共産主義の猫

mimiyaみみや

第1話


 𓃠

 映画館を出ると雨が降っていた。

 どこかで凌がねばと俺は別れた妻にもらった愛用のクラッチバッグを濡らさぬようコートの内側で押さえ、目についた店の軒先に駆け込んだ。バーのようだ。アル中になり断酒してもう十余年になる。酒を出す店を避けるうちに自然とそういう店は視界から消す癖がついていたようだ。俺は前世の記憶に触れたかのようなデジャヴを伴った感動を覚えた。

「ああ、ここはバーだ」

 コートの雨粒を払っていると、ふと足元に汚い段ボールがあることに気がついた。ビニールの軒の綻びから雨が滴り段ボールの端を濡らしている。これだけ汚れていては大事なものではあるまいに、俺は何の気無しにフェラガモのトラメッザでその段ボールを雨に当たらぬ位置に寄せた。そしてその中に痩せた子猫を見つけた。


 𓃠

「料理は止めた方がいいわ」

 メニュを眺めていると、隣の女に声をかけられた。二十歳にも三十歳にも見える女だが、セミロングの髪にグレーのニットワンピースのセンスは悪くない。

「どうして?」

「店主がイギリス人なのよ」

「なるほど」

 小汚い外観のバーであったが、店内ほどではなかった。しかし酒は安く、店は賑わっていた。L字型の店内の一番奥、カウンターからは見えないテーブルに俺は腰を掛けた。ふたり掛けがふたつ、スペースを埋める為に無理やり詰め込まれたかのような席だ。

「あら、猫ね」

 コートの襟元から顔を出した猫を女が見つけた。

「店の前で拾ってな」

 猫は冷たく俺の胸を冷やした。女のテーブルにはオリーブと白のグラスワイン。他人に興味など示さぬような女であったのに、意外とお喋りらしい。

「コーニッシュレックスだ」

 俺はけむに巻こうと適当なことを言った。

「だったらイギリス料理は口に合うかもしれないわね」

 お喋りで生意気な女らしい。


 俺はショートカクテルとナッツ、猫のためのミルク粥──メニュにはオートミールと書かれてあったが、出てきたそれはミルク粥であった──を頼んだ。久しぶりの酒をおっかなびっくり口に運ぶ。

「それと、灰皿をくれ」

 そう追加すると「私も灰皿を」と女が言った。

「切らしてたのよ」と女がねだるので、おれはピンキージョークの紙巻きを分けてやった。

「名前、なんにするの?」

 女が囁くようにそう尋ねた。味のしないミルク粥を半分以上食べ、猫は俺の懐に潜り込んでスヤスヤと眠っていた。暖かさを取り戻した猫は息を吸うたび膨らみ、俺の胸を押す。その猫を起こさぬよう女は囁き尋ねた。

「さあな」

「飼うのよね?」

「おまえが飼ってもいい」

「うちでは飼えないわ」

「どうして?」

「寮なのよ。学校の」

「学生なのか?」

「留学生なのよ」

「どこから?」

「猫の名前、コニーにするわ」

「飼うのか?」

「あなたの家でね」

「悪いが、俺はそこまで人間ができていないんだ」

 雨が上がれば、俺はこの猫を元の段ボールに入れるだろう。それで、元通りの生活だ。俺に猫を飼う余裕はない。


「極東州から来たの」

 女が唐突に言った。店内が静まり返り、女の言葉に耳を澄ませたように錯覚した。俺はカクテルで口を湿らせた。店は相変わらずうるさく、俺と女に一片の興味も持っていなかった。

 北朝鮮が解体され、極東州として中国に吸収されたのは、つい二年ほど前のことだ。ニュースで連日流れた黒煙を思い出す。

「どうりで口紅の赤がよく似合う」

 俺はたばこの煙を吐きながらそう言った。

「嫌な人。普通は同情して優しくなるものよ」

 ガラスの灰皿にはすでにタバコが十本潰れていた。

「私の生まれた国が、いい国だったかはわからないわ。でも、帰る国がないっていうのは、海岸に立つ蝋燭みたいに、いつ消えるともしれない不安定さがあるの。肩書きが欲しくて留学生になったのよ。中国の補償でね。ゴンサンジュイ、マンセ。(注:共産主義、万歳の意)」

 女は美しく微笑んで見せた。

「帰るわ。また金曜、コニーを連れて来てちょうだい」

 目覚めた猫が俺の襟元から顔を出していた。女は体を寄せ、猫の額を指先で撫でると席を立った。

「俺は飼わないぞ」

「文句は来週聞くわ」

 店主を呼び、会計をしてもらう。後ろポケットに手を伸ばし、財布を取ろうとして冷やりとした。椅子と腰の間に置いたクラッチバッグが無くなっていた。別れた妻にもらった愛用のクラッチバッグ。(やられた……)俺は取り乱さぬよう平生を装い、ポケットから財布を取り出した。百貨店のワゴンで安売りされていたクラッチ。病窓を眺める妻。渡された離婚届。友人として出席した葬式。酒浸りの日々。

「お客さん、バッグ落ちてるよ」

 伝票を持った店主が目の前にいた。

「ああ、ありがとう」

 俺は額の汗を拭い、椅子の下に落ちたクラッチバッグを拾い上げた。

 気取られぬようため息をつく。

 伝票には、女のオリーブと白ワインの値段も入っていた。

「お客さんにつけてって言われたよ」

 弁解するような店主に、俺は思わず吹き出した。伝票の通りの金を払う。

「ポイントカード作りますか?」

「まさか。でも、また来るよ」

 外の雨はすっかり上がっていた。来週、なんて文句を言ってやろうか。

 帰り道、猫は俺の胸を温め続けていた。

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共産主義の猫 mimiyaみみや @mimiya03

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