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三学期初日。始業式も終礼も終わり、俺は酷い雨音をBGMに図書室に向かった。
『三学期初日、話があります。図書室で待ってます』というメールに不安を募らせながら廊下を闊歩する。
全くと言っていいほど予想がつかない。別れ話でさえなければいいのだが、なんの記号もついていない冷たいメールは初めて。
嫌でも負の想像が膨らむ。結局、冬休み中考えて答えの出なかった問いに、教室から図書室に行くまでの間で導き出せるわけもなかった。
ドアを開けば珍しく栞が先にいた。待っていますという文を律儀になぞったのだろうか。
「久しぶり」
「んんっ、久しぶり。メール見てくれたよね?」
「ああ、で話ってなんだ?」
俺がいつもの席に向かいながら問い返すと、バッと栞が立ち上がった。驚いて一歩後ずさる。
栞の手は小刻みに震えていて、視線も俺の足元あたりを見ている。
一体何を言うのか、俺に何を伝えたいのか皆目見当もつかない。顔を上げたかと思えば、彼女の目には既に涙が溜まっていた。
そして、ゆっくりと秘密を口にした。
「私、もう、長くないみたい…………」
何度か目にした諦めたように笑う顔。それを見てやっと言葉の意味を理解した。ただ、口はいうことを聞かなかった。
「長くないって……人生がってことじゃないよな……?」
肯定して欲しくて、うんと頷いて欲しくて、睨みつけるような視線で回答を促す。首を縦に振ってくれると思っていた。でも直接的には答えずとも、その先の答えとともに真実を吐き出した。
「私の肺、もう限界なんだって。夏休みの最後の方に、後一年だって言われたんだ……。だからあと半年しか生きられないの。へへっ、ごめんね。……私たち、どうしよっか?」
あと半年しか一緒にいられないと、栞はそう言っているのか? なんで今? 俺はなんて答えればいい?
頭の中では疑問符が浮かびあるだけ浮かび上がって、消えてくれない。
言いたいこと、言わなきゃいけないことは疑問符に溺れて沈んでしまう。浮かび上がってくるのは無作為に創られた怒りの感情。
「蓮くんはどうしたい?」
恐る恐る探るように聞いてくるが、それを汲み取る余裕はない。今はまだ、栞の言葉の一つすら手に取れていない。
「どうしたいって……そんなの……無理、だろ」
やっと出てきた言葉がそれだった。何が無理なのか。そんなの俺にも分からない。でも多分全部なんだと思う。
このままの関係を続けるのも、それを言葉にするのも、そうですかって鵜呑みにするのも、全てを諦めるのも。全てが無理で無茶で無情だ。
「そうだよね。ごめんね……」
「謝るだけとか、そんなのズルだろ……」
溢れ出しそうな無茶苦茶でぐちゃぐちゃな感情をどうにか押さえつける。漏れ出た言葉ですら、これほどまでに棘と毒がある。
謝るなよ。咎められないじゃないか。感情の行き場がなくなるだろ。この怒りはどこに吐き出せばいいんだ。
分かってる。うまく吐き出せないことも、言葉にできないことも。
無言で図書室を後にする。後ろから鼻水を啜る音と、膝から崩れ落ちるような音がしたけど、怖くて振り向けなかった。
傘をささず、雨に打たれながら街を歩く。豪雨とも呼べるそれは、体に強くぶち当たり、服と心を重くする。
人がほとんどいないことと、音がしないこと、それに加えて凍えるような冷たい雫が、体を冷やし孤独を感じさせる。この雨は頭を冷やせという神からのお告げか何かだろう。
心の中は血反吐みたいな臭くて汚い怒りと、絡まって解けない毛糸ののような疑問でいっぱいだ。
夏休みの最後に余命宣告されたと言った。それなら、なぜその時に言ってくれなかったのか。なぜ今なのか。これだけ大きくなった怒りは、元々栞に対する想いだったはずだ。
もし、もっと早くに伝えてくれていたら受け止めれたかも知れないのに。今はもう、栞が好きだという気持ちすらも分からない。
栞がいなくなるという実感が湧かない。確かに最近咳が酷かった。でも、すべて消えて無くなってしまうなんて、あんまりじゃないか。
これだけ濡れれば電車やバスには乗れない。徒歩で帰ろう。先が見えないほど遠いが、考える時間が必要だ。風邪をひいても栞と顔を合わせなくて済む。ちょうどいいじゃないか。
俺は栞を拒絶した。あれは決別だ。それも酷く一方的で自分勝手な。突き放し、泣かせ、見捨てた。自分からあの場を離れたはずだ。自分で決めたことだろ。
それなのに、それなのにどうして、さっきから涙は止まってくれないんだ––––。
頬を伝うそれは涙が雨かも分からない。赤信号に足を止めて、分厚い雨雲に覆われた空を見る。
「氷室くん、ですよね? こんなところでどうしたんですか?」
涙で前の見えない俺に、そっとビニール傘が差し出される。振り向けばそこには花屋の店員さんがいた。
「空くんのお母さん……俺は学校の帰りですよ。傘忘れちゃって。ははっ」
おどけて笑っても彼女の俺はの心配は消えてくれない。二人の間に沈黙が流れる。
「何かあったんですか?」
茶色がかった瞳が俺のしけった前髪をかき分け、瞳を射抜く。何かあったんじゃなく、何もなかったことになった。俺が選んで、俺がそうした。
「何も出来なかったんです」
俯きながら呟くと、白い息があたりに舞う。前髪が掻き上げられて、目が合った。彼女は整った優しい顔で「話してごらん」とそう言ってくれた。
温かい声で囁かれ、俺は名前を伏せ、ことの一抹を話した。栞と出会ったこと、共に過ごしたこと、付き合ったこと。そして、あと半年で他界してしまうということ。
今の感情も、掠れた怒鳴り声で吐いた。なぜ今なのか。残りわずかな命と知りながら、なぜ俺の告白を承諾したのか。
分からないのは結局この二つだった。俺の話を一通り聞いたあと、少し間を開けて話し出した。
「自然に咲く
急に花の話をし始めたので言葉が出ない。蓮の葉の知識はあった。名前の漢字が同じことや、
「泥の中でも蓮の花という言葉を知っていますか? 蓮の花は泥の中でも綺麗な花を咲かせることから、清らかな心を表す言葉です」
知っている。
「私は氷室くんのことをあまり知りません。でも、言います。今のあなたに蓮と言う名は似合いません」
大粒の雨がビニール傘に降り注ぎ、低い音を鳴らす。しかし、そんな音は気にならないほど強く、はっきりとした声で言う。
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
完全なる八つ当たりだと分かっているけど、俺は彼女を力無く睨む。
「それは自分で考えるべきじゃないですか? って投げやりにするのは親切じゃありませんね」
俺に蓮は似合わないと言った声とは違い、今度は小悪魔的な声で俺の怒りを受け流す。
「確かに今は自分のことでいっぱいいっぱいになるのも分かります。でも相手の視点から見ることで見えてくることもあるんじゃないですか? このままだと絶対後悔すると思いますよ」
「そう……ですよね」
このまま終わりでいいなんて、微塵も思わない。でも、俺は栞に合わせる顔なんて持ち合わせてないんだ。
「ちなみに、蓮の花言葉は「信頼」ですよ。相手は氷室くんを信頼してたのかも知れません。結論を出すのはちょっと早いんじゃないですか?」
信頼……もし仮に、俺を信頼してくれていたのだとしたら、栞は今なら受け止めてくれると考えて告白したんじゃないだろうか。
俺はそれを無碍にした。まだ取り返せるなら、もう一度だけ、チャンスが欲しい。
「ふふっ、私はこれでお
俺の頭にタオルを被せ、背中を向ける歩いて行く。ラベンダーの匂いが微かに鼻を撫でる。
「待ってください! あの、ありがとうございました。お名前聞いてもいいですか?」
「
「楠木さん、またお店行きますね」
そう言うと、お待ちしていますと笑顔で答えてくれた。俺にはやらなきゃいけないことがある。ちょうど信号が青だったので小走りで渡った。
「蓮の花––––花言葉、離れゆく恋。どうか、彼の恋が上手くいきますように」
雨の中、そんな一言が、聞こえた気がした。
俺は楠木さんに言われた通り、相手目線になって考えてみることにした。なぜ今になって病気であることを言ったのか。
それはなんとなくだが分かるきがする。キスをし、俺たちは短くも濃い時間を過ごしたつもりだ。だから、その時間の大きさが、受け止めてくれると思ったのではないだろうか。
今思えば、二学期中旬から栞が悲観的になり始めた気がする。急に泣き出したり、涙ぐんだりと少し不思議には思っていた。
デート1日目。夕日を見ながら涙したのはおそらく余命宣告があってのことなのだろう。デート約束の日だって余命宣告されて数日後の出来事だ。雷を怖がる栞が、体も心も弱いと嘆いていたのを思い出す。
もう長くないことがわかっていたのだろう。逃げ出したのにも関わらず、まずは栞と話がしたい。今は五時半、風呂に入ってから栞の家に向かうと七時ぐらいだろうか。計画を立てると再び栞のことを考える。
ノートの内容だって繋がったじゃないか。「死にたい」「死にたくない」と書き殴られたノート。あれを見たのは出会ってまだ日の浅い頃だった。だから余命宣告ってのはある程度前々からされていたことの可能性もある。
親にすぐ捨てられて、すぐに孤児院に入ったと聞いていた。もし捨てられた理由が、先天的な病気だとしたらあまりにも酷い。ただ、筋は通っている。通ってしまっている。
すぐさま風呂を上がり、着替えて栞の家に向かう。もう帰っている頃だろう。でも、合わせる顔が無いのは事実だ。開口一番謝って許してもらうしかない。
許してもらえるにしろもらえないにしろ、俺がやりたいことは決めておかなければならない。
栞とこの関係を続けるってことは、別れが死別となるということだ。それでもいい。傷つくのは、残されるのは俺かも知れない。それでもやっぱり、俺は栞の近くにいたい。
アパートの部屋の前、インターホンを押すのが
『はい?』
「氷室です……」
返事はなかったが、ドアの奥から足音が聞こえてくる。その足音が止まるとすぐさまドアが開けられる。
「どうしたの?家まで来て……」
軽蔑の目を向けられると思っていたが、今の栞の目には心配と不安しか伺えない。俺は深々と頭を下げる。
「さっきはごめん。俺はまだ、栞と一緒にいたい」
「っ……そんなこと言うために家まで来たの?」
「ごめん」
俺はまだ、下を向いたままだ。もし許してもらえなかったらどうしよう。久遠にでも相談して何十回でも挑戦するしかない気がする。
「謝るだけとか、そんなのズルだよ」
優しくも棘のある言葉に顔を上げる。学校で俺が放った言葉だ。栞はしてやったとばかりに笑っている。
「許してくれたりは……」
「許すわけないじゃん。こんなにか弱い女の子傷つけといて、んんっ……」
「だよな。ごめん」
か弱いかどうかは後で考えるとして、ダメ元でもう一度謝っておいた。
「もう離れない?」
「ああ、多分」
「この空気で1発目から多分って付けるのは蓮くんだけだよ」
栞は今頃軽蔑の目を俺に向ける。俺は栞より弱い。だから今日も逃げたし、これからも逃げるかも知れない。それでも戻ってくるはずだから。
「もう、睨まない?」
「ああ、睨まない」
「もう、見捨てない?」
「絶対に」
俺は栞を睨み、見捨てて、離れたのだ。たとえその時間が少なかろうと、平気なはずがない。俺がした罪で、この罪悪感が俺への罰だ。
「本当に?私は信じていいの?」
「ああ、信じてくれ」
俺は栞の両方を優しく掴む。
「嫌なら引っ叩け」
俺はそう言って、唇を近づける。俺からやれと言われたキス。今、それを持って証明する。
彼女は何をするか察し、に目を閉じる。そして、優しくキスをした。前回のような愛を育むキスじゃない。イルミネーションに照らされたクリスマスイブのキスじゃない。そんな、綺麗なキスじゃない。
それでも、ここにある想いを確かめるようにキスをした。
唇を離すとビンタが飛んでくる。俺は驚きのあまりキョトンとした目で栞を見た。
「蓮くんからのキス、もっとムードがある時にやって欲しかった」
「ならやる前に引っ叩けよ。嫌なら引っ叩けって言ったじゃん」
「嫌じゃなかったもん」
…………可愛すぎる。彼女は恥ずかしそうに目を逸らし、頬を膨らませながら眉を
その後は「まだ話したいことあるから入って」と、半端強制的に部屋に入れられ、机に対面して座った。
「蓮くんが正面に座ってる景色久しぶり」
「今年初めてだもんな」
なんなら二学期が最後だから半月ぶりぐらいだ。栞は自分の秘密を話す準備をしているのだろう。それを俺も待ってやる。
栞は準備が整ったと言うように、手のひらを机の上に置いた。
「私ね、生まれつき肺の病気なんだ。
俺は栞の言葉に頷くことしかできない。聞いたこともない病名。だから、せめて聞き逃すことのないように努めた。
「ちょっと専門的になるんだけど、この病気って中年男性の喫煙者に多いんだって。でも家族から遺伝するケースもあるらしいから、私のは先天的なものなんだと思う」
じゃあ、栞は何も悪くないじゃないか。恐ろしいほど大きな怒りの感情が、心の中で渦巻く。
「生まれた時から言われてたの。二十歳までは生きられないだろうって。思ってたより、早くなっちゃった」
へへっ、と学校の時のように眉を下げて笑う。辞めてくれ、なんでそんな顔が出来るんだよ。
「なんとか言ってよ」
何も言えない俺に、何か言葉を言って欲しそうに声をかけられる。でも優しい言葉や気休めの言葉なんて一つも思い浮かばなくて、無理矢理口を開く。
「その……なんだ、移植とかって無理なのか?」
言ってて気づく。そんなもの出来たらとうの昔にやっているはずだ。
「うん、私、珍しいみたいで片方の肺だけほとんど動いてないんだ。それで、移植って急がなきゃいけないみたいだから、特徴的な症状の人は難しいみたい」
「そうだよな……」
もし俺が看護志望であったなら、もう少しはマシなことが言えただろうに。今ここにいるのは無価値なただの高校生。
「難病だから治し方も分かってないみたい。それでも、残った時間私と一緒にいてくれない?」
「当たり前だ」
「ありがとっ、エホッエホッ……じゃあ、やりたいことノート作るから協力してくれる?」
やりたいことノートってのは残された時間でやりたいことをまとめるノートって認識でいいだろう。ありがちなやつだ。俺はコクリと頷く。
栞は黄色いノート取り出し一ページ目を開ける。そして点を打ち、箇条書きに付け足してゆく。
・久遠ちゃんにも病気のことを話す
・星空を見に行く
・蓮くんの誕生日を祝う
・久遠ちゃんの誕生日も祝う
・私の誕生日も祝ってもらう
最後に、「・悔いを残さず死ぬ」を付け足してペンを止めた。
「こんなもんかなー? 蓮くんは何か気になるとこある?」
「読点をつけて欲しい」
「今、天然いらないから」
食い気味にツッコミつつも律儀に読点を付け足す。見返すと誕生日ばっかだな。半分誕生日なんだけど。それ以外の中で一際目立つ文に目をやる。
「星空を見に行くってなんだ?」
「星空っていうのはねー、星で輝く……」
「今、天然いらないから」
人工的に天然を演じる栞にツッコミを入れる。
「えーっとね、蓮くんから貰った栞の夜空を見て、星空見てみたいなーって」
机の隅に置いてあった、栞を見ながら言う。
「そうか、行けたらいいな」
「一緒に行くんだよ? バカなの?」
「言い過ぎだろ。俺もちょっと思ったけど」
「蓮くんと一緒に!!」と星空の項目の横に太字で付け足している。目立ちたがりなその項目を見ていると頬が緩む。
「じゃあ、蓮くんはこの隣に私にしてくれること書いて」
「なんで? いいけど」
栞が箇条書きしたすぐ右隣に一本線を引く。そして右側の欄にまた点を打ち始めた。
これがA型特有の自分ルールってやつだ。
「協力してくれるんでしょ?今のところ読点を注意しただけの鬱陶しい人だよ」
「確かに」
ノートが半回転して俺の方を向き、ペンを手渡される。まだ温もりのあるペンに意識を持っていかれながらも考える。
・栞の誕生日を忘れられないものにする。
・俺の誕生日も忘れられないものにする。
・親に紹介する。
とりあえず3つ埋めたところで手が止まる。いくらなんでも早すぎるって。しかも半分以上誕生日なんですが。俺も人のこと言えねー。
「少なっ! なによ、親に紹介するって」
「初の彼女だからな。自慢させてくれ。俺の彼女可愛いだろって」
「もう……」
大きな目で睨みつけてくるので目を逸らす。
話が途切れたので聞いておきたかったことをオブラートに包みながら質問する。
「嫌な質問だったらごめん。なんで栞は俺の告白OKしたんだ?一応アレなこと分かってたわけじゃん」
「蓮くんは死ぬって分かってたら目の前にあるステーキ食べないの?」
「なるほど」
栞の説明が腑に落ちたので、これにて疑問は晴れた。ふと時計に目をやる。針はもう八時を指している。いい時間だろう。
「もう帰るわ。今日はその、いろいろごめん。あと、これからもよろしく」
「うん。あっ、このノート蓮くんが持っといて。あと一つでいいから付け足してね。ちょっと少なすぎるし」
「はいはい」
黄色いノートを片手に、傘を刺す。後ろでは栞が大きく手を振ってくれている。両手が塞がっていて振り返すことはできないけど。
家に帰るとガクリと膝から崩れ落ちた。しんどい。しんどすぎる。いろいろありすぎた。疲れすぎて脱皮しそう。
俺はあと一仕事、黄色いノートの俺の欄に栞の家で書こうか悩んだことを付け足す。書かなかった理由は達成できないから。ただの願望になってしまうから。後になにも残らないから。でも…………
・栞を死なせない
と、そう付け加えてノートをパタリと閉じた。本の背表紙を眺めるが、本棚に手が伸びることはなかった。
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