彼女との「一生」
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手術当日がやってきた。手術の一連の流れを頭の中で思い描く。まず、俺の肺の片方を下半分だけ取り除く。そして、栞の手術に移行する。肺線維症により固くなった方の肺を全摘出し、最後に俺の肺を栞に移植。
言葉にするのは簡単だが、肺移植の難易度は他の臓器の移植に比べて異様に高い。人工機器を使い、呼吸を一時的に機械に任せるのだからその理由は明白だ。
それでも、現在の医学技術は凄まじいもので、肺移植の成功率は九割を上回っている。
栞の特徴的な症状と体力面を鑑みて、成功率は七割程度だと言われた。たかが三割、されど三割。油断できる数字ではない。しかし、気を引き締めていこう、と結論づけたとしても俺には願うことしか出来なかった。
「蓮くん、怖い顔してる……のはいつものことか。険しい顔してるよ」
考え事をしているとヒョコっと栞が顔を覗かせる。自分だって怖いだろうにおふざけ気味に笑ってくれる。なぜ神様はこんなに優しい少女に試練を与えたのだろうか。
「この顔がデフォルトだ。でもまあ、ちょっと不安だわな」
「蓮、びびってるの? 手術の何が怖いのよ」
俺を気にかけてくれる栞に対し、久遠は
「どう考えてもお化けよりは怖いだろ。俺の体こじ開けられんだぞ。正気じゃねぇ」
「それは言えてる」
久遠は軽く声を上げながら笑う。一方栞はどこか悲しげだ。自分のせいで手術を受けることになったと負い目を感じているのだろうがそれは考え過ぎ。
「栞、暗い顔してるぞ。いつもみたいに可愛い顔しててくれ」
彼氏らしく励ましてやろうと俺の出来る最高の笑顔を作る。
「何? 何? 怖いんだけど。えっ、しおりんの前だといつもそんななの? ホラーじゃん。あとで私にもやってよ」
久遠は目を見開き、半歩下がりながらそう言う。今のそんなに気持ち悪かったかな……。んで、最後に欲望が出ちゃってる。
「やらないからな」
俺と久遠の一連の流れを見ながら栞はふふっと笑う。少しは笑顔になってくれた。
「氷室蓮さーん」
俺の名前が呼ばれる。手術が始まれば栞の手術が終わるまで会えない。もちろん、失敗していたら二度と会うことは叶わないけれど。
「じゃ、行ってくるわ。栞、待ってるから」
「うん…………ねえ……」
背中を向けると、栞に名前を呼ばれた。俺は振り返らずに、言葉の続きを待つ。
「蓮くん、大好きだよ」
栞は口角を上げて笑う。やっぱり可愛い。どう返事するのが正解なのだろうか。「俺も」なんて言うべきか。「大丈夫」と安心させるべきか。でもどちらも違う気がした。
「またな」
そう小さく呟き、ゆっくりと助手さんの後ろに着いていく。心臓はバクバクしてるし、足はガクガクしてる。でも、不思議と怖さは無くなっていた。
「彼氏くん、えー、今日はよろしく頼むよ」
「はい、よろしくお願いします」
栞を担当する先生に声をかけられ挨拶を交わす。今日の手術も栞の方はこの先生にやってもらう。
「えー、私は初めて会った日に酷いことを言ってしまったね。それを謝らせて欲しい。申し訳ない」
そう言って先生は頭を下げる。あの日、悪かったのは俺だったはずだ。勝手にキレて、勝手に怒って。それでも、俺の中にあった僅かな正義を認められたような気がしてどこか嬉しい。
「代わりというわけではないが、今回の手術、私なりに無理を通させてもらうつもりだった」
頭を上げると、優しい声で続けた。
「改正されて十八歳が認められたとしても身体への負担は変わらない。多少甘く報告しようと思ってたんだけどね。署名もあれだけ集めてくれた。それに、君の肺は普通の男性より数段強い。おそらく、どちらかが無かったら委員会から認められなと思う」
先生の口から出る言葉に肝を冷やす。陸上をやっていなければもしかすると手術の許可がおりなかったということだ。中学生時代の努力も逃げも無駄じゃなかったと安堵する。
それにしても、署名ってなんだ? 俺はそんなことしていない。情報収集と栞の介護で手一杯だった。しかし、そのことを聞く前に最終確認が始まってしまった。説明が終わると、麻酔をする。寝てないのもあってかすぐにすぐに瞼が重くなり始めた。
重々しい頭にはぼんやりといろんなことが浮かんでくる。手術代は全額分を国が出してくれるとか、後遺症とリハビリはキツくなるとか。どうせなら栞のことが出てきて欲しかったな。
気の利かない俺の頭に悪態をついていると、とうとう意識は暗闇に堕ちていった––––。
目を開ければ手術は終わっていて、あっという間どころか、あっと言う暇もなかった。
五分も経てば体は動くようになり、手すりを使いながら部屋に向かう。父さんや母さんは過剰に心配してくれたけど、手術が終わったって感覚のほうが無いくらい。
ふかふかのベッドに腰を下ろす。それと同時に自分の手が震えているのに気づいた。わかってる。ここからが本番。
もし失敗したら、なんて考えたく無いけれど、考えないようすればするほど嫌な想像は膨らむ。
ここまでして、栞が死んでしまったら、後に一体何が残るだろう。それならば残った時間を有意義に使い、思い出作りに専念していたほうが幾分マシ。
伝えたい言葉なんていくつもあった。大好きも愛してるも可愛いも言い足りない。
栞と出会った一年ちょっとで言い切れるわけないんだ。でも、言ってしまったら、死んでしまいそうで怖かった。
俺はどこまでいっても怖がりで臆病者。大丈夫。そう心で呟く。この数ヶ月、何度自分に言い聞かせたか。それで安心できた試しはないけれど、心の中で唱え続けた。
コンコン––––
ノック音に体が跳ねる。返事も待たずに開いたかと思えば、久遠が立っていた。
「お疲れ様、どうだった?」
「しゅかれた」
クッソ、まだ麻酔が抜けきってなくて呂律が回らない。特に何も考えずに答えたのが仇になった。
「ぷっ、しゅかれたって何!? 顔真っ赤じゃん!」
久遠はお腹を抱えながら笑っている。本当に、いつでも久遠は久遠だから安心できる。
「うるしゃい、もういいだろ」
「ごめんね、うるしゃくしちゃって」
後でしばいてやろうと決意しながら、久遠に座るよう促す。席についた久遠はふぅーと深呼吸を挟んだ。やはり久遠も怖いのは同じらしい。
「気になったんだけどしゃ、署名って久遠の仕業か?」
さっき先生に説明された署名。俺の知らないところで署名活動が行われていたとして、それが出来そうなのは久遠ぐらい。
仮に久遠だとすると納得できる点もある。久遠は栞の病院を知っていてもおかしくない。俺が手術のお願いに行った日に言われた、「やはり君なんだね」という言葉にも合点がいく。
「あっ、知ってたんだ。蓮が頑張ってるの知ってて、私には何ができるだろって考えてたら、それしか思い浮かばなくて」
不安で染まった顔を無理に引き攣らせて笑う。久遠も、俺のように時間と労力を費やしてくれたのか。その上で俺を支えて、胸を貸してくれた。その署名がなかったら手術にすら辿り着けていないのだ。感謝しても仕切れない。やっぱりしばくのは辞めておこう。
「そっか……ありがとな。でもどうやって?」
「最初は私一人で頑張ってたんだけど、全く集まらなかったんだ。恥ずかしいけど、十人ぐらいだった。それでりんりんにポスター作ってもらったの。そしたら百人以上集まったんだよ! 凄くない!」
「いや、誰だよりんりん」
人数の前に擬音語みたいな登場人物のインパクトが強すぎて理解が追いつかない。
「
「凛ちゃんを知らないな」
知ってるのが当然のように言われるがまるで記憶にない。久遠はあり得ないと言わんばかりの顔で俺を睨んでいる。
「ほら、中学の時に蓮に告白した女の子じゃん。観覧車で言ったでしょ。美術部に入ってるって。だから協力してもらったの」
「あの子、凛ちゃんっていうのか」と、口から溢れる。当時は覚えていたんだろうけど。思わぬ支援者に感謝しておく。
「でも百人じゃ何にもならないからさ、お父さんにお願いして、署名集めてもらったの」
久遠の言葉に顔をあげる。観覧車の中でも会話に上がったが、久遠の父は区長で、それなりに厳しかった記憶がある。
「お陰で三千人は集まったよ。代償も大きかったけどね」
悪戯に笑う久遠が何か言いたそうにして、代償を聞けと目が語ってくる。それでも先に出たのは感嘆の声だった。
「三千人って凄いな……。それで、代償って?」
家族だから、お金とかではないだろうけど、久遠の夢や後継ぎなんて話を持って来られると申し訳が立たない。
「俺が言う国立大学に受けろ、だって。蓮と同じとこ。一緒に頑張ろうね」
部活の大会もあっただろうに、そこまでしてくれたのか。
「ああ……頑張ろう」
気づけば手の震えも無くなっていて、久遠の力に驚かされる。久遠からは貰ってばっかりだな。
俺は久遠の突き出してきた腕に拳をぶつけ、ヤンキー漫画よろしく誓い合った。
「さっきしおりんと話したんだ。どうせ蓮は不安でちびってるだろうから話し相手になってあげてって」
「だいぶ久遠の翻訳かかってるな。栞はちびってるとか言わないぞ。言うならもうちょっと鋭い言葉飛んでくるから。不安なのは事実だけど……」
俺の言葉を終わりに沈黙が生まれる。俺も久遠も不安で仕方ないのだ。それを会話で紛らわしているだけ。落ち込んでいる俺を見かねてか、声をかけてくれる。
「大丈夫だって、ほら、私に比べてしおりんはここ薄いから。肺まですぐだよ」
そう言って自分の胸部を強調する。
「人の彼女になんて事言うんだ……」
でも、それが久遠の良いところ。言いたいことを言って、相手を少しでも盛り上げようとする。これがコミュニケーションの秘訣でもあるのだろう。
「だけどね……どっちにしたって、女の子の大事な体にメスを入れるのは心にくるものなの。そこのフォローしてあげてね。私はこれで」
久遠はそのままドアノブに手をかけた。久遠の言葉の意味は何となく分かる。フォローも難しいけど出来なくはない。最後にこちらを見る久遠に、もう行ってしまうのかと悲しくなった。
「もう行くのか?」
「こんなこと言いたくないけどさ、仮に失敗したとして、栞が手術受けてる間、私と話してただけだったら、蓮傷つくでしょ。私はずっと、蓮に傷ついてほしくないだけだから」
優しくも冷たい声で、そう言い放つ。それは俺を思っている言葉なのに、どんな言葉よりも重くて、苦しくて、安心できた。
「言い忘れてた! しおりんからのメール見ることっ!」
久遠はそう言い残して去っていく。扉が閉まれば俺一人。病院特有の僅かなアルコール臭が鼻を撫でる。
俺は久遠に言われた通り栞からの連絡を見てみた。するとそこには一件のメールが。
『私は遺書なんて書く気ありません! 絶対にこの手術、成功させます! だから、やりたいことノート見て! 私が、不安で押しつぶされそうな蓮くんのために、魔法の言葉を書いてるから!』
この一通だけ。遺書なんて書く気がないのは栞らしい。そう言えばやりたいことノートとかあったな。完全に忘れてた。だいぶ前に栞に返していたはずだけど何処にあるのか。
辺りを見回すと枕の下に黄色いノートが見えた。ほとんど新品の綺麗なノート。使われているのは最初の見開き一ページだけ。
星を見に行く。久遠にも病気のことを話す。俺の誕生日を忘れないものにする。栞の誕生日も忘れないものにする。と、箇条書きにされた項目に丸が付けられている。
俺が書いたやりたいことにも全てに丸が付いていた。
でも一つだけだけ、「・悔いを残さずに死ぬ。」という項目が残っていて、少し複雑な気分になる。こんな縁起の悪い文、消してても良いはずなのに。
次のページにも特に何も書かれていなかった。魔法の言葉ってのがいまいち分からない。栞はいったい何処に何を書いてくれたのか。
白紙のページをペラペラとめくる。最後の一ページで俺は手を止めた。たった一言、一ページを使って大きく書いてある。その言葉に栞の思惑通り安心させられる。
『信じて』
「信頼」とは、蓮の花言葉。楠木さんの「相手は氷室くんを信頼してたのかも知れません」という言葉が蘇る。
想像の域を出ないけど、栞が俺を信じてくれていたのだとしたら、今度は俺が信じる番なのかもしれない。
それから一時間、栞との一年半を思い出していた。出会ったときはなんだこの人って思ったし、趣味が合うと分かってからはそれなりに楽しかった気がする。
好きと気付いてからは栞との関わり方も分からなくなり、付き合ってからなんて言わずもがな毎日が夢のような日々。
栞がもう少しで死んでしまうと分かって、俺は彼女を傷つけた。でも助けられると知って、いてもたってもいられなくて、死に物狂いで体を動かした。
栞が帰ってきたとき、どんな言葉をかけてやろうか。俺ができることなんてたかが知れているけれど、最大限をしてやりたい。そんなことを考えているとドアが開けられた。
「蓮! 栞ちゃんの手術……終わったらしい」
父さんは息を切らしながら、俺にそう告げた。麻酔はもう切れてるはずなのに、駆け出した足はもつれている。
手術室から俺の部屋はそう遠くない。だけど、物凄く遠く感じる。結果は分からない。父さんの様子を見る限り、手術中のランプが消えたのを見て真っ先に走ってきたって感じだった。
そこを曲がれば手術室。奥には顔を青くして同じ場所に向かう久遠の姿もあった。俺もそのような顔をしているのだろうが気に留めている暇はない。
「栞!」
俺は病院の中なんてこと気にせず、声に出して、角を曲がった。
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