最終ページ

 すぐさま視界を手術室の扉に向ける。そこには、「へへっ」っといつものように笑う栞の顔があった。


 生きてるってだけで手術が成功かどうかは分からない。中断した可能性もある。でもそんなこと関係なかった。俺は栞の体に飛びつく。


「ああ、栞……お疲れ。お疲れ様。よく頑張ったな……本当に……」


 そんな言葉しか出てこない俺に先生はゆっくりと告げた。


「手術は成功です。二人とも、お疲れ様です」


 その言葉を聞いた瞬間、涙があふれ出てきた。もう栞が死の不安にさらされることは無いんだ。これからも一緒に人生を歩んで行ける。


 嬉しさと嗚咽に歯止めが利かない。抱きあって、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。胸に収まる栞も、静かに泣いている。


 用意している言葉はあった。栞と会って間もない頃、「綾波って苗字嫌いなんだ」と言っていた。だから、「これからは氷室として生きろ」みたいなことをカッコつけて伝えるつもりだった。


 でも、栞を見た瞬間、全部吹き飛んだ。頭の中は嬉しいって感情だけで、言いたいことの代わりに鼻水やら涙やらが出てくる。


 栞を包む力がどんどん強くなっていく。正直言うと怖かった。自分を見失いそうになるぐらいには不安だった。もし、栞がいなくなったらって嫌でも想像した。


 でもその全てを、抱きしめた栞の温もりが否定する。栞の心臓と音が体に響く。鼻水を啜る音が聞こえる。栞の体が生きてるって叫んでる気がする。


 病院だけど、泣き止むのが難しい。久遠は抱きつく俺たちを涙まじりに眺めている。栞の温もりを満足いくまで堪能した後、今度は二人で見つめあった。


「栞はさ、人は二度死ぬって言ったよな」


 久遠と喧嘩した日にも、栞と喧嘩した日にも俺はそれを聞いた。その時は納得出来なかった。素直に言うと今もできない。でも、言いたいのはそういうことじゃない。


「だったら、二回産まれたって良いんだよ。嫌いな苗字も過去も親も病気も捨てて、これからも俺と一緒に生きよう」


 俺の言葉に、栞は胸に頭を埋めた。戸籍上で頼れる人はいなくて、お金も自分で稼ぐしかなくて、それなのに病気に蝕まれ生きていく。そんな生き方、もうしなくていい。


 「ううっ……」と、栞の二度目の産声が病院に響き渡った––––。




 それから数時間後、俺は栞と病院の中庭を散歩していた。体調を診たり、体力回復を待ったりとそれなりに忙しくしてたのもあって、やっと二人で落ち着いて話ができる。


「なんかさ、蓮くんとこうやって何も思い詰めずに話すの久しぶりかも」


「だな」


 短く相打ちをして、ベンチを指差す。人が居ないではないのでイチャイチャできないのがちょっと悔しい。


 病衣びょういで駆け回る子供を見ながら、並んで座る。栞は一息つき、話し始めた。


「私、蓮くんからもらい過ぎてて、なんて言ったらいいか分かんない」


「別に気にしなくていいよ。俺も結構貰ってきた」


 栞と会って、いろいろ気づいた。自分の弱さも、友達の大切さも、親のありがたみも。だから多分、お互い様。


「私の中にね、蓮くんがいるって気がするんだ」


 栞は左手をそっと胸元に手を据えて、こちらを向く。


「ここにね、手を当てるとさ…………冷たいの」


「おい、どういう意味だ」


 懐かしい空気に苦笑する。朝のような重たい空気は微塵もない。栞の手が、胸から離れ俺の右手に重なる。でも、栞の視線は胸元に留まったまま。


「やっぱり手術の痕、気にしてるか?」


「ううん、これのおかげで私は生きてるんだから何も言えないよ。言えない……」


 繰り返す言葉には悔しさが混ざっていて、久遠の言っていたことは正解だった。栞は傷痕を触る。


 久遠が先に言ってくれていたおかげで、用意していた言葉をすぐに出せた。俺は栞の肩を優しく叩き、俺のネックラインを下げて胸元を見せる。


「お揃いだろ?」


 お揃いのぬいぐるみもキーホルダーも断ってきた。ペアルックだってしたことない。栞が心の奥底で待っていたはずの願望。皮肉にも叶ったのだから、使わせてもらう。


「だねっ!」


 暗い顔がパッと明るくなる。良かった。「何言ってんの?」とか言われたら泣きながらお揃いのタトゥー入れに行くところだった。


「そう言えば、ノートの信じてってやつ。効果あったよ。だいぶ落ち着いた。でも、悔いを残さず死ぬってやつ縁起悪いから消してて欲しかったな。あれ書かれたままだったから余計に不安になったし」


 やりたいことノートに死ぬって書いたままなの怖すぎる。栞は俺の意図を分かっていないのか首を傾げている。


「だって、後悔しながら死にたくないもん。それが今日だろうと何年も先だろうと。まだやりたいことノート一ページしか使ってないんだよ?二人でこの先何ページも、ううん、何冊も積み重ねていくんだよ」


 栞の一言に息を呑む。そうか、俺は今日しか見ていなかった。でも栞は今日を生きると確信して、何年も先を見据えていたんだ。


「あっ! そう言えば私が倒れてる時、久遠ちゃんに抱きついたって本当!? 浮気だ、浮気! 違う違う! 私たち結婚してるんだから不倫だよ!」


 まだその時結婚してないし不倫ではないはず。


「なんで知ってんだそれ……」


「蓮くんが手術受けてる時に話したの。でもいっか、結婚してるんだもん。蓮くんは私のなんだから」


 結婚ってワードが出てくるだけで心が弾む。俺たちは結婚したんだ。もう立派な大人の一員。


「久遠ちゃんに泣きつくって、それだけ私を想ってくれてるってことだもんね。初めて蓮くんの涙見れたし。今回だけ許したげる」


 眼鏡をクイッとあげ、イタズラに笑う。確かに、久遠の前でもお婆ちゃんの前でも泣いときながら栞の前で泣いたのは今日が初めてだっのか。


「蓮くんが泣きながら走ってきた時、やっと泣いてくれたって思ったもん」


「俺が必死に走ってる時そんなこと思ってたのかよ」


 てか高三が泣きながら走ってくる絵面、怖すぎ。沈黙が生まれ、栞がいつものように話を変える。


「これから何しよっか。花火も見に行きたいし、映画館にも行きたいな」


 どちらも、以前二人で行こうと話し合った場所。でも俺は先にやらなきゃいけないことがある。


「それはあと半年お預けで。俺、大学受験あるし」


 それが親との約束だ。久遠も同じ大学を目指すんだしそれほどキツいとは思っていないけど。


 栞は高校卒業後、看護関係に進む。栞は若くして子供には重すぎる問題を自分一人で抱え込んでいた。そういう人を一人でも減らそうと臨床心理士りんしょうしんりしを目指すらしい。


「そっか。受験勉強頑張ってね。終わったら一緒に遊びに行こ」


「うん」


 キスとかハグとかをやりたい気持ちは山々だけど、そんなのこれからいっぱいできる。今は、肩を寄せ合い、手を重ね合っているだけで幸せだった。





 ––––この日から九年と七ヶ月後。彼女は、俺に見守られながら、安らかに最後の眠りについた。



 これにてストーリーは完全完結ですっ! ありがとうございました! あとエピローグが一話とあとがきだけあるので良ければ読んでいってください!

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