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 栞の病気を知り、共に歩むと決めてから早くも半月が経った。残り半年と思えば思うほど、短い。


 そんな残された時間、俺と栞は少しでも多くの思い出を作ろうと色々なところに行って回った。昨日はクレープ屋に、一昨日は美術館に。今日は久遠にも病気のことを話すと言っていたのでそれを眺めるぐらいだろうか。なんて考えながら放課後の廊下を闊歩する。


 俺はまだ栞の死を受け止める準備ができていない。だからこそ、自分なりに病気の概要を調べてみた。


 特発性肺線維症とくはつせいはいせんいしょうとは全国患者約一万五千人の指定難病であり、原因は不明。初期症状は咳や息切れだけだが死亡率は肺がんの次に高いらしい。男性は六十代が多いが女性は若いうちにかかることもあるんだとか。


 恐ろしいのはここからで、この病気は予後不良にあたり、生存率が低い。呼吸不全により死亡することが多いため対処が困難で平均生存期間が三年から五年ほど。


 栞は先天的かつ慢性型であったため今でも生きられていると言っていた。一万人に一人と言われている病気。なぜ、それが栞なのか。そう考えるだけで世界が憎くなる。


「久しぶりー、しおりんから呼び出しなんて珍しいじゃん! どうしたの?」


 校舎裏からだろうか、微かに久遠の声が聞こえる。久遠は栞が病気と知って、何を思い、何を伝えるのだろう。俺のように逃げて欲しくはないと思い、駆け足で一階に向かう。


 グラウンド側からは運動部の人たちのランニングの掛け声が聞こえて来るが、校舎裏は比較的静かだ。冬の冷たい風が、校舎に沿って渡り廊下に流れ込む。いくらなんでも寒すぎ。


 ポケットに手を突っ込みながら二人の話を盗み聞きする。


「だから、ごめん。私、もうあと半年で死んじゃうんだ」


 栞の声の後、数秒の沈黙が流れ、久遠は声を張って物申した。


「嘘……じゃ、ないよね? じゃあ……じゃあ、蓮はどうするの?」


 諭すような声が聞こえる。正面から話せるのは久遠が強いからなのか、俺が弱いからなのか。予熱のある二人をよそに、行き場のない自分への怒りが湧いてくる。


「蓮くんは……それでも一緒にいてくれるって」


 微量の嬉しさと、久遠への不安が漏れ出た声色こわいろで小さく伝える。それに対し、久遠は感情が爆発したように捲し立てた。


「違う、そんなこと聞きたいんじゃない! 蓮は? 蓮はどうするの! 残された人がどう思うか考えたことある!? 自分が蓮と居たいからって、蓮を縛るのは、自分勝手だよ」


 感情を吐露する久遠は珍しく、息が詰まる。それでも、俺が栞に縛られるなんて言われて、隠れたままでも居られなかった。自分への怒りも相まって、俺は壁裏から出る。


「ごめん、盗み聞きしてた。久遠、俺は自分で選んだつもりだ。だから栞が悪いとか、自分勝手だとかは、言わないでやってほしい」


「蓮……」


 急に出てきたからか、ボソリと俺の名前を言う。ただ、その後、俺を睨みつけながら近づいてきた。その瞳には雫が浮いて見えて、久遠の想いの強さが分かる。


「蓮も分かってないでしょ。1番傷つくのは蓮なんだよ? 蓮なんてずっと引きずる性格してるじゃん。それなのに、なんで無理に付き合おうとするの? しおりんが大切なのは分かってる。でもさ、もっと大事なものがあるんじゃないの?」


 ね? と共感を求めるように縋り付く。分かるでしょ? と心に訴えかけてくる。傷つくのも、引きずるのも分かってる。だけど俺は「それでも」と、口を開いた。


「それでも俺は栞と居たい。久遠が言いたいことも全部じゃないけど分かる。傷つく覚悟も出来てるし、今諦めたところで、ずっとずっと引きずる。なら俺は、最後まで一緒にいてやりたい」


 久遠の焦茶の瞳を貫くように見続ける。これが俺の答えなのだと分からせるために。でも久遠はそれで止まっちゃくれなかった。


「違う! 違う違う! 私は蓮が傷つくために二人にアドバイスしてた訳じゃない! 二人が上手くいくならって、それで幸せになれるならって、そう思って、本当にそう思って……。手伝った意味も無くなっちゃうじゃん」


 心から心配した目で俺を見つめる。久遠の言葉を咀嚼しながら、胃の底にあった怒りが這い上がってくるのを感じた。意味が無くなるなんて、そんな、俺たちのキスとか、デートとかが意味なかったみたいに言うなよ。何も言えず立ち尽くしている栞のことを忘れ、毒を吐いた。


「そんなの、誰も頼んでないだろ。恩着せがましいのは辞めてくれ。仮に久遠のおかげだったとして、何か言われる筋合いはない。口出ししないでくれ」


 久遠の言う通り、栞が死んでしまったら思い出なんて遺産ですらない。でも意味が無いなんて誰にも言わせないし、他人にだけは認めさせない。


 俺は久遠を睨みつける。最初は久遠と栞が決別するのを避けたかった。でも今は、湧いてくる怒りを彼女にぶつけているだけだ。そうだと分かっていてもこの視線は緩まない。


「分かった。もう口出ししない。でも最後に一つだけ、そういうの、依存って言うんだよ」


 正面から言う勇気がないのか、目を逸らしてそう言った。「依存」その言葉が脳に焼き付く。俺が栞に抱いているのは、依存なんかよりもっと酷い、妄執や執着のようなものかもしれない。でも、だからなんだって言うんだ。俺が栞を愛していることだけは否定させない。


「お前が、そんな奴だとは思ってなかった」


 俺が最後に放った毒は今まで1番短くて、何の道理もない、ただの久遠への失望。久遠は何か言いたそうに俺を睨みつけた後、背中を見せて走って行った。泣いてるように見えて、あるはずのない罪悪感が心を殴る。


 久遠とまともに喧嘩なんてしたこと無かった。いつも一方的に論理責めして、久遠が謝りながら大人の対応をする。だから久遠をお前なんて呼んだこと、一度も無かった。久遠の人格を否定するつもりなんて、一切無かった。


 言いたいこと言って、言われて、後にはもどかしさと後悔しか残らない。変に高鳴る鼓動を落ち着け、栞の方を見た。


「ごめん、私のせいで喧嘩しちゃったみたいで……」


「栞のせいじゃないよ。今のは、俺と……久遠が悪い」


 罪悪感も、悔いも感じるのに久遠への嫌悪は消えてくれない。やっぱりそれは、俺と栞を否定されたような気がしたからだろう。


 確かに二人の関係の前進に久遠の手助けは必要不可欠だった。それは認める。だとしても、意味が無いことなんて一つもないし、誰かにそれを決められたいなんて微塵も思わない。


「俺の何が悪かったのかな」


「罵倒してもらって少しでも罪悪感消そうとか思ってるんでしょ。そんな都合のいい女にはなってあげないんだから」


「うっ……」


 図星を突かれ何一つとして言い返せない。久遠の言葉も俺の仕草も、間違っているのに、感情だけは間違っている気がしなくて頭を悩ませる。


 久遠との破局がここまで心にくるものとは思ってもいなかった。でも仲直りなんて到底出来そうにない。もし、俺が最後の一言を言わなければ、まだ修復できたかも知れないのに。一瞬の怒りで、十年の友情を潰したような気がする。


 小さく落ち込んでいると、「ふふっ」と栞の口が開く。


「私は都合のいい女にはならない。でも、いい女にならないとは言ってない」


「なにそれ。カッコいい」


 普段を装い、控えめな胸を控えめに張る栞に笑い声が漏れる。溢れた笑みも期待に変わっている。でもまだ久遠を許す気にもなれないし、俺自身も許される権利なんてないと思う。


「仲直りなんて出来ないって思ってるんでしょ。私に任せて」


「そこまで言うなら頼んでいいか?」


「うん。蓮くん頼りのとこもあるけどね」


 そう言って、久遠が走って行った方に歩いてゆくので俺も後に着いていく。どこにいるか知ってるのだろうか。すると栞がくるりと振り返る。


「着いてこないで」


 結局、俺は同行を許されず、反省と不安、久遠への怒りを胸に、電車に揺られ家に帰った。帰宅中、嫌でもさっきのやりとりが頭に浮かんだ。


 久遠の、栞のことを思っていないとまではいかないが配慮に欠ける言い草。俺と栞に依存と言った事実。俺の態度が悪かったのも間違いじゃないが、だとしても看過できない。


 というか、栞と久遠を一緒にいさせて大丈夫なのだろうか? 後になってことの重大さに気づく。喧嘩終わりはどれほど切羽詰まっていたのか。栞と久遠だってそれなりにギスギスした関係で終わっている。


 なのに俺と久遠との間を取り持ってくれるというのだから本当にありがたい。自分のせいで喧嘩してしまったという罪悪感もあるのだろうけど。


 なんてうだうだ考え事をしていると栞から電話がかかってくる。


『もしもし、蓮くん、とりあえず電話繋げといてね』


「なんで?」


 早速、自分ルールを押し付けてくるの栞に呆れながら質問する。


『仲直りしたいんでしょ?』


「そうだけど……いま久遠の近くにいるのか?」


 質問の答えになってないと思いながら推測を広げる。ここで仲直りの話が出てくるってことはそういうことだろう。


『当たらずとも大当たり』


「なんだそれっ」


 ツッコむが、とりあえず繋げといてね。と受け流されつつ命令される。正直いま久遠の意見を聞いたところで何も変わらないと思うのだが。


 ポケットに入れたような衣擦きぬずれの音が聞こえ、すぐその後に久遠の声も聞こえてきた。


『しおりん……なんでここに……?』


『メールで言ってたじゃん。落ち込んだ時はここに来るって』


 どこで会話しているのだろうか。俺は無意識に、スマホを耳に強く押し付けていた。


『あの……さっきはごめん!! 私、しおりんのこと何にも考えてなかった。自分のことばっかで、本当にごめん』


 なんでそんなにあっさり謝れるんだ。そうやって、誰の力も借りずに彼女と向き合えるんだ。どれだけ俺は弱いんだ。自分の無力さにスマホを握る手が強くなる。


『自分のことばっかなんて、そんなわけないじゃん。蓮くんは分かってないけど、私は分かってるよ。久遠ちゃんは蓮くんのことを一番に考えてたんでしょ?』


 聞こえてくる栞の声に俺は耳を疑う。久遠が俺のことを一番に……? 俺は先ほどの記憶を掘り返す。


 久遠が病気のことを知った後の第一声、それは「蓮はどうするの?」という問いだった。


 その後も残された人のこと、しいては俺のことを指していて、一番傷つくのも俺だと言ってくれていた。その上で、俺を傷つけないようにしていたのだ。


 そうだと分かればまた体は止まろうとしなかった。外に出て、辺りを見回した。二人がいる場所に当てなんかない。


『どうだろ? 結局、蓮のこと怒らせちゃった。しおりんは気に病む必要ないからね。私が考えなしに二人を傷つけちゃったのがいけないんだから』


 どうしてそうやって自分を責めれるんだ。俺なんて久遠が悪い理由を頭ん中で並べて、怒りを正当化してただけなのに。


 二人がいる場所。久遠が行きそうで、栞が行ける場所。学校でも久遠の家でもない。


『蓮はしおりんのことが一番大切で、私が一番大切にしてる蓮自身は、傷つく覚悟があるって言ってた。なら、当然だよ私のこと考えてなくたって』


 久遠の正論に胸がえぐれる。俺なんて、栞のことだと言い張り、大義名分で自分を守っているようなやつなのに。


『そんなことないよ! ちゃんと、久遠ちゃんのことも考えてる。これ、持って』


『蓮……聞いてたの?』


 栞がスマホを久遠に渡したのだろう。さっきよりも近くから久遠の声が聞こえる。


「ああ、さっきから盗み聞きばっかりで悪い。それに、俺も、久遠のこと考えてなかった。本当にごめん」


 スマホを耳に当てながら、中学の時鍛えた肺と足で街を駆ける。なんて言われるのだろうか。怯えつつも目的の場所を視界で捉えた。


『今更なんでよ。私は蓮達に酷いこと言ったんだよ? 私のことなんて気にかけなくていいから」


 スマホから聞こえる声と、耳に届く声が重なる。小さな公園、その中に二人の女性が立っている。俺は腕を下ろして肩で息をする。


「気にかけないなんて出来るわけないだろ! 久遠と喧嘩してからのたかが一時間でどれだけ後悔したと思ってるんだ! 久遠が俺のためを思ってそう言ってくれたって知って、苦しかった、だから、ごめん。俺が悪かった」


 久遠に向かって頭を下げた。あの、雨の日に俺が傘をさしてやった公園。俺が久遠をフった公園。俺の弱さを教えられる公園。


「辞めてよ、私のことなんか忘れて、二人で仲良くすればよかったじゃん! 私は酷いこと言っちゃった。私はそんなやつなんだよ。蓮が言ったんだよ。私だって自分のことそう思う」


 俯いて、傷心しながら搾り出すように言った。


「俺は、勝手に久遠が酷い奴だと決めつけた」


 久遠に吐き捨てた言葉。取り消すことなんて出来ない。でもこんなの、上書きしてやる。


「だから、次も俺が勝手に決めつけさせてもらう。久遠は……俺なんかよりもずっと大人で、周りが見えてて、優しい女の子だって。こんな自分勝手な俺を許して欲しい」


 知らなかった。久遠の思いも考えも。知っていた。久遠が考えなしに人を傷つける人間じゃないってこと。


「ずるいよ。こんなこと言われて、距離取るなんて出来ないよ……」


 泣き崩れる久遠に栞が駆け寄る。宥めた後ベンチに腰掛け、俺と久遠は腹を割って話した。俺は怒りに任せて久遠を否定してしまった幼稚なことを。久遠は俺のことを思って栞を傷つけてしまったことを。


 誤って、謝って、謝られて。落ち着いたらあることに気づく。


「三人で会話するって久しぶりだよな」


 俺の呟きに二人は目を合わせて頷く。数ヶ月ぶりだ。それでも三人の間に波はない。それが、暖かくて、終わりを思うと切なくなる。


 栞も同じことを考えたのか、それを掻き消すように言葉を発する。


「話があるの。二人は人っていつ死ぬと思う?」


 栞が話を切り替え、答えを促す。初めて栞にあった日にも聞かれたら問い。俺たちに病気のことを教えたら聞くつもりだったのだろう。大きな遠回りをしてしまった。


「哲学的な話だよね。私はやっぱり、死んじゃった時だと思う」


「俺も同感」


 短く久遠に賛同する。でも、若くして死が見える栞の生死の倫理観は違うのかも知れない。


「人って、二度死ぬんだって。一度目は二人が言った肉体的死が訪れた時、二度目は自分を覚えてくれている人がいなくなった時らしい」


 何となく、栞の言いたいことが見えてきた。概ね自分を覚えていて欲しいといったものだろう。その予想は的中し、想像通りの言葉を話す。


「だから、二人には私のことをずっと覚えていてほしい。多分、酷いこと言ってるんだと思う。でもお願い」


「当たり前だよ。ずっと覚えとく。一瞬も忘れない。約束する」


 久遠は何度も頷きながら栞に抱きついた。久遠にとって、栞の余命を知ったのは今日この日で、怖くなるのも仕方ない。


 長い間抱き合っていたが、久遠は夕飯が出来たとかで帰って行った。笑顔で手を振る背中は、先程の別れとはまた違った意味を含んでいる。


「ほらね? 仲直りできたでしょ?」


「はいはい、俺頼りのとこもあるってそういうことな。それと……俺たちの仲、取り持ってくれて––––」


 俺が感謝の気持ちを言いかけると上から可愛い声が被せられる。


「お礼より態度で示して欲しいでーす。だから蓮くんにはもう一つお願いするね」


「お願いって……期待すんなよ」


 今日は咳も無く、調子良さげな栞が明るく言った。


「私を、長生きさせてね」


 明るい声が、夕日と一緒に紫色の空に溶ける。栞への感謝が溢れ、夜空の星の一つにでもなっているかもしれない。それぐらい、栞に感謝している。


 だから、この時はまだ、栞と距離を置くことなんてないと思っていた。いや、もしかしたら分かっていたのかもしれない。自分の弱さをこの時から自覚し始めていたのだから。

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