家を飛び出した。
***
彼女の父親は、変わり果てていた。
病気のためか、骨と皮だけのような状態と化している。
都合が悪く、見舞いに来ることができなかった彼女の代わりに、私は彼女の父親の顔を見に来たのだが、眼前の男性に対する同情の念は無かった。
私の両親の生命を狙っていた人間に優しくする道理は無いからだ。
無表情で己を見つめている私に気が付いたのか、男性は手招きをした。
声を発することも難しくなっているのだろう、私は男性の口元に耳を近づけた。
そして、男性は弱々しい声色で、
「きみに対して、申し訳ないと思っている」
いわく、男性はかつて娘のために私の両親を人質にしたが、それは男性が望んだ行為では無かった。
何故なら、男性は娘に命令されたために、私を軟禁状態にしたからだ。
道端ですれ違い、一目で心を奪われた彼女は、私を己の所有物と化すために、芝居をしていたということだった。
私が目を見開いていると、男性はそのまま、生命活動を終了させた。
私は医師を病室に呼んだ後、部屋の片隅で男性の言葉を頭の中で反芻させていた。
男性の言葉が真実かどうかは不明である。
彼女に確認しようにも、もしも男性の言葉が事実だった場合、それを正直に話すことは考えられないだろう。
私は、どうするべきなのだろうか。
数分ほど考えたところで、結論が出た。
男性の言葉を聞かなかったことにして、今後も彼女やその子どもとの生活を続けることを決めた。
どのような事実であろうとも、私にとって今や彼女とその子どもは、支えるべき家族だったからだ。
私は病室を去り、家族が待つ家へと向かった。
だが、今までと同じように愛することは、出来なくなっていた。
言いなり 三鹿ショート @mijikashort
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