第13話 夏の始まり。終わった関係。




 ――ピッ、ピッ、ピーーーー!!

 32℃の夏空に中学三年生たちの部活を終わらせる笛が鳴り響いた。


 先輩たちは膝から崩れ、地面に伏して泣いていた。

 ベンチやグラウンドの一角で応援していたメンバーもみんな涙を流していた。

 勝った相手チームの選手が涙に打ちひしがれる先輩たちの背中に手を置きながら何かを話しかける光景がいくつも見受けられた。


「キミ、2年?」

 呆然としているところに声をかけられて振り返ると、マッチした相手選手が握手を求めていた。

「は、はい。次も勝ってくださいね」

 俺は相手の手を握り、勝者を称えた。

「おう。必ず勝つよ。キミも頑張って。

 ……実はキミ、ウチの監督から注意選手に挙げられてたんだよ」

「マジっすか!?」

 思ってもいなかった言葉に嬉しいやら、悔しいやらで、たぶん変な顔になっていると思う。

「だから、これまで通り練習を続けていけば、もっと上手くなると思うよ」

「ありがとうございます」

「じゃあ」

「はい。ありがとうございました」

 去って行く背中を見つめながら額の汗を腕で拭うと、丁度審判が整列の指示を出し、俺はまだまともに歩けない先輩に肩を貸しながら整列に向かった。


 俺は、最後まで泣けなかった。




「ここ数年果たしていなかった県大会出場という結果に俺は満足している」

 駐車場の端の大きな樹の下の木陰で3年生を含めての最後の反省会が始まり、佐久間キャプテンが話を始めた。


 佐久間キャプテンは色々な事を話した。


 入学から始まり、笑える話や試合に勝つ為に衝突した話。1年生から現在までをなぞるように語り、鼻を啜る音がそこかしこから聞こえていた。


「あと俺の最大の功績は何といっても南をマネージャーに引き入れた事だな」


 みんなから笑いが起こり、ゆりなは呆れたように笑いながら頭を下げた。


「さあ! もうここからは今の2年が引っ張る時代だ!

 3年みんなで話し合った結果、次のキャプテンは西岡にやってもらいたいと思っている。

 西岡、やってくれるか?」

「はいっ!」


 佐久間キャプテンは西岡に期待を込めた眼差しを送り、西岡は真面目な顔で正面から受け止めた。


 そして新キャプテンとなった西岡が初仕事の締めの挨拶をして俺たちの今年の夏大会は終わった。


 夕方頃に家に帰って、母親に結果を伝えて、労いの言葉を貰って、風呂から出ると俺の好物が並んだ夕食が待っていた。


 母の優しさを噛みしめながら今日無くしてしまった空間を埋めるように、いくらでもご飯が体の中に入っていった。


 いつもより早く布団に入って目を閉じると、瞼の裏には鮮明に今日の試合が鮮明に蘇ってきた。

 これ自体は他の試合のあった日や練習試合のあった日でも毎回思い返すけれど、瞼の裏の試合が終わって目を開けると、初めて涙が流れた。


「なんで今になって……」


 体を起こして腕で涙を拭ったが、拭っても拭っても、涙は溢れて止まらなかった。


 今のチームでもっと試合をしていたかった。

 もっと勝つ喜びを共有したかった。

 もっとできる事があったと後悔したくなかった。

 もっと上手くなるために努力しなければならなかった。

 もっと、もっと……。


 ――ヴヴヴ、ヴヴヴ。


 枕元に置いたスマホが震え、擦り過ぎてひりつく目元を拭ってスマホに手を伸ばす。


「ゆりなちゃんからだ……」

 通知を見て、少し考えてから中身に目を通した。


『今日はお疲れ様。

 結果は残念だったけど、とても良い試合だったと思ったよ。

 それで、明日は休みでしょ?

 気分転換に朝から海でも見に行こうよ』

「明日か……」

 気分転換が目的なのは間違いないと思うけれど、気分転換だけが目的じゃない事も俺は察していた。


「わかった。

 じゃあ、10時に駅前でいいかな?」

 ――ヴヴヴ、ヴヴヴ。

 返信が早かった。たぶん、スマホを持って俺の返信を待っていたのだろう。

『わかった。また明日ね。

 おやすみ』


 スマホを元に位置に戻して窓から外に顔を出して、ゆりなのマンションの方に視線を向ける。

 建物が見えないことは、もうとっくに知っている。

 他の建物の先にあるゆりなのマンションを、その中にいるゆりな自身に少しの時間、思いを馳せた。

 生ぬるい空気が風も無く体にねっとりとまとわりつく感じがした。


 窓を閉じて薄手のタオルケットを体にかけて横になって目を閉じる。


 明日は――7月29日は、俺の誕生日だ。




 6時のアラームで目を開くとまだ日差しは柔らかいものの、もう気温の面では25℃を超えているらしい。

 降水確率0%なのは良い知らせだけど、予想最高気温が34℃超えなのは嬉しくない。


 薄手のジャージに着替えて、朝食前に近くの公園までランニングに出掛ける。

 同じくランニングをするおじさんや犬の散歩をするおばさんたちとすれ違いながら公園まで行くと、小学生が数人集まってラジオ体操をしていた。


 鉄棒で軽く筋トレをするつもりだったけれど、小学生たちの邪魔にならないように素通りをして折り返しのコースに足を進めた。




 青のTシャツに白の半袖シャツを重ねて、黒の細身のジーンズを履く。

 もう、姉さんに用意してもらわなくても自分でチョイスできるようになった。

「それだけ2人で色んな所に出掛けたって事か……」


 襟を直して帽子を被り、エアコンを切って自分の部屋の戸を開けると、じわっと熱が体にまとわりついた。


 階段を降りて玄関で靴を履き、扉を開けて外に出ると太陽の眩しさとうるさいセミの声が待っていた。


「あっついな……」

 夏の殺人的な直射日光の威力に辟易しながら、ゆりなの待つ駅に向かう為、まずバス停を目指した。




 終点の駅前に着いてバスを降りていつもゆりなが待っている駅の階段前の広場の大きな木の方に目を向けると、さっそく男に絡まれているゆりなを見つけた。


「ゆりなちゃーん!」

 わざと大きめの声でゆりなに声をかけると、ゆりなはパッと顔をこちらに向け、炎天下も厭わずに俺の方に駆け寄って、しがみつくように俺の腕に自分の腕を絡ませた。

 ゆりなをナンパしていた男は俺たちの姿を見るや、バツの悪そうに足早にどこかへと行ってしまった。


 俺とゆりなは無言で男が見えなくなるまで背中を見送り、その間もゆりなは俺から離れなかった。


 すっかり見下ろすくらいの身長差が生まれたゆりなの頭を見下ろしながら、黒のベースに花柄のマキシ丈サマードレスが涼し気で少し大人びて見えた。


「今日の服もカワイイね」

「ありがとう! これ、この前お母さんと一緒に買いに行ったんだ!」


 俺の身体から離れて俺に向き直り、手をいっぱいに広げて服の全体を披露してくれたゆりなは飛び切りの笑顔で、家族との関係も良好そうで何よりだった。


「向こうで先にご飯食べたいから、行こうか」

「うん!」


 ゆりなは当たり前に俺の手を取り、引っ張るようにして駅の改札に向かう階段を上り始めた。


 改札を抜けてプラットホームに降りると、人の姿はそこそこ見受けられ、夏休みに入っている事もあってか、同じ年くらいの男女の姿が特に多く見られた。


 エアコンの効いた電車に乗り込み、俺とゆりなは海へと向かった。


 到着まで車内での会話は部活や一学期の成績の話をして過ごし、海が近くなると車内の人口密度もグッと高まった。


 海に一番近い駅でほとんどの乗客が電車を降り、俺とゆりなも列に加わって駅構外へと出た。


「暑いねー!」

「そうだね。あと海の匂いもすごい」


 ゆりなは肩掛けの小さな鞄の中から折り畳みの日傘を取り出して開き、日陰を作った。

 俺も帽子を被ってきて正解だったと、更に強さを増した夏の日差しに目を細めながら入道雲の浮かぶ空を見上げた。


あらかじめ調べておいた安くておいしいと評判の洋食屋に向かい、昼食を済ませた後、海の近くにある水族館に向かった。


 関東でも指折りの水族館で有名なだけあって、展示の数も多く、更に水族館側もSNS映えを狙った仕掛けが多くあり、雰囲気も良く、いくらでも見ていられるほどバラエティーに富んで面白かった。


 ゆりなはずっと笑顔でいつもよりはしゃいでいるように見えた。

 きっと試合に負けて落ち込んでいる俺を励まそうとしているのだろう。

 嬉しいと思う反面、それを受け入れるのを拒んでいる自分がいる事も自覚していた。


 浜に沿って続く道を並んで歩き、海を一望できる喫茶店でのんびりして、あっという間に帰らなければならない時間になった。




「きっと夕日の海もキレイなんだろうね……」

 ゆりなは水平線を眺めながら、しみじみと呟いた。

「見れるまでいたら、家に帰る頃には完全に夜になっちゃうよ」

「ははっ! そうだね」

 ゆりなは俺のツッコミに反応して海から視線を外して笑顔を俺に向けた。

「……電車が混む前に行こうか」

 俺はその笑顔を極力見ないようにして駅に向かって歩き始め、僅かに遅れて追いついたゆりなは当然のように俺の手を取った。


 帰りの電車は混んでいて、ゆりなが窮屈にならないように踏ん張ってスペースを作りながら耐えに耐えて、ようやく降りる駅に到着した。


「優輝くん、ありがとう」

「いや、それより大丈夫だった?」

「私は大丈夫だよ」

「それなら良かった」


 同じ駅で降りた多くの乗客が少なくなるのをホームで待ってから静かになった改札を抜けてバス停のある広場に続く階段を降りた。


 バスの到着を確認すると、まだバスの到着までに十分近く時間があった。


「優輝くん」

 名前を呼ばれて振り返ると、ゆりなはいつも以上の笑顔を俺に向けていた。

「目を閉じて右手を出して」

「何? 何するの?」

「いいから、いいから」


 ゆりなは笑いながら俺の右手を取り、俺は言われた通りに目を閉じた。

 ゆりなは俺の手を半回転させて手のひらを上にして手首のあたりで何かをしていた。


「これで完成! 目を開けていいよ」

 瞼を開くと俺の右手首に数本の太い糸で編まれた紐が巻かれていた。

「これって」

「誕生日おめでとう! それ、ミサンガ。願いが叶うと切れるんだって」

 ゆりなの話を耳にしながら、さりげなく結び目をちょっと触ってみるが、簡単に外せそうになかった。


「私はピッチに立てないから。

 せめて気持ちは一緒だよって分かっていてほしくて……」

 ゆりなは少しだけ寂しそうに笑いながら、俺の右手をふにふにと所在なさげに触れていた。


 俺も、俺の気持ちをゆりなに伝えなければならなかった。


「俺、この前の試合に負けて、生まれて初めてと思えるくらいに悔しかった」

 ゆりなはハッと顔を上げ、真面目な顔で俺の言葉に頷いた。

「今と同じまま続けていけば、一年後も同じ後悔をすると思うと嫌だと思った」

 俺の右の手のひらを両手で触れていたゆりなの手に力が入るのが伝わってきた。

「全国制覇なんて大それた目標を掲げるつもりは無いけど、負けるにしたって自分の全部を注いだ結果負けたい。

 中学の残りの時間はそうやって使いたい」

 ゆりなの大きな目が更に大きく見開かれた。俺の言いたい事に察しがついたのかもしれない。

 次に不安な表情を浮かべ、ゆりなの手に更に力が籠った。

「だから、もう、ゆりなちゃんの恋人役はできない」

 ゆりなは何か言いたげに口を開いたが何も言葉を発さず、開いた口の下唇を僅かに震わせながら少し痛いくらいに手に力が籠められ、そして徐々にその力は緩んでいった。

「……気持ちが落ち込んでるから、そんな考えが浮かんじゃっただけだよね?

 れ、練習の時間を確保したいなら、来年の大会までもうデートしなくていいから。

 夜のトレーニングだって、もう邪魔はしないし……」

 ゆりなは下を向いて弱弱しくも懇願するように俺の手を小さく上下させながら声を振り絞っていた。

「……そんな関係。意味なんてないよ」

「なんでっ! ……なんで」

 ゆりなには、もうこれ以上俺を追及する論理的な言葉がないようだった。

「今までは断る理由が無かったから。でも今は俺も俺の最優先したい事ができたから……」

 心を決めた俺の言葉にゆりなは何も言えず、恐々と俺の手をゆっくりと離した。


 バスが到着し、俺とゆりなを気にしていた周りの人も何事もなかったかのように乗り口に列を作り始めた。

「これはチームメイトからの贈り物として貰っておくから」

 手首に視線を落とした後にゆりなの顔を見ると、ゆりなは小さく首を振った。

 俺は少し踏ん張って抵抗するゆりなの背中を押しながら列に促してバスに乗せ、俺は同じバスには乗らなかった。

『乗りますか?』

 スピーカー越しにバスの運転手に問われ、俺は乗車口から一歩後ろに下がって乗らない意思表示をした。

 バスの扉は電子音の後に閉まり、ゆりなは窓に手を添え、目に涙を浮かべていた。

 静かにバスは走り出し、窓越しのゆりなの姿はすぐに見えなくなった。


 ゆりなを乗せたバスを見送った後、ベンチの一つに座り、ガックリと肩を落とした。

「振られて傷つくのはよく聞くけど、逆も思っていたより辛いんだな……」


 最後にまた一つ、人との関係をゆりなから教わり、そして俺とゆりなの歪な関係は最後を迎えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Y, 國澤 史 @kunisawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ