第9話 誕生日
――キーンコーンカーンコーン。
静寂の校舎内に全ての終わりを告げる鐘の音が響き渡り、全生徒の大半は深くため息を吐いた事だろう。
5月13日。中間テストの全日程がたった今、終了した。
「ふぅー……。できた?」
「4問目って、答え何になった?」
「遊びいこうぜ!」
「やっと部活できるよー」
クラスのみんなは学校や親からの抑圧から解放され、テストの打ち上げを開こうなど相談したりして騒がしかったが、俺にとっては新たな戦いの幕開けの瞬間だった。
5月13日。それはゆりなの誕生日だった。
一週間前からテスト期間に入り、みんな大小あれど中学生の中間期末が大事な時期だと理解しているからなのか、テスト最終日がゆりなの誕生日と重なっている事を把握している人は少ないようだった。
ゆりなの家でアルバムを観させてもらった時にゆりなの誕生日を知り、それから今日まで英単語を覚えるよりもたくさん頭を使ったけれど、ゆりなに渡すプレゼントはまだ決まらないまま、当日になってしまった。
ゆりなの家庭が裕福そうなのは住んでいるマンションの規模などから推察できる。
一般家庭の俺が何をプレゼントすれば喜ばれるのか、いつも問題はそこに行き当たった。
「よーシマ、部活行こうぜー」
イッチーに肩を叩かれ、俺も席を立つ。
加えて今日から部活が再開して、午後3時まで拘束されてプレゼント探しに歩く時間も大幅に削られる。
「ここは姉さんに頼るしかないか……」
俺はこっそり鞄からスマホを取り出し、姉さんにゆりなの誕生日プレゼントについての相談のメッセージを送った。
きっとこれで部活が終わる頃には姉さんからの助言が返ってきていると思う。
というか、きてくれていないと本当に困る。
「おーし、終了! 野球部に場所渡すから、さっさと撤収!」
テスト期間で1週間動かさなかった体の訛りを解す走り込み中心の部活が終わり、膝をガクつかせながらスマホを確認すると姉さんからの返信がきていた。
「良かったぁ……」
心から安堵しながら姉さんからのメッセージに目を通す。
『知らん! 優くんがあげたいと思ってるものだったら、何でも嬉しいと思うよ! ガンバレ!!』
「えぇ……」
たった一本の蜘蛛の糸が目の前でプツンと切られ、俺は大きくうな垂れた。
「どした?」
「いや……、何でも……」
途方に暮れる俺を不思議に思った同級生フォワードの新木が声を掛けてくれたが、その声には無言で手を上げて応えた。
部室を出て、野球部の声がする校庭の端を通って校門へ向かう。
「あげたいものかぁ……。そう言われても何でも持ってそうなんだよなぁ……」
これまでのゆりなとのデートを振り返る。
プレゼントをあげたのは一度きり。クリスマスのボールペンだけ。
デート中はお店を色々見て回るけど、ゆりなが何かを欲しがる素振りをみせた事は一度もない。
「いや、マンションがペット禁止で飼えないけど犬か猫を飼いたいって言ってたか。
ゆりなちゃんの家が無理ならウチで――って、動物はそんな気持ちで飼うものじゃないだろ……」
またしても思考が行き止まりに遭い、頭を叩いてリセットする。
「デートで買うものっていうと……。食べ物?」
閃きというか、今まで思考に靄がかかっていたのがパッと晴れた気がした。
「そっか。食べに行くのでもいいのか」
プレゼントが物であるという固定概念が取り払われ、俺の中での選択肢が一気に増えた。
すぐにスマホでスイーツ店を検索し、近場でお財布にも辛くない店を探して、良さそうなお店を見つけられた。
「ゆりなちゃん!」
校門から外に出て行くタイミングでゆりなを見つける事ができた。
「優輝くん、どうしたの?」
俺の声に振り返ったゆりなは、いつもよりどこか楽しそうだった。
「ゆりなちゃん、今日、誕生日だよね。おめでとう!」
「えっ!? ありがとう! 知ってくれてたの?」
「この前、卒アル観させてもらった時にプロフィール欄に書いてあったから」
「そうだったんだ! あ、優輝くんの誕生日は? 私、知らないや」
「7月だよ。7月29日。夏休み入っちゃうから、友達から祝われる機会も無いんだよね」
「今年は私がお祝いするからね」
「ありがとう! それでさ、ゆりなちゃんの誕生日のお祝いにケーキ屋さん行かない?」
俺が提案を口にすると、ゆりなは珍しく困った笑顔を俺に向けた。
「すっごく嬉しいんだけど、今日、私の誕生日だからお母さんが仕事を早く終わらせて帰ってきてくれるらしくて……」
ゆりなはすごく申し訳なさそうにして、地面に視線を落とした。
断られるシチュエーションを想定していなくて若干狼狽えたものの、ゆりなの家族がお祝いしてくれるというのであれば、ここは引くべきだろう。
「いやいや家でお祝いがあるなら、そっちを優先するべきだよ。俺の方は明日でも明後日でも、いつでもいいし。ね?」
「ありがとう、ごめんね。でも嬉しいよ。
私、買い出しがあるから、そろそろ行くね」
「うん、また明日」
「うん! バイバイ!」
いつもより少しだけ早足なゆりなの背中を見送って、俺は少しだけ寂しさをお土産にして家路に就いた。
スマホが震えたのは夜のロードワークに出掛けようと玄関のドアノブに手をかけた、まさにその瞬間だった。
「ゆりなちゃんからだ」
通知者の名前を見て、何だかとても悪い予感がした。
「もしもし」
『……』
電話の向こうでゆりなは無言だった。
電話をかけたタイミングで家族に呼ばれたのかもしれないと、少し待ってみたが沈黙は長く続いた。
「どうしたの? 何かあった?」
『……』
変わらずゆりなは無言だったけれど、涙交じりの鼻をすする音が聞こえ、俺は大体の事情を察する事ができた。
「そっち行くから、ちょっと待ってて」
『……うん』
「うん。じゃあ、切るね」
俺は自分でも驚くほど優しい声でゆりなに語り掛け、電話を切ると同時に勢いよく玄関の扉を開け、ゆりなのマンションを目指して夜の住宅街を全速力で走り抜けた。
「ゆりなちゃんっ!」
息を切らせてゆりなのマンションの前まで行くと部屋着にしてはオシャレなゆりながエントランスの前で立ち尽くしていた。
「……優輝くん」
俺の声に反応してゆっくりとゆりなは顔をこちらに向け、その表情に俺は少なからず驚いた。
数時間前に校門の前で別れた時の表情とはまるで別人と思えるほど、暗く沈んだ表情をしていた。
「公園、行こうか」
俺はゆりなの冷たい手を取り、いつもの公園に向かって歩いた。
ゆりなは歩くのも億劫になっているのか、引き摺るくらい強引にしないと足を前に出してくれなかった。
公園に到着し、木のベンチの座らせ、俺も隣に座る。
どんな言葉を掛けたらよいものか。気分が落ち込んでいる時には温かい飲み物を飲むと良いとネットに書いてったような気がして、自販機に行こうと立ち上がったが、ゆりなは強く繋いだ手を離してくれず、俺は仕方なく座り直した。
「ごめんね。急に意味の分からない電話しちゃって……」
「いいんだよ。どうしようもない時はいつだって呼んでくれていいからね」
「ありがとう……」
そう言ってゆりなは俺に寄り掛かり、また沈黙してしまった。
「……今日の事、お母さんには結構前から言っておいたんだよ。
普通の日はいいから、誕生日だけは一緒に過ごしたいって。
お母さんも分かったっていってくれてたのに、さっきで電話で仕事が長引いて、帰るのは深夜になるって。
私、我慢できなくて、お母さんに酷い事言っちゃった……。
私よりも仕事の方が大事なんでしょって……」
ゆりなは俺に寄り掛かったまま、抑揚無く、自嘲交じりに話しを続けた。
「わかってるの。お母さんが私の為に仕事を頑張ってくれているのは。
でも誕生日は一緒にいて欲しかった。364日一緒にいられなかったとしても誕生日だけは一緒にいたかった……」
ゆりなは体を震わせ、声を殺して涙を流した。
俺はゆりなに掛ける言葉が見つからず、肩に手をまわしてゆりなの体を抱き寄せた。
ゆりなも俺の体に抱き着き、俺の服を強く握りながら胸に顔を埋めて声を抑えて泣き続けた。
俺は空いていた手でゆりなの頭を優しく撫でながら、考えていた。
ゆりなの口からはずっと母親の話題しか挙がっていない。
思い返せば一度も父親について何か聞いた覚えがなかった。
離婚なのか、あるいは死別なのか。繊細な部分だからゆりなが話をしてくれるまで突っ込むつもりはないが、母子家庭であれだけ立派なマンションに住んでいるのなら、きっとゆりなのお母さんは女手一つという形で懸命に働いているのだと思う。
ゆりなもそれはわかっているから、きっとこれだけ辛い思いをしているのだろう。
「優輝くん」
名前を呼ばれて下を向くと、ゆりなは大粒の涙を浮かべながら縋るように俺を見つめていた。
街灯の薄明りに照らされたその瞳はとても蠱惑的で、男の本能に訴えかける誘惑に思わず生唾を飲み込んだ。
今、ゆりなが求めているものが俺にはわかる。
それはゆりなの心も満たされるし、俺だって色々と満たされる。
でも「それ」を今するのは、とてもズルい気がした。
今「それ」をすれば、ゆりなは心の全部を俺に預けてしまいそうだった。
それくらい今のゆりなは危ういと思えたし、ゆりなという高嶺の花を俺の欲望を満たす為にここで手折ってしまう事が俺には罪に思えてならなかった。
ただ、ここでゆりなを元気付けないとゆりなの家庭がぎこちなくなってしまう心配もあった。
ゆりなが目を閉じると溜まっていた涙が零れ落ち、ゆりなの手を握っていた俺の手の甲を滑り落ちていった。
目を閉じて「それ」を待つゆりなはいつもとは全く異なる魅力に溢れ、抑えたはずの本能を激しく刺激した。
欲望に震える右手を抑え、左手でゆりなの右頬に手を添えて狙いがブレないようにそっと支える。
ゆりなに顔を近づけると肌がキレイで整った造りをしていると思わずため息を吐きそうになってしまう。
――チュ。
俺が顔を離すと、ゆりなは驚いた表情で自分の左手で左頬を押さえた。
「……元気出たかな?」
「……う、うん」
ゆりなは驚いた表情を変えず、固い動きで小さく頷いた。
「もしかしたらゆりなちゃんはもっと先を望んでいたのかもしれないけど、俺にはゆりなちゃんが少しだけヤケになっているようにも見えるから、偽物の彼氏とそんな気持ちでキスなんてしたら、いつか後悔すると思ったから。
でも元気付けたいっていう気持ちもあるから、ほっぺで許して」
俺の言葉にゆりなは顔を伏せた。
「――はそうだよね」
「え?」
ゆりなが何を言ったのか聞き取れなかったが、ゆりなは俺から体を離し、立ち上がって公園の街灯の下に向かって歩き出し、俺もその後ろを追った。
「泣いたらちょっとすっきりしたよ」
ゆりなは振り返り、目元を赤くさせながらも笑顔を俺に向けてくれた。
「よかった。お母さん帰ってきたら、話せるようなら話をした方がいいよ」
「うん。感情的になってたって謝るよ」
「謝るか……」
「どうしたの?」
俺の反応にゆりなは首を傾げ、俺はゆりなを正面から目を合わせた。
「小学生の時に俺も親と喧嘩してさ、その時に言われた事があって。
自分が譲れないと思って怒ったのなら、そこは謝っちゃダメだって」
「譲れない……」
「そう。そこを譲って取り下げたら自分の気持ちとか考えを殺す事と変わりないから、ここがイヤで怒ったんだよって、相手と納得するまで話し合うべきだって」
「私にとって譲れないもの……」
「そう。さっきの364日一緒じゃなくたって誕生日だけは一緒にいたいって言葉をそのまま伝えたらお母さんもわかってくれると思うよ。
少なくとも俺にはゆりなちゃんが誕生日を大切にしたいって、すごく伝わったよ」
「……うん。そうだね。ちゃんと話し合ってみる」
ゆりなは力強く頷き、俺もようやく安心ができた。
翌日、ゆりなは体調不良で学校を休んだ。
「南が休みだと俺も元気出ねぇ……」
「な。島崎、何にも聞いてないん?」
「特に何も。誰だって体調悪い日ぐらいあるだろ」
「そりゃそうだけどさ……」
――ヴヴヴ。
2時間目が終わり、間の休み時間に友達と話しているとズボンのポケットのスマホが震え、会話に交じりながら画面を確認すると連絡をくれたのはゆりなだった。
『今日はズル休み!!』
不謹慎なタイトルと一緒に1枚の画像が貼付されていた。
送られてきた画像には、ゆりなよりも大人びて見える女性とゆりなが仲良く腕を組んで遊園地らしき場所にいる光景が収められていた。
俺は自然と上がる口角を隠す為に口で手を覆い、誰にも聞かれないように小さな声で離れたゆりなに祝福の言葉を送った。
「よかったね」
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