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「綾波栞さーん」
僅かにアルコールの匂いがする病院の中、栞の名前が呼ばれる。俺は栞の行きつけの病院に連れられていた。
病院以外にも、土日を利用し星を見に行くことになっている。やりたいことノートを少しずつ減らしていこうという試みだ。
慣れたように診察室に進む栞に、もどかしい気持ちを抱えながらついて行く。先生は少し小太りの中年男性。黒縁メガネと白髪が似合う医者だ。
「綾波さん。そちらの方は?」
「えーっと、私の彼氏です! んんっ、今日は見学ですね」
「どうも。よろしくお願いします」
軽く会釈をし、丸椅子に腰を下ろす。先生は彼氏のことについては言及せず診察を始めた。
「そうですか。えー、レントゲンを見た限りですが、症状は安定しているようですね。えー、このまま安静にしていればではありますが、もしかすると夏休み明けまでは動けるかも知れませんね」
先生の言葉に栞も俺もコクコクと頷く。調子が良いことは栞の表情を見ていても分かる。でも治るわけじゃないし、可能性があるってだけの話だ。
近況報告は毎度の流れなのかそこで間が生まれる。今日俺が呼ばれたのは、病気のことを知る機械の計らいもあるのだろう。だったら質問ぐらいしていいはず。
「すいません、栞の病気の原因って分からないんですか?」
「そうですね。
「そうですか」と息を吐くように相槌を打つ。どこへいっても、俺は無力だと思い知らされる。
俺の両親はタバコを吸わないし、もちろん俺も吸わないのでタバコの依存性は授業で教わった程度。
それでも、子供が出来て、喫煙を続け、病気だと分かったら責任ごとその子を捨てるなんて余りに酷い話。怒りが拳を握る力と比例する。
「えー、綾波さんも最近は調子が良いらしいですし経過を見守りましょう」
そうやって、経過を見て、見殺しにするしかないのだろうか。そう思ってしまい、無意識に先生を睨む。助けられないのに、何が見守るだ。
そんなこと俺だって同じはずなのに、怒りは消えてくれない。
「体に癌が見つかったり、右の肺が完全停止したわけではありません。えー、幸い、左の肺も動いていますし、大丈夫でしょう」
先生の言葉を聞いた瞬間、椅子から立ち上がった。何が幸いだ。左の肺が動いていることなんて当たり前。幸いなことなんて何一つ無い。胸ぐらを掴んでやろうかとも思ったが、寸前で堪えた。
「何が幸いなんですか? 栞が捨てられたことも、不治の病に侵されてることも、今年の秋は迎えられないことも、何も幸いなことなんて無いでしょ!」
突き刺すような目で医者を睨み声を荒らげる。ふと、冷たい栞の手が俺の左手に添えられた。
「蓮くん」
名前を呼ばれただけ。それでも目で、手で、微笑みで、辞めてと訴えかけている。そんな寂しそうな顔されて、なんで言えばいいんだよ。先生は何も悪くない。勝手にキレて、叫んで……馬鹿が。
「すいません。頭冷やしてきます」
先生の口から出た「あんな人が彼氏でいいんですか?」という問いに、栞の答えを聞かぬまま、俺は扉を閉めた。
診察室の前のソファーに腰掛ける。ああ……どんどん自分が嫌いになっていく。自分は何も出来やしないくせに一丁前に人の揚げ足ばっか取って。
自分に自信があったわけじゃないが、これほど自分が栞に釣り合わないと思ったことは無かった。
自分がダサいことよりも、栞に恥をかかせてしまったこと、栞の顔に泥を塗ったことが、ひどく辛い。
ふと、車椅子が見えた。水族館の時も歩くだけでしんどそうだったな……。これから星を見にいくために歩くし、借りておくか。
少しでも栞のために何かしてないと、自分に失望してしまいそうだった。だから、自己満足だと分かっていても、動くしかない。
診察室から出てきた栞に苦笑いしながら車椅子を見せる。多分、栞もこれが先ほどの詫びなのだと分かっているはずだ。それでも「ありがとう」と笑って座ってくれるのは、優しさと情けだ。
病院を出て電車に乗り、少し遠出をする。山の近くで降りたら車椅子を押して坂を登った。
「さっきの質問、私ね、ちゃんと怒っといたから。貴方にあの人の良さは分からない、って」
「いい所なかったからな。そりゃ分からんだろ」
「まさかお医者さんに怒鳴るとはね。でも私もちょっと腹たってたからスッキリしたよ。自分の手を汚さずにやり返しが出来て」
続けてははっ、と笑い声を空に飛ばす。わかりやすくボケてくれる栞の優しさに、また一段と惚れてしまう。
「言い方悪すぎ」
「蓮くんの目つきレベルだね」
「突き落とすぞ」
二人して笑いながら山を登る。栞といると、自己嫌悪も消えてなくなる。嫌だ、栞と離れたくない。そんな思いが何度も心を蝕む。
カラカラと車椅子の進む音が足跡を残す。急な斜面で車椅子を押すのはしんどい。なのに、この疲れが無くなって欲しくない。無くなった頃には、栞はいないのだから。
気づけば宿に着いてた。隣にあるコンビニで晩飯を買うらしい。
「そのカップラーメンにするんだ。私もそれにしよ」
俺の取ったインスタント食品を続けてカゴに入れる。
「同じのばっかりになってるぞ」
「別にいいじゃん。あっ、これでお揃いって言い張るのは無理だからね」
首を180度回転させ、振り向きながら言う。
「何の話だよ」
「おーそーろーいー。もうタトゥー以外許さないんだから。あっ、やりたいことノートに書いとこ」
流石にネタだよな。タトゥーは嫌だぞ。なんて考えながらレジに並ぶ。マジで嫌なんだけど。痛いって聞くし。
「千二百八十円になります」
財布の中を開くと五千円札と千円札が一枚ずつ。百円玉が一枚に九十円しかなかった。微妙に払えない。
「悪い、百円借りていいか。五千円札崩したくない」
「全然いいよ」
可愛い財布から出てきた百円を貰い、支払いをするとログハウスに向かう。
「悪いな。今度返すわ」
「気にしなくていいのに。そもそも私のも買ってくれてるんだし。それに、死ぬまでにお金使っとかないと
車椅子から立ち上がり、面と向かってそう言われると
「って言うか百円に泣いたね」
「懐かし、いつの会話だっけそれ」
ずいぶん昔な気がする。栞とあってすぐぐらいだったはず。
「ほら、蓮くんの家に初めて行った時の駅のホームじゃなかった?」
「半年以上前か」
なんて会話しながら借りたコテージに入る。コンビニの隣にあるのだが、山ということもあり人通りはめっぽう少なく、他にもログハウスも見当たらない。それなりに穴場らしい。
「あの頃はまだ私のこと綾波さんって呼んでたよね?」
「綾波さんも俺のこと氷室くんって呼んでたよ」
「綾波さんになってるじゃん」
ツッコミを受けながら置いてあった冷蔵庫に色々詰めていく。過去を懐かしむのが、死ぬ前の身辺整理のようで辛い。今している会話を懐かしむ頃には、隣に栞は居ないのだ。それが、ひどく怖い。
「もう飯食うか?」
「そうするよ。ゆっくり星空見たいし」
袋からラーメンを取り出しポットで湯を沸かす。今は六時半。まだ星が見えるのは先だろう。
二人でご飯を食べ、テレビを見て時間を潰した。空はもう暗くなり始めている。
「先お風呂入っちゃおっか」
「ああ、もう沸いてるぞ」
小さめだが部屋に風呂もトイレも着いているので相当快適だ。ベッドもしっかり二つある。
「一緒に入る?」
栞の提案がボケだと分かっていても少しドキッとする。
「入らねーよ」
「えー、三分五万円だよ」
「金取るのかよ。てか高っ!」
栞の方を見ると綱引きみたいなポーズをしながら見えない糸で俺を引っ張っている。
「蓮くんなら特別価格で三分十万栞ポイントだよ」
「栞ポイントって何?」
「私が蓮くんに感謝するごとに十栞ポイントで、幻滅するごとにマイナス千栞ポイントだよ」
「鬼畜すぎる……てか早よ入れ」
そう言うと「へいへい」と特徴的な相槌と共に風呂に向かっていった。ホカホカの栞と入れ替わりで俺も風呂に入る。
風呂ではどうしても嫌なことを考えてしまう。これは俺の悪癖なのか、他の人もそうなのか。
最近考えてしまうのだ。自分はとても弱い人間ではないのかと。今まで人と関わらなかったから、傷ついたことが少なかっただけで、本当は何からも逃げてしまうような人間じゃないかと。
久遠が強いんだと思っていた。栞が強いんだと思っていた。でも違った。俺が弱くて、そのくせ自意識だけは過剰で、理想が高くて、人の否定だけは一丁前で。
自己嫌悪で染まった心をシャワーで洗い流す。こんな気持ちで楽しめるわけがない。切り替えていこう。パンっと頬を叩きながら風呂を上がった。
栞が浴衣姿だったのを思い出し、俺も浴衣に着替えて部屋に向かう。
「早く見よ! ベランダ出たらもう満天の星空だよ!」
一足先にテンションが爆発している栞に腕を引っ張られベランダに出る。湯冷めしそうで怖いが、栞の笑顔が暖かいのでどうでもいい。
空には想像以上の星が灯っていた。輝くそれは宙を広げ、僅かな色の違いが、空を描く。
「ここにこれて良かった」
「俺も。1人じゃ、一生見れなかった」
離れたくない。だから俺は、栞の手を強く握った。小さくて、
「街灯も綺麗だね」
「でもあれって残業のブラック会社から出る光だぞ」
「
「上手いな」
自分から振っておいてなんだが、話の内容と景色の解釈が一致しなくなった。栞もそう思ったのか話を変える。
「この前蓮くんさ、なんで私が本を読むかって聞いたじゃん」
「ああ、確か名前が理由だったよな」
デート一日目の夕日を見ながらだった気がする。四ヶ月前のことなのに遠い昔のように感じる。あの頃はまだ、終わりもなければ始まりも無かった。
「あれね、嘘なんだ。小さい時から長くないって言われてたから。他の色んな人の人生を生きてみようって思って、本を読み始めたんだ」
「そうか……」
気の利いたこと一つ言えない。これで、何が彼氏だ。結局、栞の優しさに甘えてるだけの凡人以下。
「だから、実はこの病気、嫌いになれないの」
二つ目の告白に、俺は目を丸くする。自分の体を蝕む病気を嫌いになれないなんて、そんなわけない。
「なんで? って顔してるね。だって、病気じゃなかったら私は本の世界に足を踏み入れなかった。だから、私たちが出会った日に図書室に行くこともなかったし、冷さんの子供って理由で声もかけられなかった」
つまりは、皮肉にも病気が俺たちを繋げ、出会わせたというのだ。
「私、病気でよかった。蓮くんに会えて良かった。早く伝えときたかったんだ。死ぬ直前だと長生き出来ないジンクスみたいなのあるし」
「蓮くんに会えて良かった」そんな、甘い言葉が、鼓膜を溶かし、喉を焼き、心臓を縮める。
言葉にできない感情が、
「俺は……栞と会えなくてもいい。会えなくてもよかった。それで、栞が病気じゃなくなるなら、生きられるなら、それでもいい」
「ダメだよ。蓮くんと会わなきゃ、それはもう私じゃないよ」
何言ってんだ。そんな言葉が出かかって、彼女の眉を顰める笑顔に口を噤む。
「人は二回死ぬって言ったでしょ。だから忘れないでね」
諦めた笑顔が、体をこわばらせる。分からない。理解できない。どうして……。自分に渦巻く負の感情が頭を掻き乱す。疑問がこびりついて、吐き気をもよおす。
栞が生きるのを諦める理由なんて病気しかないのに、それが納得できなかった。何故という疑問は、怒鳴り声となって俺の口をこじ開けた。
「なんで、そんな平気な顔して諦められるんだよ! 俺は、栞に死んでほしくない。何が二回人は死ぬだ。俺は、栞に生きて欲しいんだよ!」
俺はまだ受け入れられていない。久遠の前では覚悟は出来ているなんて言っときながら、それでも一緒にいたいと願ってしまう。
繋いだ手を振り解いて、はぁはぁ、と肩で息をする。顔を上げた先にあった、栞の顔。それから先の言葉。全て、俺の今の言葉が元凶だった。
「平気な顔? どこが! 私が本気で平気な顔して諦めてると思ってた!? なんにも知らないくせに!」
俺を睨む栞に押され、一歩後ずさる。やってしまった。一番やってはいけないことをしてしまった。
見たことない顔で吠える栞は、今まで抱えていた全てを吐き出しているかのように思えた。
「なんて言えばいいのよ! 願ったって私の病気は治らない! 私だって生きたいに決まってるじゃん! でも死にたくないなんて言ったって、どうにもならないんだよ」
俺は下唇を強く噛んだ。なにやけになって、栞にまで八つ当たりして。何人傷つけて何回叫んだら気が済むんだ。
栞は酷く落ち込む俺の顔を見たのだろう。息を整え、言葉を探している。
「ごめん……悪かった。栞のこと、」
「謝んないで、今のは私が悪いよ。あんな言い方して、蓮くん、なんも思わないわけないもんね」
俺の謝罪を遮り、そう言って背を向けた。俺が伸ばした手は、すんでのところで届かず、トイレに駆け込む栞を惜しむだけ。
先ほどまでは綺麗だった星も、今や嫌味にしか感じられない。俺は逃げるように部屋に戻り、栞の帰りを待った。
俺は栞に叫んで何をしたかったのだろう。椅子に座りながらそんなことを考える。あんなこと言ったって病気が治るわけじゃない。栞に生きて欲しいって言って、何が変わるというだろうか。
栞を好きなのと同じぐらい、自分が嫌いだ。俺は昔から嫌いなことから逃げる性分だった。コミュニケーションが苦手で人から逃げ、完全に負かされることが嫌いで陸上から逃げ、今もこうやって責任から逃げている。
どう考えたって、栞と釣り合っていないだろ。栞ポイントがあったならマイナス一億は優に超えている。
時計の針が時を進め、気づけば二時半を指していた。眠気はない。ただ、自分への失望や嫌悪や憎悪や激怒や落胆が俺を襲う。
ため息を吐くと同時に、栞がトイレから戻って来た。
「まだ、起きてたんだ」
「寝れないだろ」
何を言えばいいのか分からない。正しい道なんて、さっきの言い合いで塞がってしまった。俺みたいなやつは慰めることすら満足に出来ない。
俺は何も持ち得てない。栞の死を受け入れる強さも、慰めて安心させる優しさも、何もかも。女の子を泣かせて、傷つけて、叫ばせて、一体俺は何をした?
「ごめん。俺、何も出来ないや。だから、好きにしてくれ。叫んでくれても殴ってくれてもいい。それで、栞が少しでも楽になるんなら」
俺はこんなダサい言葉を言うので精一杯だった。何も成し得てこなかった付けが回ってきただけ。
「……っ」
俺の一声に栞が胸に飛び込んできた。一回りか二回り小さい体が、肩に収まる。
「死にたくないよ……怖い、死ぬのが怖い。生きたい」
文脈なんて考えず、栞は自分の頭に浮かんだ感情を吐露する。
「蓮くんと別れるのが怖い。蓮くんの隣に違う人がいるのが怖い。蓮くんに睨まれるのが怖い。蓮くんの温もりが怖い。蓮くんとのまたねが怖い。蓮くんから嫌われそうで怖い」
俺の背中に栞の腕が通される。それでも俺は抱きしめない。抱きしめられない。こんな俺が近づいたって、また傷つけるだけだから。
「十年後、蓮くんの隣にいるのが私じゃないのが辛い。お願い、助けて。私を助けて」
彼女のお願い。俺にはどうしようもなくて。だから、抱きしめてやれない。頭を撫でてやれない。そんな権利、俺には無い。
いつもみたいに「期待すんなよ」って、そう言って頭を撫でてやれば、栞はずっとずっと楽になるはずだ。
でもできない。もししてしまったら、そんな自己保身と自己満足を盾にする自分を許せなくなる。
俺と栞は二人で同じベッドに倒れ込む。栞は俺の腕で泣いている。抱きしめて、大丈夫だよと言ってやる強さが俺にあれば、少しは何か変わったのかもしれない。
日曜はいつものようにイジってボケてツッこんでの会話だった。
でも、次の日から、俺は栞を一方的に避けた。学校にも行かず、メールも返さない。そうして時は流れ、冬は終わり、年度が変わり、新学年になっても、栞から距離を置いた。
栞と顔を合わせないまま、余命宣告の日まで、三ヶ月を切った。
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